同時多発テロは「いわれなき」暴挙か 
      〈最終回〉唯一の超大国によるグローバル・スタンダード−GS−との関連で

            

 


 

 ユニラテラリズム
国益至上主義に代えて

         グローバリズム
  
真の人類共同体を目ざすために

 
 

カトリック社会問題研究所『福音と社会』
第42巻 第3号、204号、2002・10・31、96-107頁。

                                             西 山 俊 彦

      

 昨年南アフリカはダーバンで開かれた「反人種主義・差別撤廃世界会議」(8・31〜9・8)が、「イスラエルの仕打ちを
                                       
(1)
弾劾せずに終わった時」「何か起こるだろうという予感はあった」とは武者小路公秀の弁、「同時多発テロ」が発生した
                                      
 
のはその3日後だった。「テロ」は暴挙であったが「謂われなき」暴挙ではなかった。「アフガニスタン空爆」も同様で

ある。

                         

 「アフガニスタン空爆」は暴挙では?

 9・11テロ へのアメリカの対応は“唯一の超大国”の真価を見せつけた。10月7日に空爆開始、

翌月にはタリバン政権を崩壊させ、ボン会議を経て本年6月にはロヤ・ジルカ(国民大会議)でもっ

てカルザイ大統領を正式化し、民主化路線の国造りを軌道に乗せたと言われている。しかし、掃蕩

                            (2)

作戦は継続中で、被害も判らず、治安も定まらない。

 とにかく、「犯人引渡し条約」等の国際ルールを無視して武力行使し、一国の政権をも葬ってし

まうことはいかに常軌を逸したことかを、N.チョムスキーは次のように描写する――

 「IRA(アイルランド共和国軍)の爆弾がロンドンで炸裂したとき、西ベルファアストを爆撃

 せよという声は起こらなかった。また、IRA資金の大半はボストンから出ているが、ボストン

 を爆破する話も出ず、手順を尽くして犯罪者を捕える方法が取られた。…オクラホマ・シティで

 連邦ビルが爆破されたとき、中東を爆撃せよという声が上がったが、国内の極右の武装集団が関

                                                                                   (3)

 係していることがわかったとき、モンタナやアイダホを抹消しろという声は出なかった。」

 このような行動規範を持つアメリカをクリントン前大統領とオルブライト前国務長官は「可能な

    マルチラテラル                 ユニラテラル            (4)

時には協調して、必要なときには独断で行動する国家」と公言し、ラムズフェルト現国務長官は

                                                                    (5)

「要はアメリカがアメリカ的な生活を続ける権利を世界に認めさせること」と表明した。アーミテ 

                                             (6)

ージ現国務副長官の信念も同様であるところから、チョムスキーは次の結論をためらわない――

 「忘れてはならないのは、米国自信が『テロ国家の親玉』だということである。ロシア、中国、

 インド、インドネシア、トルコ、…そして何よりもイスラエルがアフガニスタン空爆に大喜び、

                                                        (7)

 彼らがそれぞれの残虐行為を誰はばかることなく行うお墨付けをもらえるからだ。」

 これまで4回にわたって「グローバル・スタンダード」の内実、「市場原理主義」の背理、「パ

レスチナ問題」の現況、そして、「沖縄の恒久基地化」の時代錯誤を取り上げ、アメリカがいかに

経済的、政治的、軍事的覇権を揮ってきたかを紹介した。誰に対しても同一基準を適用し、「フェ

ア」「オープン」「ユニバーサル」な秩序の進行するグローバル化―GN―の現代に、なぜこのよ

うな覇権主義が巾を利かせるのかを見究めておかねばならない。

                                               アメリカン・ヘジェモニー
T「グローバライゼーション―GN―」とは一極覇権秩序のこと

 1.「グローバライゼーション―GN―」とは

 GNの定義を再掲すれば、それは「通信手段の発達など、地球文化の発展によって、地球全体の

文化や経済が以前より強く結びつくようになること、そして好むと好まざるとに拘らず(あらゆる

                                           (8)

地球構成員が)その中に取り込まれていくこと」である。いかなる社会にも一定秩序があり、或い

はより正確には、「一定秩序があるから、一定社会が成立している。秩序には「戦争・戦乱が起こ

らない」という「安定」に関するものから、「支払いが滞らない」という「金融」に関するものな

                                                                                         (9)

ど、全社会的機能について想定されるが、各種公共財の整備・供給も基本的な秩序の一つである。

 2.グローバル・スタンダードはアメリカン・スタンダード

 ところで グローバル社会を統御する世界政府は存在しないし、グローバル秩序―GO―のための

グローバル・スタンダード―GS―も存在しない。しかし、各国がエゴと対立の無政府状態に身を

委せられないとすると、大国を中心とした合従連衡が一策、今冷戦が終結して、「唯一の超大国ア

メリカ」が出現すれば、アメリカン・スタンダード―AS―がGSとなり、覇権国アメリカによる

支配秩序がGOとなる。間違ってはならないのは、GSもGOもグローバルに妥当するからグロー

                                                           グローバル

バルなのではなく、覇権国アメリカの基準、アメリカの秩序が世界大に適用されるからGSとかG

Oと言われるに過ぎないことである。だからGSとされているものが、

 「アメリカの『国益』、さらに、(アメリカの)特定業界や企業の利益に応じたものであっても、

 何の不思議もない。アメリカ政府は、世界にではなく、アメリカ社会に対して責任を負っている

      (10)

 からだ」。

 もっとも、ASであってもGSとして適用されるには、G社会の過半数に承認・遵守されること

が必要となるが、現実政治での承認が武力実力の差による屈服恭順であっても構わない。だから、

C・ジョンソンは、

 「GNとは19世紀に帝国主義と呼ばれていたものを(世界大の支配―被支配関係を中和する意

                                                   (11)

 味で―追加―)もっともらしく言い換えただけの言葉」

 と指摘する。

 3.唯一の超大国アメリカ

 カーター政権の国家安全保障担当補佐官だったZ・ブレジンスキーによれば

 

 「20世紀最後の10年には、…ソ連の敗北と崩壊によって、西半球の大国アメリカは……有史

                                                                    (12)

 以来はじめて、ほんとうの意味で世界全体を勢力圏とする大国になった」。

 歴史的には、アレキサンダー大王、秦の始皇帝、…ナポレオン…等々、強大な帝国を築いた覇者が

がいなかった訳ではない。しかし、

 「現代の世界覇権国アメリカは覇権の及ぶ範囲や浸透度の点で過去に類をみない。世界のすべて

                                                                                           (13)

 の海を支配しているだけでなく…アメリカの属国と進貢国はユーラシア大陸全域に散在している」

 

ブレジンスキーは覇権国の当事者として一層大胆で断定的な結論を呈して怪しまない――

 「このような状態を考えれば当面(少なくとも今後30年以上)、世界の唯一の覇権国としてのア

 メリカの立場に単独で挑戦する国が出てくるとは考えにくい。世界の舞台でのアメリカの圧倒的

 な政治力は4つの重要な側面(軍事力、経済力、技術力、文化の力)に認められる。…アメリカ

 

 が世界にとって『なくてはならない国』になったとするクリントン大統領の発言は、まったく正

    (14)

 しい。」

 アメリカは「なくてはならない国」である。なぜなら、覇権国アメリカを除外すれば「国際的な

無政府状態」しか残らないからとの論法は、唯一の覇権国アメリカとアメリカ以外の被覇権国によ

る現行国際秩序の実態を描写するだけであって、これに代る秩序があり得ないとの意味でないこと

は、言う迄もない。

 4.グローバリズムとはユニラテラリズムの別名では?

 グローバリズムの内実は覇権国アメリカの基準―AS―をグローバルに適用しただけであれば、

           ユニラテラリズム

アメリカの「国益至上主義」の別名となる。ブッシュ現政権の政策はその正体を露呈しただけとな

り、それは1、2の問題に限られないはずとなる。深瀬忠一は次のように描写する――

 

 「ブッシュ大統領とラムズフェルド国防長官のアメ

図[1]ODAの国民総所得
         (2001年)

0%                              0.7       

デンマーク

 

 
    1.01

ノルウェー

 

 
 

オランダ

 

 
 

ルクセンブルク

 

 
 

スウェーデン

 

 
 

ベルギー

 

 

 

スイス

 

 

 

フランス

 

      0.34

 

アイルランド

 

 

 

フィンランド

 

 

 

イギリス

 

       0.32

 

スペイン

 

 

 

ドイツ

 

     0.27

 

ニュージーランド

 

 

 

ポルトガル

 

 

 

オーストラリア

 

 

 

オーストリア

 

 

 

カナダ

 

   0.23

 

日本

 

   0.23

 

ギリシャ

 

 

 

イタリア

 

0.14

 

米国

 

0.11
 

 

 リカは、20世紀が積み上げてきた人類と世界の

 

 『核兵器廃絶』のための努力の成果であるNTP、

 

 CTBTを無視し、『国益至上主義』によりミサイ

 

 ル本土防衛計画を推進し、レーガンすらも放棄した

 

 宇宙防衛計画により宇宙空間を戦場とする軍拡を推

 

 進しつつある。ユネスコからの脱退、ABM条約の

 

 破棄、京都環境議定書からの離脱、軍拡15%の大

 

 幅増予算を組み、小型武器輸出規制国連会議決議に

 

 も反対し、『テロ撲滅』の名において世界各地(ア

 

 フガンの後、イラク・イラン・北朝鮮の『悪の枢要』

                                                (15)

 等)への戦争(核を含む)の拡散も有り得るとする。」

 

 同じ事実を、時系列でみれば、[図1]に例示の通

 

り、ODA政府開発援助がOECD加盟国中最低とい

 

う数字にも表れているが、その極めつけは「ヨハネス

 

ブルク環境開発サミット」(8・26〜9・4)にブッシュ大 

            (OECDまとめ

 
はサミット参加国)

統領が一人背を向けたことだろう。論より証拠、この

*『朝日新聞』2002年6月24日(朝刊7面より)

                                                ユニラテラリズム

ような事実を前に「GO」とは「唯一の超大国アメリカ」による「覇権秩序」であって、「アメリカ

(或は先進諸国)のアメリカ(或いは先進諸国の)ための秩序」であると表せば、言い過ぎとなるのだ

ろうか。

U 唯一の超大国は軍事超大国

 「冷戦が終結して10年がたつ今も、何十万というアメリカ軍兵士が、ときには核兵器をも含む

 

 最新兵器をたずさえて世界19ヵ国の61を超える基地に駐留している。…駐留する軍事施設を

                                                 (16)

 すべて含めるとすれば、その数字は800を超える。」「アメリカを帝国と呼ぶのは、世界中に自

 国の軍隊を展開し、他国の犠牲をかえりみずに資本と市場の力で思いどおりに世界経済を統合し

                     (17)

 ようとしているからだ。」

 C・ジョンソンの弁であるが、先に引用したZ・ブレジンスキーも、アメリカの圧倒的な政治力の

源泉の一つは軍事力にあると肯定した。既にしてP・ケネディは、「大国の興亡」は経済力と軍事力

                                                                 (18)

の盛衰のダイナミズムにあり、前者が後者の永続性を保証するとしたが、この視点から唯一の超大

国アメリカの軍事的実力を確認しておくのは適当と思われる。

 1.押しも押されもしない軍事超大国

「21世紀の米国家安全保障に関する調査委員会」第1回報告書(1999・9)は次のように予測した―

 

 「25年先でも米国は世界最強の軍事力を保持している(が、大量破壊兵器―核・生物・化学兵器

                                                                (19)

 ―の新たな脅威に対する新しい形の防衛力への投資が必要である。)」と。

 特に9・11テロ発生以降は、「国家本土安全保障局 National Homeland Security Agency ―

NHSA―」の創設を提唱し、「(米)本土ミサイル防衛―NMD―」の配備へ向けて急ピッチの開

                                                             (20)

発を促進中であるが、これら以前に、既に圧倒的格差が生じていたことは次のデータが物語る――

 「2000年の国防予算は3000億ドル近いが、…2005年の国防予算は3300億ドルを超える。1ドル

                                                                     (21)

 110円で36兆円、日本の国家予算の4割を超えるとてつもなく大きいもの。」

 「ベルリンの壁が崩壊して2000年まで、アメリカと主要国の軍事予算を比べると、イギリス、フ

 ランス、ドイツ、日本の軍事予算すべてを合計した金額は1200〜1500億ドル程度で有るのに対し、

                                                                                   (22)

 アメリカは一国で3000億ドル前後の予算を組み、一貫して4ヶ国合計の約2倍であった。」

 「NATOと日本、韓国、イスラエルを加えると、アメリカは世界の軍事支出の80%を占める。

 1995年には、アメリカだけでロシア、中国、イラク、シリア、イラン、北朝鮮、キューバを全て

 合せた軍事支出の2倍を記録し、同盟国と総合すると仮想敵国全体の約4倍となった。ペンタゴ

 ンが地域の脅威とみなす国々、すなわち「ならず者国家」のイラク、シリア、イラン、北朝鮮、

                                                                      (23)

 リビア、キューバだけと比較すれば、アメリカの軍事支出は、22倍だった。」

「唯一の軍事超大国」と「ならず者国家」との格差は「象」と「鼠」、にも拘らず「ならず者国家」

を仕立て上げ「危機意識」を喚起し続けるのはなぜか――理由の第一には、「戦時機運に後押しさ 

                                                       (24)

れ、3793億ドル(約50%兆円)もの突出した軍事費を計上し」続けるためには“大義名分”が必要

          (25)

だからであり、第二に、軍需産業が有する絶大な経済効果を確保するため、覇権主義という不公正

な秩序を維持するためには、脅威の対象を設定しなければならないからである。結果として、「覇

                                                                               (26)

権主義国は、外交的関与や信頼醸成に価値を置かず、軍事力の行使を先行させる態度」となり、被

                                                       (27)

覇権国は「『非対称的な(テロ)攻撃』に頼らざるをえない」事態となる。これに拍車をかけてい

るのが軍需産業の存在であり、武器輸出である。

 2.覇権国は世界最大の武器輸出国

                                                                                 (28)

「アメリカは世界最大の軍事機構を維持するだけでなく、世界最大の武器輸出国である」ことが問

題視されているだろうか。1993〜2000年間のアメリカからの武器引渡し額は毎年175.9〜141.9億

                        シェア                    (29)

ドルで、全世界における比率は47.2〜48.3%だった。OECDと途上国を通した武器生産上位100

                                                                                        (30)

社の2000年武器販売額は1570億ドルで、その中43社がアメリカで販売額シェアは60%であった。米

国務省1998年報告によると、1989〜97年間のアメリカの兵器輸出は63%が先進国向けだったが、世

                                (31)

界全体では78%が途上国向けだった。このような軍需産業に大きく依存し、それが景気にも直結す

 

る構造的体質が、いかほど途上国の発展を阻害し、冷戦終結後も軍事優先の世界を結果しているか

について広瀬隆は告発する――

 「アメリカとヨーロッパの軍需産業は、東西冷戦の終結によって国防予算が削減されたため、ど

 の会社も、90年代に受注が大幅に減少するという苦境に直面した。その窮地から脱するため、経

                                                                    (32)

 営者のとった手段の一つが外国への兵器輸出の増大、紛争の挑発と拡大」であった、と。

 この業界ルールは「武器輸出によって火に油を注ぐ」ことに相当するが、湾岸戦争が旧式兵器の

                              デモンストレーション

“一斉棚下し”とも最新兵器の“見本市”とも指摘されたのはこの事実を指している。構造的体質

                                                                                      (33)

であることは、「軍・産共同体」としてD・アイゼンハワー大統領の辞任演説に表現されたが、「ア

ミテージ・リポート」の執筆陣が大挙政権入りし、ブッシュ大統領、チェイニー副大統領、ラムズ

フェルド国防長官等々も石油産業、軍需産業の大立物であるならば、今やアメリカは「政・官・財」

一体の利害共同体そのものである。とすれば、唯一の超大国の指導者はあたかも好戦的死の商人で

                         (34)

あるかのように聞こえようが、彼らの口をついて出るものはその反対、クリントン政権の言葉を借

りて言えば、アメリカの兵器輸出政策の目的は――

 「攻撃を抑止し、紛争の平和的解決を軍縮管理、人権の尊重、および民主化を促進し、アメリカ

 と同盟国の軍事施設の相互利用を高め、大量破壊兵器やミサイルの拡散を防ぎ、アメリカの防衛

 

 産業基盤の能力を高めて国防上の必要をみたし、軍事技術の優位をより低いコストで長期にわた

                 (35)

 って維持すること」、

 

即ち、戦争を防止し平和を促進するところにあるからである。

 

 
V カトリック教会の反応
 

 

 これまで、4回にわたって、グローバル社会の諸側面に覇権支配の現実を確認し、本稿前半では、

 

GSとはASのグローバルに適用されたものでしかなく、従って、GNとはアメリカによる一極覇

                             (36)

覇権主義に相当すると説明した。「ひとつの国が世界を支配する、宇宙の主になりたいという考え

                              (37)

方は、国際法違反の最たるものだ」とすれば、GNには、これを断罪する「謂われ」は十分にある。

もちろん、テロという「非対称的手段」に訴えることはこの上なく卑劣であって、断じて容認され

るべきものではないが、カトリック教会が9.11事件をどのように理解反応し、G秩序との関連

 

でどのような将来像を示そうとしているかを確認することは重要な課題である。寸描の域をでるも

 

のではないが、先ず、カトリック教会の反応を3つのレベルに分けて列挙する。

 

 

 1.ローマ聖座の対応

 

 ヴァチカン機関紙『オッセルバトーレ・ロマーノ』(週刊英語版)で確認できたのは左の通り―

 

@.ヨハネ・パウロ二世教皇―JPUからG・W・ブッシュ米国大統領宛の見舞電報(2001・9・11)

 

A.「増悪と暴力の応酬が支配しないように主に祈る」と題したJPUのスピーチ(2001・9・12)

B.「イスラム・カトリック連絡協議会」によるテロリズムの断罪(2001・9・13)

C.「事物の根幹から暴力・軍事力を阻止せよ」と題する国連第56回総会第一委員会での使徒座国

 連代表部代表R.R.マルチーノ大司教のメッセージ(2001・10・15)

D.「平和の文化には新しい言語と兄弟間の新しいジェスチャーが必要」と題するR.R.マルチー

 ノ大司教の国連総会での演説(2001・10・22)

E.JPUによる「アンジェルスの祈り」(2001・10・28)

F.「聖地のために一層大きな連帯を」と題するR.R.マルチーノ大司教による国連総会第四委員

 会での演説(2001・10・29)

G.JPUによる「アンジェルスの祈り」、2001年12月14日を「祈りと断食の日」、2002年1月24日

 を「アシジでの祈りの日」と定めると発表(2001・11・18)

H.「正義なくして平和なく、赦しなくして正義なし」と題したJPUの「世界平和の日メッセー

 ジ」(2002・1・1)

I.「平和への一致した関与」と銘打った声明(アシジ、2002・1・24)

 各種対応について敢えて寸言すれば (A)はテロに対する悲しみと怒りを表わし、悪と死は裁かれ

ずには置かないこと、と、憎悪と暴力の応酬が支配しないことを祈る、と表明した。(C)は、報復

ではなく正義の回復を、そして、武器をなくし貧困を克服して流れを変えよう、と呼びかけ、(D)

は、コミュニケーションの重要性を指摘し、テロの源泉である環境改善の必要性を強調した。(E)

は、アフガニスタンと聖地に住む人々に思いを馳せ、正義の回復と永続的平和を祈るもの、(F)は、

聖地では、生存と安全の基本さえ満たされていない、真理と正義の実現こそが永続的平和を可能と

すると断言した。(H)は、人間存在の究極態は平和であり、それは正義と愛と赦しと寛容がもた

らすものだが、テロリズムも軍事力の行使もこれに反するとしながら、“自己防衛権”の妥当性は

容認した。(I)は、平和は神の恵み、人類の共通目標であり、『黄金律』によって達成されると

の信念を表明し、次の祈りを捧げた――

  暴力があってはならない!

  戦争も同じ! テロリズムも同じ!

   神の御名によって 全宗教が 地上に

   正義と平和を

   寛容と生命を

    そして何よりも

   愛を もたらさんことを!

 2.アメリカ・カトリック教会の対応

 アメリカ司教協議会―USCCB―のウェブ・サイトに確認できたものは左の通り――

@.USCCB常任委員会声明(2001・9・11)

A.カトリック司教とモスレム指導者の共同ステートメント(2001・9・14)

B.「確固とした、しかし、節度ある対応を」と題するUSCCB会長J.A.フィオレンツァ司教

 のブッシュ大統領宛て書簡(2001・9・20)

C.「軍事行動開始に当って」と題するJ.A.フィオレンツァ司教の声明(2001・10・9)

D.「9月11日を起点として信仰と希望に生かされて」と題するUSCCB司牧メッセージ                       

                                   (2001・11・14)

E.「9.11 一周年記念日に当って」と題するUSCCB常任委員会ステートメント

                                  (2002・9・10)

 特徴のいくつかを記せば、(@)は、事件に深い憂慮を表明するとともに、暴力では正義は生み出

されないこと、また、民族・宗教・国籍による差別の危険にも配慮するもの、(A)は、真の宗教は

平和へと招くものであって、テロとは正反対であること、(B)は、国内・国際法に則った事件の解

決を希望し、「正戦」に関する原則を守るよう要望したが、テロ撲滅に正戦原理を適用する矛盾を

自覚しているかどうか判明せず。(C)は、武力行使は倫理的制約内でなければならず、無辜の市民

の安全確保と人道的援助(ビスケットの投下?)を強く支持、また、正義のための連帯を促し、外

交・経済、人道そして正当な軍事的手段を尽くした包括的対応と正義に基づくパレスチナ問題の解

決を要望する。(D)は、空爆開始後十分な時間をかけて周到に準備されたもの、ここには「米国司

               (37)

教会議が攻撃支持」と題した日本の短評だけを再掲する。

 「全米カトリック司教会議はこのほど開いた年次大会で、米軍のアフガニスタン攻撃を『大量テ

 ロに対し罪のない人々を守り、公益を防衛するために必要なら国家や国際社会は軍事力を行使す

 る権利と義務がある』と支持する声明を167対4の圧倒的多数で採択した。キリスト教世界の伝

 統である『正戦論』に基づき、非暴力だけでは今回のテロに対応できないことを確認した」。

 (E)は、事件後一年が経過しただけあって、十全で冷静、しかも、アフガニスタンと中東の“弱

者”にも配慮した声明ではあるが、アメリカ政府の武力行使に疑問を呈したり、アラブ・モスレム

排斥の動きに実効的に抗議するものとはなっていない。

 3.日本カトリック教会の対応

 比較的公式的な対応として左の2つが認められた――

@.日本カトリック正義と平和協議会会長松浦悟郎司教「過ちを繰り返さないために」と題する

 

 「呼びかけ文」(2001・9・23)他4個別司教のメッセージ(2001・9・25)

A.日本カトリック司教協議会常任司教委員会の「平和を愛する皆さんへ―米国同時多発テロに際

 して」と題する声明(2001・10・4)

 (@)「呼びかけ文」は、惨事への共感を表わし、この事態に各自が対処しなければならないが、

その方法は非暴力、心はキリストの十字架と説いている。(A)は、哀悼の表明に続いて、テロはい

かなる理由にせよ正当化できないと断罪、国際法に基づいた厳正な処罰を提唱、ブッシュ大統領の

武力報復は暴力と憎しみの応酬と懸念を表わし、平和的手段での解決を訴える。テロの根底に横た

わる南北問題、差別、憎悪の払拭が寛容で、そのための国際貢献こそ日本政府の採るべき道、十字

架による救いこそキリスト者の実践、とアピールする。(@)(A)いずれも、誰への抗議でも要望

でもないのが特徴である。

 以上3つのレベルにカトリック教会の対応を寸見した。事件直後か否かによって感情の起伏も異

なり、当事国か否かの差による立場の相違も認められる。総じて、凡ゆる問題に言及しているよう

ではあるが「証拠未定出での実力行使の妥当性」「条件さえ守れば正戦は自然権であるかのような

無感覚」「国内・国際法規への無条件的な信頼」「テロ生起への原因認識の不徹底」「中東問題に

ついての二重基準への沈黙」「イスラエルと国際石油資本のための代理戦争の可能性」等々、事件

理解と解決への核心が伏せられているのは、抑制と言うべきか。本稿も、紙幅の制約上、単なる事

実の寸描に留めざるを得ない。幸い、カトリック教会の対応の是非については、最も著名なカトリ

ック・ジャーナリスト酒井新二の周到な論説が供されているところから、それに委ね、以下に、G

Sが真のGSとなるための必須の原点をカトリック教会は既に滋養してきたことを、但し要は、そ

れを社会秩序の権利・義務関係に具体化することであることを、指摘したい。

W 偽りのGSから真の人類共同体へ

 9.11テロ事件には原因があり、アメリカの特定目標を狙ったのにも理由があり、それが現行

グローバリズムに起因しているとすると、前節に紹介した協会の対応より、もっと端的に、もっと

明瞭に、その不公正を糾弾し、その根拠を明言したカトリック教会の反応はなかたのかを問うこと

は、「普遍的救いの秘蹟」としての教会の本質にかかわる課題である。次に(1)T・ガンブルトン

司教の論説と(2)R・R・マルティーニ大司教の声明を見なければならない理由である。

 1.真の人類共同体への2つの視点

 (1) T.ガンブルトン司教の論説

                                                                          (39)

 「怒りを招いた原因は我々にある―テロリズムとアメリカの経済覇権は関連―」(2001・9・28)と

題した論説は、テロ直後に現れた。我々アメリカ人が耳を傾けねばならない2つの事実がある。一

つは。1940年代後半に米国国務省のソビエト専門家ジョージ・ケナンが指摘したもので、

 「世界人口で6%にすぎないアメリカ人が、世界の富の半分以上を独占している。この事実が我

 々アメリカ人を妬みと反感の対象にしている」

こと。今、一つはブッシュ現大統領がカステルガンドルフォにヨハネ・パウロ二世教皇を訪ねた際

(2001・7・23)、教皇が表明した懸念、

 「人類が人間的生き方を享受できる者とその機会から排除されている者とに二分されていること

 に教会は深い憂慮を表さざるを得ない(と伝達したが、アメリカではこの主題はマスメディアに

 無視された)」。

 ガンブルトン司教は、人口20%にも充たない先進7ヵ国が全世界の富の87%を独占している無秩

序・経済覇権には(80%以上の人類の痛みと苦しみ、そして、軍事力による強制排除という)代償

がかかっていること、即ち、不公正なグローバル秩序は変革されねばならないことをアメリカ人は

理解しなければならない、と明言した。

「拉致問題」で挙国一致の国内情勢を省みるとき、テロ直後のアメリカにおけるこの発言は実に勇

気あるものと言わねばならない。

 (2) R・R・マルティーノ大司教の声明

                                                                                   (40)

 使徒座国連代表部代表マルティーノ大司教のヨハネスブルク環境開発サミットでの声明は、なぜ

現行G秩序が糾弾されねばならぬかを喝破して爽快である。「開発」であれ「環境」であれ、否、

「経済活動」全体の評価も価値基準を明示して言えること、大司教は、先ず、K・アナン事務総長の

人間中心の立場に言及しながら、この多様性の現代にこれらを統一する原理は「人間人格 Human

                                                                         (41)

Person」であって、それは「リオ・デ・ジャネイロ宣言」(1992・8・6)「原則1」として宣言された

ところである。だからである、暴力、飢餓、貧困、疫病が根絶されねばならず、飲料水、大気、耕

作地の劣化が冒瀆となるのは。環境に限界があることを弁え、これを共通遺産化し、利己主義と無

関心に代る連帯、しかも、グローバルな連帯に励み、健全な管理と精神的高揚の裏付けをもって保

全し発展させねばならないが、最終的には、自己犠牲 Gift of Self を躬行できるかどうかに、現

代と将来世代の安泰 well-being が懸かっていることを、雄弁に力説した。

 2.基本的人権はあらゆる人間に固有の権利であって、例外はないこと

 ガンブルトン司教の論説を紹介したのは、現行G秩序は糾弾されるものと明言しているためであ

り、マルティーノ大司教の声明は、糾弾さるべき根拠を明記しているためだった。カトリック教会

の対応で列挙した文書も共有していなかった訳ではないが、両者こそ、この上なく、紛れなくして

いたからである。人間人格を有する者が、事物の存在、帰属、評価の基準であり目的であることは、

人格を有するあらゆる人間が権利の主体であり、基本的人権の主体であって、人格を有する人間に

基本的人権を持たない者はあり得ない。これは、人間人格も、どちらも普遍(妥当)的原理である

との意味である。

 3.私的所有権が基本的人権の一つであれば、“持っている者”の権利よりも“持っていない者”

  の権利が保障されねばならないこと

                                                                (42)                       (43)

 私的所有権が基本的人権の一つであり、「資本主義社会の法的基礎」「近代国家法の究極原理」

とすれば、人間人格を有する者に等しく保証されていなければならない。等しくとは「持てる者」

                                                                                       (44)

の権利だけではなく「持たない者」の権利も保証されていなければならない、との意味である。と

すれば「持てる者」よりも(に先だって)「持たない者」の権利が保証されるのが、普遍(妥当)

         グローバル

的原理を普遍的に適用する真のG秩序であるはずだが、現代社会はそのようになっているだろうか。

既述したところに明らかではあるが、今一度これに反する事実を記しておきたい。

 4.人類に過半数が基本的人権を否定され、市場経済から排斥されている偽りのGN

 @基本的人権である「私的所有権」は万人に保証されているのか?

 さきに人類の4/5が途上状態に置かれているとのガンブルトン司教の指摘を記した。最新の『世銀

報告』によれば人類のほぼ半数、30億人、が1日2ドル以下の生活を強いられ、2050年には後30億

                             (45)

人が追加されると予想している。『フォーブス』誌によると、

 「世界でもっとも金持ちの225人の富を合計すると1兆ドル以上になる。これは、世界人口のうち

 の半分の人々の年間所得の合計金額に匹敵する額である。実際、もっとも裕福な3人の資産を合

                                                                  (46)

 計すると、もっとも貧しい48ヵ国の年間生産額を合せた金額を超える」。

 基本的人権であるとされている「私的所有権」は「持てる者」だけの既得権にすぎない。

 A「市場経済」の方も大同小異ではないのか?

 それは誰でもが参加退出できる価格メカニズムだけに基づいた「オープン」「フェア」「ユニバ

                                  (47)

ーサル」な交換原理によるものだから、と説明される。交換に供される財には、労働、資本、原料、

技術、製品、……等があるが、一人労働(者)だけは、軍隊と警察によって守られた国境という国

家主義で固められ、自由な交換などできるものではない。さもなくば、貧しい土地から豊かな土地

への民族大移動が瞬時にして起こり、瞬時にして完成する。その結果は、グローバル大の賃金、労

働条件、生活水準、福祉水準の平準化であるが、「市場経済」至上主義者に労働自由化を口にする

                                                                                     ユニラテラ

者はない。「市場経済」も、また、「持てる者」「富める者」だけのもの、GNの実態が国益至上

リズム

主義であることがここにも明らかである。

 5.キリスト者の信じるものは「平和の福音」?

 キリスト者の信じるのが「平和の福音」ではないのか、と問えば、そうではないとの答えは、ま

ず、返ってこないのではないか… これが口先だけのことでないことを祈らねばならない。

                                                                  グローバルに

 GNの本当の意味は、誰にでも通用するという普遍妥当的な原理を例外なく適用することだった。

老若男女、人種、国籍、宗教、社会的身分、又は、門地の違いにかかわらず、一人に適用されるこ

とは他の誰にでも適用され、一人に適用されないことは他の誰にも適用されないということだった。

誰一人として優遇も差別もされないグローバルな関係秩序は最も「自由」で「公正」な社会状態、

                                            (48)

即ち、正義の実現を意味しているのではないのか。「正義」は「彼に彼のものを(帰属させる)

「unicuique suum」と表現される。そして、各人は、「基本的人権」に関して格差なく平等であり、

生得的能力も有利な生得的社会状況も必然的理由は見出せず、必然固有の権利は論証不可能である。

一方、生得的ハンディキャップも不利な生得的社会状況も偶有的で、何らの責任も帰せられないと

すれば、何人も権利と義務に差異なき同等の存在であって、個人間、社会間に格差を当然と無意識

                                   (49)

化している現実こそ背理に他ならない。以上圧縮して説明したことろを一言で表わせば、「真のG

                                                                             ユニラテラリズム

N」は「正義の実現」と同体であり、昨今GNを自称する「偽のGN」「唯一の超大国主義」は、

人類の過半数を“奴隷状態”に落して省みない「覇権主義」だということである。

 設問に返って、今一度キリスト者は本当に平和の福音を信じているかと、反問しなければならな

い――なぜなら、「平和」とは「(権)力による沈黙」ではなく「正義の実り」であって、「正義の

実現」を信じない者は「平和の福音」を信じない者となるからである。2002年度「平和の日」のモッ

トーは「正義なくして平和なく、(赦しなくして正義なし)」だった。とすれば「正義の実現」を信

じて励まない者は「平和(の約束)を信じて励む者」とはならないはずだ。途上国の実現を知るキ

リスト者は、そして、先進国に日蔭に追いやられている者を知るキリスト者は、偽りのGNの余り

にも惨い現実を瞼にして「貧しき者のための選択」に自己の信仰をかけるだろう。パウロ6世の言

葉もこれ以外にないものとなる――

 「教会は、……これら何百万人を解放する義務、この解放を始めさせる義務、それをあかしする

                                             (50)

 義務、それを完成させる義務をになっています。」

 6.正義への営みも、平和への営みも、「復活の勝利」の日まで続く「今日の営み」

 人格の例外なき尊厳に目覚め、「偽りのGN」を本気で糾弾することは、人格の尊厳という普遍

                                 グローバル・コミュニティ

的原理が普遍的に実現される「真の人類共同体」の実現を目指すこととなる。これは「すべての人

                              (51)                                                         (52)

の幸せがなければ私の幸せもない」世界とも、「真理を光とし、正義を目ざし愛を原動力とする」

信仰者の本質とも、「自己犠牲・十字架」の果てに成就する恵みの勝利とも表現されるが、これは

「今日の自覚」に始まりこそすれ、人類最後の勝利の日まで完成しないものであることを承知して

おかねばならない。なぜなら、「人類共同体の実現」と「人類史」は、物理的には、同じ尺度のも

のであり、復活の勝利に実現される途轍もない課題だからである。考えて欲しい、「ヨーロッパ共

同体」が「通貨統合」までに払った辛酸とその年月を……世界で最も同質的とされてきたヨーロッ

パでさえ、R・シューマン、J・モネ等から数えて50年、R.クーデンホーフ・カレルギーから数えて

みれば、ほぼ一世紀に垂んとしていることを……

 人類共同体の完成こそ真のGNの完成、それは例外なき正義の実現を意味している。「正義の果

実」は「平和」、「平和の福音」は十字架の恵みによって可能となる福音、最も困難なものではある

が、最良最大の福音、全ての兄弟とともに、全ての兄弟の上に、福音を信じて励む「今日」を祈り

たい。

 同時多発テロは“快挙”か“暴挙”かについての結論を記せば、暴力に訴える手法は(国家テロ

を含めて)暴挙であるが「謂われ」は十二分にある――もちろん「謂われ」があったとしても、暴

挙は、絶対に、許されないが――

【注釈】

(1) 武者小路公秀「『同時多発テロ』とグローバル 反テロ闘争」(アジア太平洋資料センター『これは新たな戦争か?』2001・11、
50-57、50頁)。
(2) 特別在留許可を得ながら、8月9日悲しい最後を遂げたアフガン難民ユノス・タヒリ氏の原因は、難民認定の極度の延引も一因だが、空爆によって妻子を失い日本に呼び寄せられなかったことが主因だった。「JP043、アフガニスタン難民・故タヒリさんの遺体を祖国へ・カンパのお願い」2002・8・13。 
(3) 同様に「1980年代のニカラグアは米国のよる暴力的な攻撃を蒙った。何万という人々が死んだ。国は実質的に破壊され、回復することはもうないかも知れない。この国が受けた被害は、先日ニューヨークで起きた悲劇よりもはるかにひどいものだった。彼らは、ワシントンで爆弾を破壊させることで 応えなかった。国際司法裁判所に提訴し、判決は彼らに有利に出たが……」N・チョムスキー『9.11、アメリカに報復する資格はない』(文芸春秋、2001、22-24頁)。
(4) チョムスキー『前掲書』(126-127頁)。
(5) 辺見庸「対談再編・私たちはどのような時代に生きているのか・『9.11』、有事法制そして私たち自身」(『世界』2002・9、40-54、52頁)。
(6) 「アーミテージ国務長官に聞く―『制約あれば単独行動も』―」(『朝日新聞』2002・2・25(29))。メル・ガルトフ「高まる対中強硬論」(『世界』2001・7、90-97、93頁)。
(7) チョムスキー『前掲書』(41-46頁)。
(8) 「新たな秩序の構築―世界はどこへ向かうのか―」(NHK2、2002・1・1、21:00−22:30)。
(9) 藤原帰一「デモクラシーの帝国 ・第五章帝国と地域の間」(『世界』2002・9、188-198、188頁)。
(10) 藤原帰一「前掲論文」(189頁)。
(11) C.ジョンソン『アメリカ帝国への報酬』(集英社、2000、254頁)。
(12) ブレジンスキー『世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム―』(日本経済新聞社、1998、5、11頁)。
(13) ブレジンスキー『前掲書』(33頁)。
(14) ブレジンスキー『前掲書』(265頁)。
(15) 深瀬忠一「鎌田定夫所長と日本国憲法の『核時代の平和を先取りした立憲民主平和主義』(『長崎平和研究』No.13、2002・4、6-8、7-8頁)。酒井新二『日本の進路』(フリープレス、2002、28頁)。
(16) ジョンソン『前掲書』(20頁)。
(17) ジョンソン『前掲書』(24頁)。
(18) P・ケネディ『大国の興亡』(草思社、1988)。
(19) 江畑謙介『アメリカの軍事力』(講談社、2002、20-21頁)。
(20) 「世界の多くの国がアメリカのアフガニスタン空爆を支持した。それらの国々は…アメリカの(軍事)力は…ずばぬけて
強大で、アメリカ政府の決定から離れることは自国が不利益を甘受しなければならなくなるとの思いからだろう。」石川捷治『戦争国家』への道を阻もう」(前掲『長崎平和研究』、3-5、3-4頁)。
(21) 広瀬隆『アメリカの巨大軍需産業』(集英社、2001、36-37頁)。
(22) 広瀬隆『前掲書』(154-155頁)。
(23) ジョンソン『前掲書』(117頁)。
(24) 「アーミテージ国務副長官に聞く」(前掲『朝日新聞』)。
(25) この意味で「北朝鮮の脅威」が米国のミサイル防衛NMDの“生みの親”と言える。杉田弘毅「ブッシュ政権の外交戦略―ミサイル防衛に託す新秩序―』(『世界』2001・7、81-89、85頁)。
(26) メル・ガルトフ「前掲論文」(93頁)。
(27) 梅林宏道「変わる米国戦略と沖縄」(『軍縮問題資料』2001・7、16-21、20頁)。
(28) ジョンソン『前掲書』(116頁)。
(29) The lnt.l lnstitute for Strategie Studies, The Military Balance 2001-2002, Oxford U.P., 2001.
(30) Stokhoim lnt.l Peace Research lnstitute, SIPRI Yearbook 2002, Oxford U.P., 2002, p.356.「兵器輸出の目玉商品はF16(ゼネラル・ダイナミックス→ロッキード)とF15、18(マグネル・ダグラス→ボーイング)で、1993年の政府間取引額340億ドルの2/3を占めていた。」広瀬隆『前掲書』(122頁)。
(31) U.S. Department of State, Bureau of Veritication and Compliance, World Military Expenditures and Arms Transfers, 1998, p.11.
(32) 広瀬隆『前掲書』(110-111頁)。
(33) A・サンプソン『兵器市場―「死の商人」の世界ネットワーク』(TBSブリタニカ、1993、126頁)。
(34) G・ブッシュ大統領、クリストファー元、オルブライト前国務長官等は、サウジへのF15の大量売却、台湾へのF16の大量輸出等で大活躍を示したが「クリントン大統領の登場はこれに一層の拍車をかけるものだった。」広瀬隆『前掲書』(122頁)。
(35) Presidential Decision Directive 34 に関するプレス・リリース(1995・2・17)、ジョンソン『前掲書』(119-120)。
(36) 当事者の見解を再掲すれば「それはアメリカを中心としたシステムであり 、アメリカ流の政治機構や組織化の原則を反映しているという意味で、覇権システムである。…アメリカが空前の世界覇権を握る現在、これに対抗する国はない」である。
ブレジンスキー『前掲書』(45頁)。
(37) 「宇宙の兵器と原子力に反対する地球ネットワーク」世話人B・ギャグノンの言、大庭里美「有事体制と米国の一極支配」
(『軍縮問題資料』2002・7、37-43、39頁参照)。
(38) 「米国司教会議が攻撃支持」(『毎日新聞』2001・11・18、(6))。
(39) T. Gumbleton,“We have built up this anger, Terrorism, US economic supremacy linked.”National Catholic
Reporter, Vol.37, No.41, Sept.28, 2001,(8).
(40) H.E. Archbishop Renato Raffaele Martino, Apostolic Nuncio, Head of U.N. Delegation of the Holy See,
Holy See Statement, at the World Summit on Sustainable Development. Johannesburg, S.A.,2 Sept.,2002.
(41) 持続可能な開発という課題の中心は、人間 Human being である。人間は、自然と調和した健康で生産的な生活をおくる
権利を有する。」
(42) 渡辺洋三『財産権論』(一粒社、1985、8、36、50頁)。
(43) 川島武宜『所有権の理論』(岩波書店、1949、40頁)。
(44)   西山俊彦「私的所有権の人間本性性とその帰結―抄約―」(『サピエンチア』第26号、1992、331-354)。「私的所有権の不条理性―平和学は体制変革の学であるとの共通認識への一助として―」(『平和研究』第24号、1999、100-109頁)、他。
(45) The World Bank, World Development Report 2003, Oxford U.P.,2003,p.IB.
(46) L・R・ブラウン編『地球白書1999-2000』(ダイヤモンド社、1999、34頁)。
(47) さくら総合研究所編『経済用語の基礎知識1999-2000』(ダイヤモンド社、1999、036頁)。
(48) 因みに「自由」なくして「平等」なく、「平等」なくして「自由」なしであるのが原理的関係であるはずなのに、巷では
「自由」か「平等」かの二者択一論が横行する。
(49) 西山俊彦「『構造的暴力理論』は『完全平等主義』と『絶対人格主義』との別名ではなかろうか?―『個人レベルの所与から
の解放をも『ポジティブな所与』からの解放をも不可欠としていることに関連して―」(『英知大学キリスト教文化研究所
紀要』第16巻第1号、2001、153-168頁)。「いかなる『機会の平等』、いかなる『結果の平等』が論理整合的平等概念なのか?」(『英知大学キリスト教文化研究所紀要』第17巻第1号、2002、95-113頁)。
(50) パウロ6世教皇(1975)『福音宣教』(カトリック中央協議会、1977、30)。西山俊彦「“政教分離”原則と解放の“神学”
―教会の社会的関与についての整合的理解のために―」(『サピエンチア』第28号、1998、507-530)。
(51) J.アタリ『反グローバリズム―新しいユートピアとしての博愛―』(渓流者、2001、9頁)。
(52) ヨハネ23世教皇『マーテル・エト・マジストラ』(1961)(中央出版社、1966、128頁)。

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