(憲法二十条が危ない!緊急連絡会通信 第二号 57頁掲載)

                                                       
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『星の王子さま』は耳にしました。
「ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目に見えないんだよ」と。目に見えなくても「心こそ人の
生命(いのち)」、そして各人が「どんな生命」にするか、「どんな人生」にするかも「その人の心」次第、人の生命は勿論、愛も、真理も、正義も、公正も、友情も、・・・、信念も、信仰も、全部、全部、自由なくしてあり得ぬこと、人を人とする「精神的価値」は、全て、「自由」を踏まえ、「自由」とともにしかあり得ぬはず、とすれば、自己の人生を究極的に意味付ける信仰を保証する「信教の自由」以上に大切な自由はないはずです。
 
しかし、人を人とする「精神的価値」は目に見えるものではないだけに、それを保証する「精神的自由」に覚醒し、これを擁護・確立することは容易ではありません。どんな難しさがあるのかについて、私が、他の人の原告とともに、昨年八月十一日に提起した「(亡父の)靖国合祀取消し訴訟」を例にとって、点に限って、紹介したく思います。

    1.憲法第二十条一項には「信教の自由は何人に対してもこれを保障するとあります。このことは  
  貴殿にも國神社にも保障されています。」

 この見出しは、私の國神社への問合せへの回答
(1)です。問糾したのは「一九四七年五月三日発効の『日本国憲法』下において 本人もその遺族も 氏子でもなく 合祀の依頼もしていないにも拘わらず、宗教法人 貴國神社は いかなる権利をもって 西山忠一を合祀されているのか」でした。亡父も私たち家族も宗教法人國神社とは何の関係もありません。にも拘わらず、国と“共謀”して、一方的に、「祭神」として合祀してしまう根拠が信教の「自由」とはどう言うことなのでしょうか。「自由の侵害」も自由であるとは、これ以上のないはき違い、「信教の自由」とは、先ず、個々人の自由のことで、個々人の自由を侵害する一宗教法人靖国神社の自由ではないはずです。本人もその家族もキリスト者であって「祭神」として「拝まれるのも、崇められるのも、慰霊されるのも」信仰に反し、侵略戦争を自衛のための戦争として言いくるめるために「顕彰される」(2)のも、「犠牲者に敬意と感謝を捧げる」背理と暴挙でしかありません。「信教の自由」は、最も崇高な人格権(3)であり、人格権の尊重にはその人自身の立場に立つことが基本中の基本(4)、でなければ、自由の名による無法が罷り通ることとなりますが、これまで、我が国では、この原則が、司法の場においてさえ確立していません。津地鎮祭違憲最高裁判決は、自衛官合祀拒否最高裁判決はどうだったでしょうか。「出席は義務付けられてはいなかった」とか「合祀されても、参拝するかしないかは自由、お布施を強要された訳でもなかった」から、各人の「信教の自由」は侵害されていない、ではなかったでしょうか。物理的強制しか強制でないのなら、人格の尊厳に基づく「精神的自由権」は胡散霧消するしかありません。司法の場においてさえこの通り、このような人権感覚の不在は人格感覚の不在と未成熟によりますが、「憲法二十条の会」は、正に、この核心を問うものです。

 2.“寛容”の名における多数者の横暴
 
前記2最高裁判決は、「目的・効果」基準を採用して、「神式による起工式(とか、護国神社合祀)が宗教とかかわり合いをもつものであることを否定しえないが、その目的は…工事の無事安全を願う(自衛隊員の社会的地位の向上と士気の高揚を図る)ことにあり、…、その効果は神道を援助、助長、促進し又は他の宗教に圧迫、干渉を加えるものとは認められないのであるから」宗教活動に該当せず、違憲とはならない、と判示しました。この判決が非論理的であることは勿論ですが、最も問題なのは「一般的慣習とか社会通念に従って」という判断基準です。なぜなら、「一般的」とか「社会的」とかは多数者の立場に立つことであって、これでは少数者の権利が蹂躙されるのは必至です。どんな「自由権」も少数者が多数者の支配を免れているところに成立し、どんな「人権」も前者の権利が後者によって保証されているところに確保されるはず、にも拘らず、両判決ともに「信教の自由の保障は、何人も自己の信仰と相容れない信仰をもつ者の信仰に基づく行為に対して、それが強制や不利益の付与を伴うことにより自己の信仰の自由を妨害するものでない限り寛容であることを要請しているものというべきである」と諭しました。「寛容」とは「異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見の人々を差別待遇しないことで、それは、多数者の少数者への眼差しの在り方に関わる徳目」
(5)であって、少数者に「寛容」を説くことは背理ですが、残念ながら最高裁にはその自覚さえありません。一抹の救いと言うべきは、最高裁長官藤林益三裁判長他の反対少数意見が次のように明言したことです。
   「…宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもってしても許されないのである。そこには、民主主義を  
  維持する上に不可欠というべき最終的、最小限度守らなければならない精神的自由の人権が存在するから  
  である。」
と。そして寛容についてのJ
.ロックの言葉を付け加えました。「宗教における強制は、他のいかなる事柄における強制とも特に明確に区別される。私がむりに従わされる方法によって私が裕福となるかもしれないし、私が自分の意に反してむりに飲まされた薬で健康を回復することがあるかもしれないが、しかし、自分の信じていない神を崇拝することによって私が救われようはずがないからである。」(6)
 
3世紀以上経った我が国では、「信教の自由」の前に“自由”と“寛容”の名における侵害と非寛容の巨大な(パラドックス)が立ちはだかっています。それは「社会的儀礼」「習俗的行為」という名の多数の横暴支配であって、これらは、全て、平和の名における戦争への道程、「戦前回帰」が実現する前に、今こそ手を取り合わねばなりません。(7)
 

【註】

⑴ これは第二の理由で、第一の理由は「明治天皇の聖旨」でした。
⑵ 括弧内、全部、回答原文通り。
⑶ 人が人であるところに基づく権利。
⑷ キリスト者であったマザー・テレサがヒンズー教徒をヒンズー教式で見送ったのはこの原則の実践でした。
⑸ 小野誠之「『君が代』訴訟と精神的自由権」、「君が代」訴訟をすすめる会編『資料「君が代」訴訟』緑風出版、
 
 1999
255140頁。なお、寛容と多重・唯一神信仰との関係については、井上二郎「靖国、日の丸、そして君が代―そ 
 の『強制』の意味について」、『同』
52705859頁参照。
⑹『宗教的寛容に関する書簡』
1689、『世界の名著 32』中央公論社、1989372頁参照。
⑺ 西山俊彦「なぜ『國神社合祀取消し訴訟』の原告となったのか」『前夜』第
10号、20071月、6773頁;全体につ 
 いては『靖国合祀取消し訴訟の中間報告―信教の自由の回復を求めて』サンパウロ、
2006年参照。