西山俊彦著
              
  カトリック教会と奴隷貿易  

   ― 現代資本主義の興隆に関連して ―

サンパウロ刊

2005. 9.14  初版
2006. 3.  1  第二版

                 

 

  

 

                       【書評を掲載いただきました】

  カトリック新聞 2006年2月19日 3848号 サレジオ修道会  阿部仲麻呂神父様
正義と平和協議会 JP通信 2006年3月  Vol.137 日本基督教団 大正伝道所 上地武牧師先生
  聖母の騎士 2006年6月号 『この人2006』欄
 

  

          【目 次】

 
 

推薦文 武者小路公秀(前国連大学副学長)

「カトリック教会と奴隷貿易」における文明史と救済史の交錯   

第一部 カトリック教会は奴隷貿易に深くかかわってきたのではないのか

・課題のありか ・奴隷制は「人道に対する犯罪
・カトリック教会は奴隷貿易に断固一貫して反対して来たのか

第二部 新大陸の実態とカトリック教会の関与(一)

   ・先住民インディオ達の虐待と奴隷化
   ・教会の関与−教皇は聖俗両権能を行使−
   ・一層明白な教会の関与

第三部 新大陸の実態とカトリック教会の関与(二)

・教皇文書は奴隷貿易を禁止したか 
・キリスト教化は奴隷化への方便ではなかったか
―手段と目的の倒錯―

第四部 プランテーション生産と産業革命、
   
そして、それに続く先進諸国の隆盛(と途上諸国の衰退)

・産業革命は近代資本主義の起点 
・「三角貿易」の主軸は奴隷貿易、そのまた主軸は「中間航路」
奴隷労働が本源的蓄積を結果したと理解するウィリアム・テーゼ                        

第五部 奴隷貿易正当化の理論と実態
   
「人みな神の子」を語って止まなかったキリスト教が何故…

・奴隷制を正当化する一般“理論” 
・キリスト教世界に認められる正当化論

第六部 「見捨てられた大陸」の現状

・アフリカ諸国の独立と成果 ・国際社会の二つの約束
・「
市場経済(マーケット・エコノミー)」は(効率的でも)公正でもない

第七部 カトリック教会によるSSA諸国の現状認識と奴隷貿易についての対応

・「愛の宗教」「平和の道具」としての自己規定 
・「解放の神学」はラテン・アメリカだけのもの?
・アフリカ諸国の現状についての教会の認識
・謝罪を要するのは奴隷貿易についての「教会の罪」―「教会の責任」を再考するために ―

 

                                      

 

   
 

 はじめに

 「カトリック教会と奴隷貿易」というタイトルを目にして「まさか」と驚かれるのが普通ではないでしょうか。しかも、それが現代の重大問題であると訴えていることを耳にされると、筆者の頭を疑い始められるのが
「落ち」ではないかと思います。

 でも、筆者は本気なのです。 カトリック教会と奴隷貿易とは密接な関係があるのです。

  今、ここに息()いている私たちの問題として…… もし、カトリック教会がポルトガルとかイスパニアの世界制覇を奨励せず、奴隷獲得を承認したり黙認したりしなかったら、現在進行形の資本主義の隆盛も、その体制下に非人間的な日々を強いられている何億という人々もいなかったとは言えないでしょうか。奴隷制度がなければ新大陸でのプランテェーションはなく、綿花がなければ産業革命はなく、技術と市場の世界的拡大がなければ、被植民地下の世紀にわたる隷従も極貧も、そして、一極覇権主義の雄叫びも、なかったと思えてなりません。そして、そのスタートラインとなった大航海時代にカトリック教会は決定的な役割を果たしていたのです。現在につながっている決定的な役割を……

 そんな昔の事を今更言って何になる、と言われるかも知れません。確かに昔の事でない訳ではありません。しかし、ものには始めがあり、何事にも原因があるとすると、少しく振り返ってみるのと見ないのでは、どちらが理性的、人間的となるのでしょうか。特に日本のキリスト者にとって、あの声は天からのものとして響いたのではなかったでしょうか。

「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです。」(教皇ヨハネ・パウロ二世)

 もうあの声も過去のもの、どこかへ消え去ったのかも知れません。 忘れやすいのは世の常、しかし、アメリカ建国二百年を記念したのも、新大陸発見五百年記念を祝ったのも、遂昨日のことではなかったのでしょうか。やはり祝っていたのです、同じ昔の事を。 ただし、大切なことはどちらの側から記念するかという事、 「平和の福音」を信じる者が、敗者、弱者、…の側から記念していなかったら大変です。何故なら、「平和」は「例外なき幸せの実り」であり「この小さき者の一人」を無視してはあり得ないもの、福音を信じる者には「貧しき者への選択」しかその基準はありません。

 本当に、「平和の福音」に勝るものはなく、キリスト者はその福音を信じて行う者、だから、この上なく幸せな者、このささやかな吟味を明日への希望の、そして、今日の責任の、一歩として行きたく希います。

       2004年11月 

                                           筆    

 

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