英知大学キリスト教文化研究所 『紀要』 第17巻 第1号 2002年3月

                                                     西 山 俊 彦

   要 旨
 経済不況に直面した中での自由化、自己責任の強調は、近代社会の成立原理である「自由」と「平等」の変容に迄及んでいる。平等については、「結果の平等」を悪平等主義として断罪し「機会の平等」だけを保証するのが「健全な社会」であると明言される。これはただに社会的風潮に留まらず、(社会)科学者を原動力とする趨勢に他ならないが、そこには論理矛盾はないのだろうか。本稿では「権原なければ権利なし」の法哲学の原則に立脚して論理整合性を徹底した場合の「平等」のあり方を究明するのではあるが、それに伴う理論的・実際的困難は、課題自体の否定をも放棄をも許すものではないことを付言している。


   は じ め に

「自由」と「平等」は近代社会の基本的成立原理とされてきた。今、特にバブル崩壊以降、この原理が

が揺れている。昨年最終答申を提出した「経済戦略会議」は、
 
 「努力した者が報われる社会を目指すこと、即ち、『結果の平等』を求める悪平等主義を見直して
                          (1)
『機会の平等』を保証する健全な平等社会を目指すこと」

を目標とした「結果の平等」は悪平等であって 「機会の平等」 だけを保証するのが「健全な社会」とい

う訳である。構造改革の推進ブレーンの一人竹中平蔵は、「チャレンジする機会が誰にでもあり、大金
                           (2)
持ちになった人がたくさん出る社会」を「よい社会」としたが、平等を「機会の平等」と理解するのが、
         (3)          (4)
グローバリストであれ、ナショナリストであれ、現代の風潮となっている。この問題は、筆者が前稿迄
                (5)
に「主体−所与」関係に論証した通り、主体には権原が発生するが所与にはそれがあり得ないことで、

原理的には、解決済みではあるが、ますます高潮する 「機会の平等」 論を前に、それが論理整合性を欠

くものである事を明示しておくこては無意味なことではない。これが本稿成立の与件である。
 

  T.「平等」の定義・種類・原則

 
 権利としての平等は人間人格を基準とする。人間主体こそ価値基準の中心だからである。しかし「機

会の平等」論はこの原則を遵守するものとなっているだろうか。平等を「同一ルールの無差別適用」と

定義付けることにさしたる異議はないだろう。しかし、これを自由放任主義者F.A.ハイエクが使えば

「弱者排除の不平等主義」を惹起し、キリスト教社会主義者R.H.トーニーが使えば「結果の平等」を意
                                          (6) 
味することになる。「平等」の意味規定は概念規定の枠組に応じるだけ多様であるからであって、概念

規定の同定には概念枠組の整序化が必要な理由である。以下に掲げるのは主要なもののいくつかである。

1.平等の定義
                                          (7)
 「相等しい人々が均等の配分を受け(相等しからざる人々が等しからざる配分を受け)ること」であ
           (8)                             (9) 
れ、「同一基準の同一適用」であれ、抽象的レベルに留まる限り、「同一見解」と言えようが、それで
      ファクター
は、いかなる基準に基づく同一(差異)性であるかは、封建制では家柄・身分であろうし、市場経済体

制では経済力となる。これが論者をして「平等は人々の間の一切の差異の無視ではなく、無関係(irre
                    (10)
levant)な差異による差別の排除の要請である」と指摘させ、日本国憲法にも「すべての国民は、法の

下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係に

おいて、差別されない」(第十四条)と規定される理由である。「同一ルールの無差別適用」という抽

象的原則は、必ず、何らかの具体的基準でもって実施評価されているはずであるが、同一基準であるから

といって、どれもが妥当なものとは言えず、封建制を超克した時代にあっては、「人種、信条、性別、

身分、門地」等は論外である。代って実力主義を採ったとして、健康、学力、意欲(努力)、実績(業績)

等の一部をもって評価するのか全部をもって評価するのか、成果等は、一事が万事とみなすのか相当期

間の実績をもってするのか、将来の結果を事前に判断することは不可能なのだから、いずれの手法も制

約を免れない。これが平等の基本的性格の一つであるが、次に、主要な分類について記さねばならない。

2.平等の分類

 平等概念はその基準の (1)前後関係、(2)包括性、(3)条件性、(4)徹底性によって、次の4つに分類 
される。

 (1) 基準の前後関係:「機会の平等」と「結果の平等」
           (11)
 「平等論は配分論である」とされるが、何の配分の平等かは、決定的に重要である。「機会とは何か
                                            (12)
をするためのチャンス(と手段)」(『広辞苑』)であり、「結果とは何かを行った成果」(『同』)である。

とすれば前者は「配分を得るためのチャンス(と手段)の平等」のことであり、後者は「配分自体の平等」

のことである。ところで、一定「教育」が努力の「結果」とも就職とか社会的地位への「機会」ともと

れるように、一定チャンスはその位置関係によって「機会」とも「結果」ともなり得るのであって、オ

プリオーリに規定されている訳ではない。また、当然のことながら、「機会の平等」がなければ「結果

の平等」もあり得ないが、「機会の平等」があるからといって「結果の平等」が保証される訳ではない。

 (2) 基準の包括性:「単一次元的平等」と「多元的包括的平等」

 「無関係な差異による差別の排除の要請」が「平等」であるとすると、「いかなる基準を関係ある要

素とするか」が重要となるが、これは時代主潮によって「身分」「実績」 ・・・無条件的「人権」等、多

様に変化する上に、各基準の測定に関わる次元性も「単一次元的」なものから「多次元包括的」なもの

迄、多様である。例えば「実力」を基準にするとしても、「20才にも未たない時の唯一度の大学入試で

の成績」だけをもって評価する「単一次元的」なものから、「入学後の向上」「入社後の実績」 ・・・を

考慮する「多次元包括的」な評価迄あり得る。特に「決断力」と「協調性」の各次元が相拮抗する傾向

を生じかねないとすれば、基準の評価には「単一次元的」なものより「多次元包括的」なものが求めら

れるのは当然のことであろう。

 (3)基準の条件性:「条件的平等」と「無条件的平等」
                                          メリット
 一定配分が条件付か否かという基準による分類で、その中で最も重要な条件とは、各人の貢献を前提

にしているか否かという点である。これに従って「完全平等分配」に2種類が存在することが留意され

ねばならない。一つは、その配分が「各人の貢献に完全に対応している」「完全平等」配分である。両

者は、いずれも、名目的には「完全平等」を主張していながら、その論拠も帰結も異なっている。論理

整合性が十分に検討されなければならない理由である。

 (4)基準の徹底性:「相対的平等」と「絶対的平等」
 
  前項(3)と類似した分野ではあるが、別の特徴をも含意しない訳ではない。それは、平等の規定枠組、

即ち、基準・次元・範囲・程度等の一部要素だけに基礎付けられているのか、或いは、全要素に基礎付

けられているのかの差異であって、前者であれば「相対的平等」、後者であれば「絶対的平等」となる。

しかし実際には「賢なる者、必ずしも、聖ならず」のように要素間での拮抗関係も常態であれば、生徳
   (14)
的“遺産”の差異を平準化することも、「絶対的平等」を確保することも至難の業である。

 以上、4種に限って平等の種類を分類した。言う迄もなく、「機会の平等」「単次元的平等」「条件的

平等」「相対的平等」から「結果の平等」「多次元包括的平等」「無条件的平等」「絶対的平等」への

移行は、その論理整合性を求めれば求めるほど、必然的となるはずであるが、現実世界に確立すべき課

題としては、その困難も増大する。先ず前者の論理必然性について、後掲第U、V章を設けて、吟味し

なければならない。

3.(平等)配分の原則
           メリット
「成果の配分は当人の貢献に応じたものでなければならない」という配分原則については、ほぼ、異論

はなかろう。しかし、何をもって「当人の貢献」とみなすかについては異論百出、結果的に本原則は意

味をなさないことになる。これらに論理整合性を与え、統合体系化し得るのが「主体−所与」の区分に

基づく権利(義務)の大原則、即ち、「人間主体に起因する成果には権利(と義務)が発生するが、所

与に由来する成果にはそれらは発生しない」という法哲学の大原則である。例を持って記せば、「当人

が健常者として生まれたのは彼に権原 Berechtigungsgrund, entitlement があったからか、或いは、

天与の恵み(所与)か、当人が身障者として生まれたのは彼に罪障 Schuldigkeit, guiltiness があっ

たからか、或いは、天与の試練(所与)か」、いずれも、前者であれば権利(と義務)が発生するが、後

者であれば発生しない、というものである。同一原理を能力の由来に見れば、獲得的な能力 aquisiti-  
ve capacity に基づく貢献は成果の配分に値するが、生徳的な能力 innate capacity に基づく貢献に

は成果の配分は値しない、ということになる。とすれば、「配分は当人の貢献に応じて」であったとし

ても、「生得的能力による貢献」と「獲得的能力による貢献」との明確な分別が必要なはずであるが、

これが「機会の平等」論者と「結果の平等」論者の各々にいかに実現されているかが問題である。次第

U章と第V章の設定理由である。

【註】

(1) 同会議議長樋口廣太郎『才能論』講談社、2000、p.20;第16期中教審第2次答申(1997.6.26)、苅谷剛彦「『中流崩壊』に手を貸す教育改革」、「中央公論」編集部編『論争・中流崩壊』中公新書クラレ、2001、141-169、p.141。
(2) 竹中平蔵『みんなの経済学』幻冬舎、2000、pp.175-176。
(3) 吉原久仁夫『何が経済格差を生むのか』NTT出版、1999、p.63。
(4) 石原慎太郎・田原総一郎『勝つ日本』文藝春秋、2000、p.245;苅谷剛彦「前掲論文」、p.141。
(5) 西山俊彦「『構造的暴力理論』は『完全平等主義』と『絶対人格主義』との別名ではなかろうか?−『個人レベルの所与』からの解放をも『ポジティヴな所与』からの解放をも不可欠としていることに関連して−」『英知大学キリスト教文化研究所紀要』第16巻第1号、2001・3、pp.153-168。
(6) Rae.D.は720通りの定義を提示する。Equalities. Harvard University Press. 1981;竹内章郎『平等論哲学への道程』青木書店、2001、pp.299-343。
(7) アリストテレス『政治学』岩波書店、1969、第5巻第1章、pp.194-197。
(8) F.A.ハイエク『隷属への道』春秋社、1992、pp.91-110。
(9) 「市場自由主義者は、反平等主義者だというより、狭い平等主義者である。フリードマン、ロスバート、ノージックは、平等に反対しない。・・・新自由主義とマルクス主義との対立は平等の広狭を巡る対立であり、俗論の言うような自由対平等の対立ではない。」Rae. D. op. cit., pp.47-48;竹内章郎『現代平等論ガイド』青木書店、1999、p.23。
(10) 入試における縁故の無視、医療における好感度の否定のように、これらが広義の平等に当たり、「人種・性・階級・民族などの差異を超越した人格的存在としての人間の本質的対討性」を狭義の平等と置いている。矢島道彦「平等」、廣松渉他編『哲学・思想辞典』岩波書店、1998、pp.1341-1342。
(11) 竹内章郎『前掲書』1999、pp.105;97。勿論「負担(租税・公役等)」の配分も含まれるが、これへの言及は省略。
(12) 鹿又伸夫『機会と結果の不平等』ミネルヴァ書房、2001、pp.2-3。
(13) 但し、筆者の立場は初期効果をも累積効果をも否定するものではない。
(14) これを“遺産”と表現するのは、生得的形質と獲得的形質とを分離することは、実際上、不可能であるだけでなく、前者の場合でも、生物学的・環境的形質、個人的・社会的形質等に、分離不可能な理由によっている。
(15) 西山俊彦「前掲論文」2001、passim。

  U.「機会の平等」の論理整合的要件

 最初に断っておかねばならないのは、本章での「機会の平等」とは、「結果の平等」ともなり得るそ

れではなく、純粋な「機会の平等 equality of opportunity」に限定していることで、それがどのよう

な要件でもって論理整合性を充足し得るかという課題である。

「機会とは何かをするためのチャンス」であり、社会制度の利用可能性で、これが差別なく公開されて
                               リバタリアン 
いさえすれば平等は保証されている、とみなすのが、新自由主義者、自由至上主義者他、本稿冒頭に記

した「単純機会(平等)論者」である。これに対する批判から記すことにする。

1.「要制御機会(平等)論者」からの批判
                          コントロール        
「機会の平等」が平等に値するのは制度と主体の2要件が制御されている場合だけであると批判する―

 (1) 差別なく公開されているとしても、そのチャンスが余りにも狭隘なものでないこと

 (2) 機会が十分に公開されているとしても、それを利用する主体間に顕著な能力差がないこと

 (1) 先ず社会制度の公開性の問題については、例えば、ジャンボ宝籤だけが生活の糧であり、誰もが

購入でき当選確率も等しいとしても、それが余りに低ければ「平等な社会」とは程遠いように、R.H.

トーニーの指摘する王制・奴隷制の例では「王が一人で、他は全員奴隷という社会での確立が、全員等
                         (16)
しかったとしても、その社会制度は直されなければならない」と糾弾し、「一部の競技者に競技規則が永

久に有利であるなら、・・・それが参加者全員によって守られるからといって、競技が公正になる訳ではな
 (17)
い」と結論づける。これを「市場経済」に当て嵌めれば、市場は万人に「平等な機会」を提供している

としても、それは「機会自体の矛盾(不平等)」をも正当化するものではない、ということになる。

 (2) 機会を利用する主体間に実力格差があることは指摘する迄もない。老幼、男女、心身の健常・異

常、職種の向き・不向き、準備態勢のある・なし、組織規模の大・小、等々であって、これらを無差別
                                   (18)    
で競争させることは、「小錦と幼稚園児を同じ土俵に上らせるという考えに等し」くなる。J.E.レー

マーは「機会の平等が要求することは、当人が制御できないさまざまな要因が生み出すハンディキャッ
               (19)
プを補償すべきだということである」と指摘し、トーニーも「経済的強者の集団による経済的弱者の集

団に対する搾取を防ぎ、健康と文明の外的条件を共有する方策がなければ、機会の平等という言葉は、
        (20)
明らかに冗談である」と断定する。唯一のグローバル・スタンダードの支配するグローバル市場の実例

は将に惨酷である。そこでは「価格メカニズム」の完全競争原理によってグローバル市場は全ての地球

市民に公開されているはずであるが、実際は、資金力、製造力、販売力を支配する者の独壇場であって、

「より良い製品をより安く提供できないその他多勢」には何のチャンスもない。結果は、貧困増大、格差
                             (21)   
拡大、13億人が絶対的貧困に呻吟する荒涼たる“文明世界”となる。「市場経済に適合した強者の自由
                           (22)   
のみを擁護する『機会の平等』主義は形式的平等論でしかなく」、制度と主体の2要件の制御を無視し

た「機会の平等」論は、最早、「平等」論ではない。

2.「単純機会(平等)論者」の反論

 前記2要件制御の必要性からの批判に対して反論するのが自由至上主義者とか新自由主義者達である


「自己所有権説」と「全体主義不可避説」の2点について触れておこう。

 (1)「自己所有権説」

 近代市民社会形成の理論的泰斗であるJ.ロックによれば、「自己の身体は自己のものである」のだか                    (23)                      
ら「その能力も、その成果も自己のものである」とされている。現代、同説を路襲するのはリバタリア
            (24) 
ンとマルクス主義者であるが、前者の代表と目されるR.ノージックは

 「配分的正義の充全な原則は、・・・すべての者が、ある配分の下で彼の所有している保有物に対して、
                   (25)
 ・・・権原をもつならば、その配分は正しい」

と指摘して所有の理拠、権原、を重視しているようにみえるが、それは身体の働きの「成果」迄であっ

て、なぜ「自己の身体」と「その働き」が「自己のもの」であるかに迄は遡らない。提示されているの

は「自律的人間観」からの要請だけであるが、それによれば、

 「自由主義社会においては、諸々の人が異なった資源を自由に〔支配〕している。そして新たな保有

 物は、人々の随意的な交換と行為から生じる。・・・全体の結果は、多数の個々の決断によって生まれた
 
   ものであり、それら個々の決断は、それに関与している個々人が行う資格〔権原〕をもっているので
  (26) 
 ある」

と。自律的人間には私的所有権が不可欠であり、それには「自己の身体、能力が自己のものである」と

する「自己所有権」が不可欠であると主張されるのであるが、自己所有権をなぜ有しているかの権原が

示されないのであるから、所有物のある者だけが自律的人間となり、既得権益を無条件的に容認聖化す

るに留まっている。リバタリアンに好意的であることを表明する森村進は一層断定的である――
 
 「 ・・・基本的権利は、それに『値する』か『値しない』とかいう功績の問題ではない。人は端的に自
 
  分の身体や資質への権原(entitlement)を持っているのである。・・・人は自分の身体への権原を持っ
                             (27) 
 ているのであるから、その果実への権原をももつのが当然である」

と。そもそも「権原なくして権利なし」の原則に従っての立論ではなかったのか。なのに「持っている

から持つ権原もあった」では本末顛倒、普遍的論拠の欠けた事実主義は理論の名に値しなく、これでは
             (28) 
「その根拠づけに失敗している」と言わざるを得ない。

(2)「全体主義不可避説」

 要件制御、格差是正、には全体主義的体制が不可避となるから、自由主義擁護の立場から抑圧的矯正

は許されないとするする立場である。“全体(社会)主義の崩壊”“市場主義の勝利”を預言した自由

主義の旗手 F.A.ハイエクによれば、「完全に平等が実現した(理想の)社会」か「格差や偶然が支配し

ている(現実の)社会」かの二者択一は非現実的な立論であって、問題とすべきは、「少数の人間の意

思が決定する全体主義体制」か「各人の能力と努力と運が決定する自由主義体制」かという、いずれも
        (29)
現実的な選択である。しかし、ここには2つの論理錯誤があることを指摘しなければならない。

 (その一) 格差是正は全体主義体制を不可欠とするとしているが、西欧型社会福祉国家で実施されて
                                            (30) きたケインズ経済学と議会制民主主義をもってする各種「優先的格差是正策 Affirmative Action」
                      (31)
 を十把一紮げで全体主義体制の成立と見なすのか。見なせなければ、ハイエクの所説は誤謬と独断の代

 物となる。
                                         (32)
 (その二) 専門家(含独裁者)集団の価値判断よりも個々人のそれの方が常に正しくて良い、との主
               (33)     
 帳は、「個人の利益は全体の利益」或いは「完全競争市場の最適性」が前提となるが、これらが特定
           (34) 
 条件以外では成立しなく、その一般化は憶断となる。とすれば、“不思議の御手”の働きを演じるとさ
                           (35)
 れる個々人の働きも、実際は、強者の意思の実践にすぎない。
 
   本章U章「機会の平等」の論理整合的要件では、「同一ルールの無差別適用」だけでは「機会の平等」

に値しないことを、1.要件制御の必要性の論証、と、2.要件制御の不必要性の論駁、の2面から行

った。これは要件制御を放置して「機会の平等」を唱えることは論理矛盾であることを明示するもので

あるが、それにもかかわらず、自由化、民営化の市場主義万能が大唱される現在、これこそが「健全な

平等社会」と見なされている。現実社会が安易な背理に流されているだけならまだしも、科学者として

論理整合性を身上とするはずの社会科学者の大勢と迄なっている現実を何に喩えればよいのだろうか。

これに反して、今一度明記すれば、個人的、社会的(生物学的・環境的・文化的・・・)な生得的“遺産”

を、即ち、所与的要件を制御した後に残されるのが、各人がいかなる所与的要件にも左右されない人格

主体であるという事実(と各人の努力)だけであって、これは「絶対平等(配分)」を帰結するもので
 (36)
ある。

 次に、「機会」はそれ自体で完結した事実ではなく、「結果」へのステップであるところから、「結果

の平等」の論理整合的要件を吟味しなければならない。

【註】

(16) R.H.トーニー『平等論』相川書房、1994、pp.131-132。
(17) 『同』p.137。
(18) 伊東光晴『「経済政策」はこれでよいか−現代経済と金融危機−』岩波書店、1999、pp.51-52。
(19) Roemer. J.E., A Future for Socialism. Harvard University Press, 1994、p.12。
西山俊彦「『構造的暴力理論』は『完全平等原則』の別名ではなかろうか?−いくつかの概念整序化と論理必然的帰結提示の試み−」立命館大学国際関係学部オープン・ゼミ、1998・12・16、未刊。
(20) R.H.トーニー『前掲書』、pp.130-131。
(21) 『フォーブス』誌によれば、「世界でもっとも金持ちの225人の富を合計すると1兆ドル以上になる(と推計している)。これは、世界の人口のうち貧しい半分の人々の年間所得の合計金額に匹敵する額である。実際、もっとも裕福な3人の資産を合計すると、もっとも貧しい48カ国の年間生産額を合わせた金額・・・を超える。」 L.R.ブラウン編著『地球白書1999-2000』ダイヤモンド、1999、p.34。
(22) 竹内章郎『前掲書』1999、p.17。
(23) J.ロック(1690)『市民政府論』27、岩波書店、1968、pp.32-33;下川潔「いわゆる『自己所有』原理の考察」『創文』335号、1992、1-5、p.1;川本隆史「自己所有権とエンタイトルメント」、日本法哲学会編『現代所有論』有斐閣、1991、77-94、p.79;森村進「自己所有権からの私的財産理論」、『財産権の理論』弘文堂、1995、pp.18、123。
(24) 西山俊彦「私的所有権の不条理性−平和学は体制変革の学であるとの共通認識への一助として−」『平和研究』第24巻、1999、100-109、p.105。
(25) R.ノージック(1974)『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社、1996、p.256;桜井徹「私的所有の道徳的根拠−労働所有論とコンヴェンショナリズム−」、『一橋研究』第15巻第2号、1990、21-48、p.39。
(26) R.ノージック『前掲書』、p.254。
(27) 森村進『前掲書』、p.40。
(28) 下川潔「前掲論文」、p.3。
(29) F.A.ハイエク(1944)『隷属への道』春秋社、1992、pp.130-131。
(30) F.A.トーニー『前掲書』、pp.141-190。
(31) 佐和隆光『漂流する資本主義』ダイヤモンド社、1999、p.19。
(32) F.A.ハイエク『前掲書』、pp.129-152。
(33) A.スミス(1789)『国富論』U、第四篇第二章、中央公論社、1978、pp.119-122。
(34) 西山俊彦「経済行為の成立根拠が『不完全競争』要因の独占に起因することの帰結−『社会的効率と平等』、そして『持続可能な開発』の実現可能性に関連して−」、『経済社会学会年報』XIX、1997、pp.141-150。
(35) 「強者にとっての自由は弱者にとっての抑圧である。」R.H.トーニー『前掲書』、p.283;「経済史の現段階では経済組織は必然的に権力組織になる。」『同』、p.285。
(36) 西山俊彦「前掲論文」、2001。

 V.「結果の平等」の論理整合的要件

 「結果の平等」とは、各人の「社会参画に対して配分される最終成果の平等のこと」であるが、これが

意味するところは、⑴ 各人の貢献に比例する「単純平等(配分)」と 各人の要件格差を制御する「要

件制御的平等(配分)」とに大別される。いずれも「平等」を主張するものとは言え、実際には、対極に

位置し、前者であれば自由放任の実力主義に等しくなるが、後者であれば生得的能力格差は平準化され

て人格主義に基づく「絶対平等(配分)」となる。「機会の平等」との関係では、「機会」なくして「結

果」なしとの意味合いで、常識では、真の「機会の平等」が真の「結果の平等」の前提とはなるが、「平

等論」が「配分論」であり、「結果の平等」こそが究極的配分論であれば、「結果の平等」においてこそ、

一層徹底した要件制御が求められて当然であるが、その論拠は両者に共通したものであるところから、

同一論理を今一度展開することは差し控える。ただここで触れておかねばならない両者間の相違として

は、「機会の平等」の要件制御の徹底した場合の人材配置はその最適化から大いに隔絶することにもな

りかねないために、必ずしも効率的とは言えないが、「結果の平等」の徹底した場合には人材配置の問

題は発生せず、ただインセンティブの減退による非効率性が問題となるのであって、この課題の解決は、

偏に、いかに論理整合的帰結に従った価値規範を涵養して行けるかという、教育効果に懸っている。

「結果の平等」の要件制御は「機会の平等」のそれと論理を同じくしているところから、その記述は割

愛したが、「結果の平等」の論理整合性の徹底は、人格主義による「絶対平等配分」を究極態とするもの

である。この基準に照らせば現行配分秩序はいかなるものと評価されるのかを見ることは、課題の全体

像を理解する上で肝要なことと思われる。図〔1〕に「社会参画と成果配分」についての諸類型を掲げ

る理由である。

  

図〔1〕「成果創出への参画」と「配分」の諸類型

  

T.(現代社会に認められる)「単純結果の平等プラスα」に基づく成果配分

1.(先進国等)社会的に参画できる状態にあって

(1) 参画した      応貢献配分

(2) 参画しなかった   

(@) 当人に非がある場合   無配分

(A) (ハンディキャップ等)当人に非がない場合   プラスα配分

2.(途上国、不況等)社会的に参画できない状態にあって

(1) (新社会秩序の創出に)参画した   ケースバイケース 

(2) 参画しなかった

(@) 当人に非がある場合   (プラスα配分)

(A) 当人に非がない場合   プラスα配分

U.(将来社会に期待される)「絶対結果の平等」に基づく成果配分

1.(第一段階として)(基本的ニードの充足できる)

 当該社会の水準でのグローバル成果への参与

2.(第二段階として)グローバル水準へと漸近する水準でのグローバル成果への参与


 用語について説明すれば、解説の要らないほど明白な類型であるが、「プラスα」原理とは、各人の

貢献に単純に比例した配分を基本原理とする現行(修正)資本主義社会にあっても、ハンディキャップ

とか病気・加令のような本人の責任に帰せられない要因によって生産的参画の出来ない者には福祉・医

療・年金等の補完制度が設けられており、また、不況・産業構造の変化等、社会的要因に基づいて生産

的参画の出来ない者にも失業保険・職業訓練等のセーフティ・ネットが準備されている。これら単純比

例配分以外の基準による配分原理を「プラスα(原理)」と表現し、これの適用は 図〔1〕のT.1.

に記したように、先進諸国では既に一般化しているのであるが、それらは当該「国家」単位で適用され

ているのが通常であって、T.2.以下に登場するように、世界大の一層深刻で莫大なニードに対応す

るものとは、殆ど、なっていなくてもその矛盾を意識化に押しやって平然としておられるのが現代社会

の現状である。ところで「平等」を論理整合的に(≒(法)哲学的に、科学的に)吟味しようとすれば、

既に見たように、要件制御が不可欠であって、この場合の適用範囲は先進国に限定されず、世界大に、

途上国にも展開されなければならないことは、論理必然性の求めるところである。即ち、要件制御を徹

底した究極態の平等は、必然的に、人格主体を唯一の基点として、国家社会の枠組を超えて世界大に適

用されなければならないが、これが 図〔1〕のUに記した達成課題であって、1.2.といずれも当該

時点のグローバル水準を基準としてはいても、その達成課題は、図式的には、当該社会と世界大の2段

階に区分され得るものである。いずれにしても「平等」の論理整合的検討は、「機会→結果」「単次元

的→多次元包括的」「相対的→絶対的」「条件的→無条件的」平等へ、即ち、格差容認的平等論から絶

対無条件的平等論へと展開されることを必然としており、その究極態は人格の尊厳に基づいた絶対平等

的社会秩序である。とすれば、いやしくも科学と論理に関係するとする(社会科学)者が「単純な機会の

平等」をもって「健全な社会(原理)」と嘯いておられる事態とは正反対の課題となるが、これは「平等」
            (37)  
が人権中の人権の一つであり、いやしくも「権利」を口にするのなら、それは「人間主体を基準」にし

たものでしかあり得ないことを顧みれば、当然中の当然事であろう。

【註】

(37) 阿部照哉・野中俊彦『平等の権利』(現代憲法大系B)法律分化社、1984、他。

 W.幾許かの留意事項

「平等」の論理整合的要件について、以上3章に亘って、略述した。「機会の平等」であれ、要件制御

が不可欠なこと、と、それらを推進すればする程、即ち、要件が平準化されればされる程、人格主体の

平等を基準とする「絶対平等主義」が必然化されること、を検証した。論理整合性の帰結であるという

ことは、普遍妥当性を前提とする(社会)科学にとって、これなくしては(社会)科学として成立しな

くなる不可欠的課題であって、「平等」論としては、要件制御を徹底して「絶対平等配分」を究極達成

目標としなければ、問題の成立基盤さえ霧消するが、だからと言って要件制御も究極目標も容易に達成

可能なものであるか否かを問えば、どれもこれもその達成は至難の業であることが明らかとなる。その

幾許かを次に例示する――

 1.「生得的資質」と「獲得的資質」の実際的分離、及び、それら資質の平準化の六ヶ敷さ

 2.「機会−結果」「単次元−多次元包括的」「条件−無条件」「相対−絶対」的分類は概念分類上

  のものであって、実際には、いくら徹底しても「前者」だけが現実の類型であり、また、その適用

  においても、社会と個々人の発達段階に応じた多様なものであって、アプリオリに断定できるもの

  ではないこと

 3.船長も水夫も同じ生産共同体に属し、宇宙船地球号には誰一人として無関係な者はいない。各共

  同体は何らかの評価基準を設けて貢献の寡多を決定しているのであるが、いずれも便宜性、恣意性
            (38) 
  の域を出るものではない

 4.上記に反し、もし、成果への配分基準が、所与とか実績に代って、各人の努力にあるとすると、

  そのような主観的基準をどのように客観的基準とできるのか

 5.人格の平等に基づく絶対平等の社会秩序が目標だとすれば、その目標もそれへの過程も、ある程

  度まで、可視的な提示が必要であろうが、格差しか知らない現行社会にあって、どんな具体像が提
       (39)
  示できるのか
                                    (40)
 6.論理整合性の徹底は「人格の絶対優位原則」に基づく「完全社会の社会秩序」を想定することに

  なるが、それには「自己の望む幸せを他者にも望み」「自己の望まない不幸を他者にも望まない」
                                            (41)
  (
Mt22:39)という、エゴと欲と小我の世界を脱して愛と平和の大我の世界の選択を必然化するが、

  このような倫理規範の成熟が、個人としても人類大にも、どのようにすれば可能となるのか

 以上に記した6つの困難に共通する難題は概念規定とその具体的操作化に関するものと言えようが、

その解決は容易ならざるものである。例えば「生得的資質」と「獲得的資質」との区別 Distinction

を見ても、概念レベルでの区別は総じて明白であるが、これを現実に同定 identify しようとすると、

その境界・程度はおろか、本質の問題迄もが自明ではなくなってくる。「生得的なもの」は「獲得的な

もの」の中に開花し、「獲得的なもの」は「生得的なもの」を土台として実現されて相互に不可分離の

状態にあるからである。総理大臣がいくら貢献し、児童・生徒、失業者がいくら貢献しているかの評価
                  アポステリオーリ
基準に自明なものは何もなく、何らかの後天的な基準の適用、憶断、をもってしか測れないからである

が、これは、いかなる概念もいかなる基準も、その適用は便宜性、恣意性を免れ得ないことを意味して

いるのであって、この隘路は、偏に、「是々非々主義の試行錯誤によって漸進的に改善され、科学の科

学性は徐々に形成されうる」ことを信じるしかないものである。

 いずれにしても、これら努力を継続するところに(社会)科学は成立し、この困難を否定・放棄する

ところに(社会)科学は瓦解するとすれば、「平等の論理整合的要件確立」、端的に言って、「平等社会

の実現」という課題の『困難さ』は、その否定をも放棄をも許すものでないことは、殊更指摘する迄も

ない事だろう。

 【註】

(38) 大庭健「『貢献』の尺度」「平等の正当化」、市川浩他編『差別』岩波書店、1990、227-309、pp.261-274。
(39) I.バーリン「平等」、『時代と回想』岩波書店、1983、301-337、p.322。
(40) 大庭健「前掲論文」、p.275。
(41) R.A.ピンカー「解説」、R.H.トーニー『前掲書』315-325、p.322。
(42) K.R.ポパー(1959)『科学的発見の論理』(上)恒星社厚生閣、1971;(1971)『客観的知識−進化論的アプローチ−』
木鐸社、1974。
 

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