同時多発テロは「いわれなき」暴挙か 
     唯一の超大国によるグローバル・スタンダード-GS-との関連で
  「市場原理主義」の実態は
ダブルスタンダード以上の強者の横暴である
 

カトリック社会問題研究所『福音と社会』
第42巻 第1号、201号、2002・4・30、40-52貢。

                                             西 山 俊 彦

      

前号で、「9・11同時多発テロ」は暴挙ではあるが、「いわれなき」暴挙か否かは検討の結果による、と表明した。現代社会を特徴づける「グローバル化-GN-」は経済の領域に実現し、それは「市場原理マーケット・メカニズム」による世界の一元化と表 せるが、その実態はグローバル化と言えるかどうか、まずⅠ「バブル」の事例を検討し、次いでⅡ「市場原理」の基本である「基軸通貨制」と「労働市場」を吟味した上で、終わりにⅢそもそも原理的に「市場原理」なるものが
成立するのかどうかについて付言する。
           

   
Ⅰ 事実は何を語るか
                           あら

「事実」は最も雄弁な証拠であるが、凡ゆる事実は一定の立場を前提としたもの、だから、論理的

錯誤も事実として語られる。 

                                  (1)    おたけ  

「冷戦対決は過去のもの」「社会主義は瓦解した」、「資本主義が勝利した」との雄叫びが響くが、

                 

本当か。「社会主義(例・プーチンさん)が善くなかった」としても、通常論理では、「資本主義

                              (2) 

(例・小泉さん)は善い」ことにはならないはずなのにこの大合唱、世紀の投資家G・ソロスはこ

れを原理主義と呼ぶ――

「『計画経済』であれ『市場経済』であれ原理主義者の特徴は、二者択一の判断をすることだ。

                                                       (3)

 ・・・・・・国家介入が間違っているなら、では自由市場こそ充分であるにちがいない」と。「資本主

 の勝利」も原理主義の錯覚かもしれない。

 
 

――「バブルの発生と消滅」にみる

 
 

「市場原理」とは「価格メカニズム」のこと、「市場原理主義」とは「価格の調整機能だけでもっ

              (4)

て資源配分を行わせる」「自由放任主義」のこと、「人為的介入」の対立項だが、そんな「市場」

などあるのだろうか。「不毛の90年代」の原点に位置する「バブルの発生と消滅」に見てみたい。

      アブク 

「バブル―水泡」とは?

「バブル」とは「金融の超緩慢によりダブダブにだぶついたカネが土地および株に集中的に投下さ

                         (5)

れ、地価と株価の異常高を招いた現象」である。一体何が起こったのか。

 1985年12月に最高1万3129円だった株価は89年末には3万8915円を記録、「87年には、東京市場 

                                               (6)

は、時価総額がニューヨーク市場を上回って、世界最大のマーケット」となった。「87年から3年

                                    (7)

間での評価益は205兆円、ドル換算で1兆5000億ドル」「やや遅れて急騰を始めた土地とはいえば90

年にピークをつけるまでの累積キャピタル・ゲインが1420兆円、90年のGNPの 3・3倍、日本の 土

                                                   (8)

地資産額は90年末で2400兆円、これはアメリカ全土の土地資産額の約4倍」であった。 

    
 事の起こりは「レーガノミックス」だった

 

 事の起こりは、D・レーガン大統領が採用 

 

した政策にあった。1980年代米ソ対決酣の頃、

「小さな政府」と「福祉減税」をもって「経

         はか

済活性化」を企り、「軍備大増強」をもって

「冷戦勝利」を狙った戦略だった。結果は消

 

費拡大、景気上昇を手にしたものの、輸入の増大は経常収支の大幅赤字を招き、財政収支も改善さ

 

れず、世界一の純負債国となった。この実力以上の「強いアメリカ」を実現するために生じた双子

の赤字を穴埋めしたのがジャパン・マネーで、そのため、[図1]にあるように、米国は「高金利」

  

を、日本は「低金利」を長期にわたって維持したが、これらは「プラザ合意」(1985)とか「ルーブ

ル合意」(1987)などの国際協定と大蔵省の指導よろしきを得た結果だった。為替変動によって大幅

に 減価する見込みの米国債を大量に買い込むことが、「市場原理」に反していることは言うまでも

  (9)

ない。

 

「脅威の対象」日本

                                                        み ぞ う

 対米協力のために超低金利の金融緩和策を続けた日本は、株高・土地高で「未曾有の景気」を呈

し、湧きに湧いた。「80年代末の時点で、アメリカのそれが約25%に過ぎないのに対し、日本の土

                       (10)

地が国富総額の約70%を占めていた」とは、もはやウカレではなく異常だったが、米国債だけでな

く企業・不動産まで買いまくり、「BIS規制」の網をも軽々とくぐるジャパン・マネーの国・日本は

                                    (11)

双子の赤字に悩むアメリカにとって「悪の帝国」ソ連に代わる脅威の対象となった。

「日米構造協議」による日本封じ込め

                                                            (12)

「日本異質論」「日本脅威論」の台頭とともに「日本封じ込め」戦略を実行に移したのが、1989年

秋に始まった「日米構造協議」で、その目標はジャパン・マネーの源泉の壊滅だった。

 株高には系列等閉鎖的取引慣行、株式相互持合制などの解消が、土地高には都市近郊農地の利用

促進、土地税制の改革などの導入が奨められた。これらはもちろん、「日本国民の生活水準の向上」

                                                                  (13)

が名目で、このアメリカの“善意”の介入は、日本国民の不満と相まって「激しい土地バッシング」

となっていった。

「バブルの崩壊」は「第二の敗戦」

                                                           (14)

 日米協議がもたらしたものは、経常黒字縮小のための、10年間に430兆円にも630兆円にも上る公

共投資で、これが財政破綻へと発展するが、もっとも深刻だったのが「90年の初めからすでに下落

                                (15)

が始まっていた証券市場の崩落を加速させたこと」で、それにはソロモン・ブラザース等米大手証

           (16)                             アブク

券がからんでいた、といわれる。土地高・株高は、所詮、「評価高」にすぎない。評価が変われば

一気に「評価損」の奈落へ真っ逆さま、後には累々と不良債権の山が残る。

「第二の敗戦」の損害額は?

                                                    (17)

「アジアの通貨危機以降、日本は経済的に米国財務省の占領下に置かれている」として「バブルの

                         たと

崩壊」は「第二の敗戦」に喩えられる。その損害は、89-92年の3年間に限っても、「土地の評価

損で379兆円、株式で420兆円、計800兆円で、これは国富の11・3%に相当し、第二次大戦での物的

損害、国富の14~15%とほぼ同額。それ以降も地価・株価がさらに大幅に下げ続けたのだから、

                 (18)

『損害』は格段に膨らんで」いる。この他に、米国債等のドル資産の減価、ゼロ金利等による毎年

                                       モ ノ

10兆円にはなる利子所得の消滅等々、「実物経済」への波及としては買い控えによる全般的不活性

化、リストラ・失業・生活不安・安全ネット関連の支出の増大等々、デフレ・スパイラルによる損

失は「第一の敗戦」のそれを大きく上回っている。

 以上、「事実は何を語るのか?」との視点から「バブルの発生と崩壊」について述べてきたのは

他でもない、日米経済関係諸事実の何をもって「市場原理」のなせる業と見なすのか、を問うため

だった。列挙した全事実が「市場原理」のなせる業でないとすると(なぜなら、そのとき経済行為

の全てが「必然」とも「運命」ともなるのだから)、どれが「市場原理」でどれが「人為的介入」

の仕業なのか。「ダブダブにだぶつかせた金融政策の超緩慢」はどうなのか。そして、その遠因で

ある「冷戦」と「レーガノミックス」はどうなのか。ドル還流策とそのために絶妙、かつ今日まで

続けられている「写真金利」の設定他、「プラザ合意」「ルーブル合意」「行政指導」「構造協議」

等々、恫喝と協議、妥協と合意、協定と忍従の数々は「人為的介入」でなかったとでもいうのか。

 確かに一定の金利差を設定した上で「市場原理」に委せておけば、ドルは安泰というものだろう。

しかし「価格メカニズム」が「機能する」には、交換される資材の他に、それが機能できる貨幣単

                                                           あら

位も、交換基準も、金融…制度も、即ち、市場経済が成立する凡ゆる要素要件が必要である上に、

それらは歴史・社会・文化…的各国事情を背景としているはずである。或いは、目下君臨している

唯一の超大国の基準だけが「市場原理」であって、他は全て「市場原理」ではないとでも言うのだ

ろうか。ならば、その超大国の市場原理だけがどこにも誰にも有効なスタンダードであることを、

次章に予定する諸事実をも含めて、見せてもらおう。しかし、その時、市場経済の一切合財が「『自

由』の女神」「『自由』放任」が決定した「必然」とも「運命」ともなって、アメリカの文化と暦

史と社会とも無縁のものとなることも示さなければならなくなる。

              、 、 、 、

 要するに「市場原理」なるものは、市場の機能をも、機能できる要件をも一切合財をひっくるめ

て、抽象的に、その裏付けをも怠って、「市場原理」と極めつける「原理主義」の一つであること

                                             イデオロギー                          まか

である事実の裏付けとは無縁の「原理主義」は主義主張の類であって、この言説の罷り通るところ

には、最早、他者との対話も現実との対応も不要となり、露骨な実力だけが支配する世界となるが、

それは、当該国以外には、忍従と隷属を強いる暴力行使に他ならない。

 
Ⅱ そもそも「市場原理」は公正か
 
 

「市場原理」が原理であれば、誰にとっても同一で、その適用も同じはずだ。もちろんそれだけで

強者による基準が弱者にとっても公正となるわけではないが、同一基準の同一適用さえ守られてい

ないのであれば、その検討は不要となる。さきに①「基準通貨」の、次いで②「労働力」の、グロ

ーバル化の実態を検討する。

  
  
   
 
   
                                                                 は

 GNもGSも、ともに、グローバルなものならば、最貧国に当て嵌まるものはアメリカにも当て

嵌まり、アメリカに当て嵌まらないものは最貧国にも当て嵌まらないはずである。しかし、「基軸

通貨制」のメリットはこの逆となっている。

「構造調整」を強いられる「重債務低所得国」

  

「ジュビリー2000」

 1998年、国連は紀元2000年を「ジュビリー2000」と宣言し、途上諸国が貧困と債務の重荷から解

放され、「21世紀は、地球上のすべての人が人間らしく生きられる世界にする」と決議した。これ

                                             (19)

を受けて「ケルン・サミット」(1999年6月)では、「重債務貧困国」36ヵ国の約2100億ドルの債務

の3分の1、即ち、700億ドルの“帳消し”を決定した。

  

“借金地獄”

“借金地獄”とは低所得国において、借りたお金より返すお金のほうが多くなる状態。「1970年に

                                                                 (20)

177億4400万ドルだった債務が、1996年には4516億8800万ドルへと、25年間に25倍に膨れ上がっ」

た。この状態を脱するには債務削減・債務帳消ししかないが、その際IMFが決まって持ち出すの

が「構造調整」という処方箋である。

   

「構造調整 Structural Adjustment Program -SAP-」

「SAP」とは、債務返済困難な国に対し「支出を減らし、輸出・税収を増やして均衡化を図る」

ようIMFが求める対応策で、これにより「子どもが学校に行けなくなり、医薬品の入手が困難に

なり、働き手の失職…果ては借金返済がますます不可能となる」など、悲惨な結果が待っている。

 ここに再度確認しておきたいのは、重債務低所得国の債務総額が2100億ドル、途上国全体(低・

                                                  (21)

中所得国)の債務総額が、1999年現在、2兆5606億ドル、という事実である。

 

「世界最大の負債国」は左ウチワ

 全途上国債務に匹敵する負債額

                   シリメ

 途上諸国の窮状を後目に繁栄を謳歌する「世界最大の負債国」がある。アメリカである。対外純

                                (22)

負債総額は、1999年6月末現在、2兆4338億ドル、全途上国の債務総額に匹敵するが、IMFがア

メリカにSAPを課すことはない。

  

 ドルは「基軸通貨」

 ドルはアメリカの通貨であると同時に、世界の「基軸通貨」である。自国の通貨だからいくらで

      (23)                       (24)

も増刷でき、双子の赤字もさほど問題ではなく、非基軸通貨国が受け取ってくれる限りその地位に

留まり、SAPを課されることもない。

 唯一肝要なことは、アメリカへのドル還流システムを確立しておくことで、これによって「世界

最大の債務国であるアメリカ経済は空前の好況に沸き、世界最大の債権国で…ある日本がデフレ圧

                                        (25)

力に苦しみ経済危機に陥る、経済史上類を見ない奇妙な現象」が起きている。

   

 

 尻を叩かれ続ける日本

 吉川元忠は、「バブル崩壊」以降の日米の対称的構図を次のようにも表現する――

 「日本は異常な低金利を続けていることで、資金はより高い金利を求めてアメリカへと還流して

 いく。アメリカは日本から提供される資本で国際収支の赤字を埋め、空前の株式の高騰を産み出

 し、さらにその余りを世界中に投資することでドル基軸を維持している。つまり、アメリカの繁

 栄を支えているのはジャパン・マネーという構図であり」、しかも「アジアのバブル崩壊のきっ

 かけとなった通貨危機で暗躍した投機資金の出所も元をただせば日本の異常な低金利資金を利用

             (26)

 しているのである。」

 今や日本は不況のドン底、しかも、事ある毎に、「金融緩和」「金融緩和」と尻を叩かれ、原資

                                (27)

を提供し続ける態は、対米一辺倒の無策の帰結だ。しかしこれが、GNの本来の姿なのかも知れな

い。

  

 「基軸通貨制」は搾取の体制

                         うま

 世に「通貨発行権」ほど旨みのあるものはない。「シンニョレッジ―S―君主特権」と言われて

きたのはそのためで、世界に通用するドルの場合「アメリカは自国の経済規模を遥かに上回る権利

   (28)

と利益」を手にしている。「非基軸通貨国が、自国の生産に見合った額しか流通させられない-な

            (28)

ぜならインフレになるだけ-」のに対し、アメリカには「基軸通貨として国外で保有されているド

                    (28)

ルの価値分が『君主特権』とな」る。

 その分“実力”以上の「強大なアメリカ」「優雅な生活スタイル」を可能にするが、今米国の経

済実力を GNPと置き、「S」を世界各国が有するドルでの外貨準備と置くと、その差(1997年値)

           (29)

は、何と、2.19倍、経済規模が世界最大のアメリカがそれに倍する支配力(経済覇権)を行使する。

この同一線上に、先に指摘した、経常赤字の「垂れ流し」効果もある。例えば「プラザ合意」時の

                         (30)

1ドル240円が2年後に120円になれば、日本のドル資産は半減し、その分、自動的に、アメリカの

                      (31)                   (32)

懐のものとなる。「一種の徳政令」は為替安定の責務に反するが、基軸通貨国の実力が衰え道義的

タガが緩みだすと、基軸通貨が基軸通貨でなくなる日まで、際限なく他国の資産を搾取し続けるこ

とができる。

   

 最貧国には「構造調整」を、最富国には「特権」を

 ドル基軸制を金融面でのグローバル化とみなすとき、それは次のように要約される。

 

 ――重債務最貧国にはSAPを課して一層貧しくし、世界最大の負債を抱える最富強国には搾取

       ほしい まま

 と収奪を恣にする、経済覇権を保証する制度である――と。

 しかし、「フェア」で「オープン」なGN時代の最大の不可思議は、政治的・経済的・軍事的に

                               (33)

アメリカにとって代わる強国が現われない限り、ドルに代わる通貨を協議することさえ、体制崩壊

                                    (34) 

を企る暴挙として、基軸通貨国が許さない事実である。

 
 
 

 

 
  

 グローバル化された現代社会に2200万の難民がいる。不思議である――政治難民であれ経済

難民であれ、資本、資源、技術、組織、情報、サービス等々、全ての生産要素が自由化、グローバ

ル化されているはずの社会に、経済行為の主体であり目的である労働者の自由がないことは――。

GNの実態は、最も基本的な点で、その主旨とは正反対である。

 ここで、労働力(者)のグローバル化は、世界規模の「労働市場」の一元化を瞬時に、完成する

                                             (35)

ことを確認しておきたい。今「一人当たり国民所得GNI、p・c・」を使って、丸めた表現をすれ

ば、2000年現在、100ドルのエチオピアとコンゴ民主共和国(旧ザイール)等、低所得国の平均は

420ドル、2080ドルのコロンビア等、中所得国の平均は1970ドル、高所得国では、38120ドルのス

イス、34210ドルの日本等、その平均は27510ドルである。

 それが、労働力の自由化に踏み切ったとたん、各人は自由な利潤追求に生きるのだから、民族大

移動が突然(水が自ら高低を直すと同様)発生し、低所得国の24億5900万人だけでなく、中所得国

の26億9300万人、合わせて51億5200万人の大波が、9億300万人の高所得国に押し寄せる。これは

 

瞬時に始まり、瞬時に“完了”する。

 その結果は、ほぼ誰もが現在の世界平均5150ドル近辺に納まることになるが、これは生活水準を

 

高所得国では5分の1以下、日本ではほぼ7分の1に急落させることを意味する。これこそ「市場

原理」の妙技、「労働資源の効率化」に他ならないが、「モノ」と「金融」のグローバル化を唱え

て止まない「市場原理主義」者も、労働力の自由化ばかりは押し黙り、軍事力と警察力で国境を固

 

めて怪しまない。

 ここで断っておかねばならないのは、「モノの自由化、金融の自由化だけでよいではないか、そ

れらは直接投資を促し多国籍企業を展開させ、途上国に産業を興して労働の機会を提供し、国民全

体にもトリックリング・ダウン(滴り落ちる、または、おこぼれに与かれる)の利益が浸透し、結

 

果的にはキャッチ・アップの機会を提供しているのだから」という開発主義者の見解は、先進国の

エゴ、資本の利益だけを代弁する反「市場原理」主義だということである。

 なぜなら、直接投資と開発援助の後に残るものが莫大な債務と地元産業の崩壊であることの他に

先進諸国からの海外進出は、途上諸国の廉価な労働力を廉価なままに、そして劣悪な労働条件下に

 

隔離して徹底搾取し続けて資本の効率化を企る、現代の奴隷制に等しいからに他ならない。

 

 その上それが、資本・金融の自由化自体、地元経済の振興を意図したものではサラサラなく、利

 

潤確保のための、“変わり身の早いもの”でしかないことは、1997年7月のタイを皮切りに荒れ狂っ

                          (36)

たアジアの通貨危機において明白である。

 

 以上、グローバル化の実際がいかに恣意的、一方的なものであるかを、「市場経済」を基礎づけ

 

る「基軸通貨制」と「労働市場」の現実に確認した。覇権国(と先進国)の利益は徹底擁護し、被

                                                              ・ ・

支配国の権利は徹底無視では普遍性のカケラもなく、「市場原理」に代わって「市場原理主義」と

 

呼ばれなくてはならない。これが近年のGN反対運動の主因と考えられるが、次に、それでは「市

 

場原理」は原理的に成立可能なのかを確認しなければならない。

 
 
 
Ⅲ 「市場原理」はお題目ではないのか
 
 

 これまでに2部を設け、「市場原理」即ち「価格メカニズム」のなせる業が、本当に「市場」自

 

体の決定、公正なものと見なせるかどうかについて、「基軸通貨制」「労働市場」などの事実を検

 

討した。

 

 それらが権力構造を反映しない「自由放任」の産物でも、勢力格差と無関係な「公正な」もので

                                            ・ ・

もなかったことは、既述のとおりではあるが、「市場経済」の現実がそうであっても「市場原理」

 ・ ・

理論は、原理的に「効率的」で「公正」であると主張されるかもしれない。ここに紙幅の許す限り

 

付言しなければならない理由である。

 
          [図2]           「市場原理」の成立・不成立の要件   
       
  A.  成立:「完全競争市場」の可能性  
   

1.一物一価

取引の財・サービスは同質

   

2.プライス・テーカー

価格は所与、価格支配者はいない

   

3.情報共有・完全予見

情報熟知、将来をも予測

   

4.全員対等

参入退出の自由、コストも規制も不在

   

 

 

       
  B.  不成立:「市場の失敗」の可能性  
   

1.機能不全

 

   

 

(1) 価格メカニズムの不全

ポスト工業化社会での収穫逓増

   

 

(2) 市場不在

外部性、公共財、将来財

   

2.分配の不公正

 

   

 

(1) 既得権益(私有物)」の独占

パレート最適原則の制約

   

 

(2) 環境的制約に基づく倫理危機

支払能力以前の問題

            

  

「完全競争市場」は非現実的

「市場原理」の有効性は、長らく新古典派経済学にとっての不滅の真理とみなされ、冷戦終結以降 

                                          はばから

巷間に響く市場経済礼賛の大合唱の前では、ささやかな批判も躊躇れるほどである。しかし、「市  

 

場原理」の成立は「完全競争市場」という理論的モデルの成立が前提であり、これには[図2]に

                         (37)

示した4条件の充足が不可欠であるが、これらの条件が非現実的であれば、「完全競争市場」のモ

              (38)

デルも非現実的となる。これら4条件を要約的に表現する「収穫逓減の法則」は「金融資本主義」

が主流となってきた現代には、もはや成立しないことだけを述べておきたい。

「金融資本主義」には「収穫逓減の法則」

 産業革命から2世紀以上を経過して、資本主義の変質が指摘される。工業製品の製造(と販売)

            モ ノ

が中心であった「産業資本主義」「工業化社会」から、サービス化、情報化、金融経済の肥大化、

                    (39)          マネー

投機化という「経済のソフト化」の進展した「金融資本主義」「ポスト工業化社会」への変遷であ

る。

                                                           (40)

 前者では「収穫逓減(限界費用の逓増)」が支配し「複数個の企業が市場を分け合い」「完全競

争」が保たれ「独占・寡占」への移行は起こらない。ところが後者では「限界費用の逓減(収穫逓

増)」がとって代わる。なぜなら「開発済みのコンピューター・ソフトの限界費用はほとんどゼロ

     (41)                        (42)

に等しく」「その結果、市場競争が『一人がち』に終わる公算が高まり、企業間の収益格差が、そ

                                 (43)

して個人間の所得格差が際限なく高まることにな」る。C・ジョンソンに言わせれば「金融資本主

                                                           (44)

義では、…お金を操作することによってお金をつくるという、金の増殖が自己目的化し」て、産業

基盤の破壊も一国の金融制度の崩壊もお構いなしであるだけでなく、為替市場での取引だけで一日

                     (45)     (46)

1兆5000億ドル、貿易取引の70倍とも100倍ともなって、24時間営業のカジノ経済は社会全体を支配

(47)                                 (48)

し、主権国家のコントロールさえ効かないほどとなる。

 以上、「収穫逓増」の検討から明らかとなるのは、少なくとも「金融資本主義」の時代にあって

                                                           つと

は、「完全競争市場」は原理的に成立せず、「市場原理」も成立しないが、これは、夙に諸権威の

見解でもあった――

 「完全競争はただ不可能であるばかりでなく、劣等なものであり、理想的効率のモデルとして認

                               (49)

 定すべきなんらの資格も有しないものである。」(J・シュンペーター)

 「純粋な市場経済がうまくいくというのは一種の信仰であって、決して理論的にも実際上も論証

              (50)

 されたことではない。」(佐伯啓思)

 「多くの経済学者や実務家は、問題の解決は市場の機能に任せるべきと自由放任的に考えている。

                                                   (51)

 私は、これを90年代の『単純で御都合主義のイデオロギー』と呼んでいる。」(榊原英資)

 
 
 

    ――要約にかえて――

 
 

「市場原理」は「理想的モデルに値するものではな」く「一種の信仰」であり、「単純で御都合主

義のイデオロギー」であることは、本稿での吟味と一致している。それは本稿の「日米経済関係」

に見ても人為的関与のない事実はなかったし、何よりも市場主義者は、何が「市場」で何が「市場

でない」かの規定をせず、一切合財に市場というレッテルを貼って決めつけただけではないのか、

を結論とさせるものだった。Ⅱ部で明らかにした、市場を構成する最重要素に違いない「基軸通貨」

と「労働市場」の実態は、これが「原理」であり「原理の適用」であるとは信じられない独善その

もの、覇権主義者に奉仕する仕掛けでしかないことを示していた。Ⅲ部では、「市場原理」は原理

的に成立せず、「独りよがりの信仰」、主義主張を正当化する「イデオロギー」であることを露呈

                                 、 、               、 、 、 、       、 、 、 、

させた。だから「市場原理」はその名も「市場主義」と称され、「市場原理主義」「市場原理至上

 、 、

主義」と当初から、明記されていたのではあったが、だからと言って、本稿での細やかな検討が無

意味だったとは思えない。

                                                                 しか

「市場原理」の内実が以上のとおりであるとすると、それに範と採る「グローバル化」もまた然り、

となるが、そこで反問しなければならないのは、ではなぜ「市場礼賛」「グローバル化崇拝」の合

        ふうび

唱が一世を風靡するかの感を与えているかであるが、それはまさに、現代が史上最強最大の覇権主

義の時代であるからに他ならない。いかなる秩序でも、その秩序が、正しくなければなお一層、そ

                           イデオロギー

の成立維持のため、正当性を裏付ける価値規範を必要とすることは、誰しも認めるところであろう。

グローバル覇権体制にはグローバルな価値規範が不可欠であるという点においてもまた同じ、であ

る。だからこそ「市場原理主義」が「グローバライゼーション」が要るのであって、それがいかに

単純浅薄、ただうわべだけのものであっても構わない。

                         こだま

『市場原理主義」の勝利の雄叫びが谺する――ニューヨークにも、ロンドンにも、フランクフルト

にも、そして東京にも。しかし、同じ雄叫びがアフガンの地にも(次回から登場する)パレスチナ

にも、沖縄にも谺していると言えるだろうか。格差拡大、窮乏化の一方の極に置かれた者にとって、

                           か

グローバル化はまさにその日の生存が懸かるものである。強権支配の体制の前にその存在は余りに

                             ほうじょう

無力でも、彼らとて、国境の向こう側には豊饒と飽食に明け暮れる人々がいることを、情報化のこ

の時代には同時的に知っている。

         

【注釈】

(1) 経済史学者ロバート・L・ハイルブロナーの言。榊原英資『市場主義の終焉』(PHP研究所、1999、139頁参照)。
(2) 佐和隆光『漂流する資本主義』(ダイアモンド社、1999、20頁)。
(3) G.ソロス『グローバル資本主義の危機』(日本経済新聞社、1999、199頁)。
(4) さくら総合研究所編『経済用語の基礎知識1999-2000』(ダイヤモンド社、1999、36頁)。
(5) 飯田経夫・水野隆徳『金融敗戦を超えて』(東洋経済新報社、1998、59頁)。
(6) 飯田経夫・水野隆徳『前掲書』(62頁)。
(7) 吉川元忠『マネー敗戦』(文藝春秋、1998、87頁)。
(8) 吉川言忠『前掲書』(110頁)。「86-89年間に物価はほとんど上下しなかったのに対し、株価が32%、地価が23%の上昇だった。」(岸宣仁『賢人たちの誤算-検証バブル経済-』日本経済新聞社、1994、54頁)。
(9) P・F・ドラッカー『新しい現実』ダイヤモンド社、1989、170-171頁)。
(10) 吉川元忠『前掲書』(110頁)。
(11) 吉川元忠『前掲書』(111頁)。
(12) 飯田経夫・水野隆徳『前掲書』(80頁)。
(13) 吉川元忠『前掲書』(114頁)。
(14) 石原慎太郎監修『国家意思のある「円」』(光文社、2000、90-97頁)。
(15) 吉川元忠『前掲書』(114頁)。
(16) 飯田経夫・水野隆徳『前掲書』(112-113頁)。 中尾茂夫『ドル支配は続くか』(筑摩書房、1998、75頁)。
(17) “Big Man in Tokyo. The U.S. puts it's stamp on Japan's economic policy-but can Lawrence Summers succeed where
Ryutaro Hashimoto failed?  (Far Eastem Economic Review,July 2,1988,18-19)
(18) 吉川元忠『YENは日本人を幸せにするか』(NHK出版、1997、208頁)。
(19) 「重債務貧困国」(Highly Indebted Poor Countries)とは、国際通貨基金(IMF)の基準で、
一人当たり国民総生産(GNP p・c・)が695ドル以下、債務が年間輸出額の2.2倍以上かGNPの80%以上の国。現在アフリカ、
中南米、アジアにあわせて41ヵ国ある。」(『朝日新聞』(1999・7・28、(8))。 
(20) 債務帳消しキャンペーン日本実行委員会編『債務の鎖をたちきるために』(1998、4―6頁)。
(21) World bank, World Development Report 2002. (Oxford U.P., 2001, p.239) ;
OECD, Extrnal Debt Statistics, Mairn Aggregates 1998-1999, 2000.(http://www.oecd.org/dac/debt/ )
(22) 湯野勉「積み上がる国際金融リスク」、加野忠・砂村賢・湯野勉編著『マネー・マーケットの大潮流』(東洋経済新報社、
1999,17-46、24頁)及び、
BEA News Release, “US Int'l Trade in Goods and Services, Jan.'99 to Sept. '01.”
http://www/bea.doc.gov./bea/news-rel/trade 0901.htm. )
(23) 第一次「石油危機に際して増刷されたアメリカの資金は一説に2兆ドルとも3兆ドルにのぼるともいわれる。」(邱永漢
『マネーゲーム敗れたり』PHP研究所、1999、27頁)。佐藤隆三『円高亡国論』(講談社、1995、108頁)。
(24) アメリカの国債発行残高は、1992年末現在で、4兆1770億ドル、GNPの67.3%(石山嘉英「アメリカの財政赤字とマクロ
経済」山口光秀・島田晴雄『アメリカ財政と世界経済』東洋経済新報社、1994、47-79、49頁)。
98年度に近年初めて700億ドルの財政黒字を計上し(中尾茂夫『前掲書』61-62頁)、以後3年黒字である(坂本正弘
『パックス・アメリカーナと日本』中央大学出版部、2001、58頁)が、2001/01会計年度は1060億ドル、2002/03年度は
800億ドルの赤字を予想している。(『朝日新聞』2002・1・24、(10))。なお、アメリカは財政赤字に対応した熱意を経常
赤字には示さない(今宮謙二『金融不安定構造』新日本出版社、1995、80頁)。
(25) 吉川元忠『経済覇権-ドル一極体制との決別-』(PHP研究所、1999、142頁)。
(26) 吉川元忠『前掲書』(1999、126-127頁)。
(27) 石原慎太郎監修『前掲書』(25頁他)。寺島実郎「米国追わずモノづくりを」(『朝日新聞』2000・5・1、(1)(23) )。
吉川元忠『前掲書』(1999、166頁)。
(28) 岩井克人『二十一世紀の資本主義』(筑摩書房、54頁)。
(29) 西山俊彦「基軸通貨ドルの発行は米国にどれほどの利益を・・・」(大阪教区「正義と平和」協議会『いんふぉめいしょん』
第130号、2000・6・20他。
(30) 「蓄蔵手段として利用される場合、相場変動のリスクはすべて非基軸通貨国へおしつけられる。」(今宮謙二『前掲書』、
86頁)。IMFの特別引出し権(SDR)との比較でみれば、固定相場制の1970年では1ドル1SDRであったものが、プラザ合意の85年には0.91SDR、95年には0.66SDRとなって、その間34%減価した。吉川元忠『前掲書』(1997、150頁)。『前掲書』
(1999、86頁)。
(31) 吉川元忠『前掲書』(1997、62頁)。
(32) 岩井克人『前掲書』(58頁他)。今宮謙二『前掲書』(86頁他)。吉川元忠『前掲書』(1999、143頁)。
(33) 神沢正典「『ドル本位制』と債務累積」(深町郁彌『ドル本位制の研究』日本経済評論社、1993、367-391、388頁)。
(34) 吉川元忠『前掲書』(1999、240、242頁)。岩井克人『前掲書』(4-78頁)。
(35) World Bank, op.cit.
(36) 金子勝『反グローバリズム』(岩波書店、1999、9、92頁)。
(37) 石原敬子『産業政策の原理と現実』(晃洋書房、1997、16-32頁)。越後和典『競争と独占』(ミネルヴァ書房、1985)。
小西唯雄編『産業組織論の新潮流と競争政策』(晃洋書房、1994)。
(38) 「…理想状態とされる『競争的均衡』にあっては、均衡価格に落ち着くから、価格をめぐる競争も存在しないことになる。
要するに『完全』競争とは実際、すべての競争的活動の不在を意味するというほかはない。」(石原敬子『前掲書』、21頁)。
F・A・ハイエク、越後和典『前掲書』(56頁参照)。
(39) 佐和隆光『資本主義の再定義』(岩波書店、1995、46頁)。
(40) 佐和隆光『前掲書』(1999、14頁)。
(41) 佐和隆光『前掲書』(1995、47頁)。
(42) 「…現代サービス産業における規制緩和はグローバルなレベルで独占や寡占を促進して行く。」(金子勝『前掲書』1999、
41頁)。
(43) 佐和隆光『前掲書』(1999、239頁)。
(44)   「A・スミスもJ・ボブソンも、金融資本主義によって彼らが…帝国主義などと呼んだグローバル経済の病理が生まれると信じていた。それは…交換によってたがいに利益を得るのではなく、一方的に、他人から取り上げるまぎれもない搾取なのだ。」(C・ジョンソン『アメリカ帝国への報復』集英社、2000、250頁)。
(45) J・L・イートウェル・L・J・ティラー『金融グローバル化の危機』(岩波書店、2001、4頁)。湯野勉『前掲論文』(18頁)。
(46) 寺島実郎「エンロン・史上最大の経営破たん」NHK12、2002・2・25、22:00-22:45)。
(47)   K・v・ウォルフレン『アメリカを幸福にし世界を不幸にする不条理な仕組み』(ダイヤモンド社、2000、40頁)。
吉川元忠『前掲書』(1999、150頁)。
(48) K・v・ウォルフレン『前掲書』(48頁)。S・ストレンジ『カジノ資本主義』(岩波書店、1988、14頁、29-33頁)。
(49) J・シュンペーター(1942)『資本主義・社会主義・民主主義(上)』(東洋経済新報社、1962、193頁。傍線筆者)。
(50) 佐伯啓思『ケインズの予言-幻想のグローバル資本主義-』(PHP研究所、1999、18頁)。
(51) 榊原英資『前掲書』(193頁)。

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