市場原理主義にみる「グローバリゼーション」の矛盾

                              
西 山 俊 彦

   

               「市場原理主義」が、たとえ、「効率的」であったとしても、「所得分配の
      公正」を保証するものとなっているのでしょうか?
      
                             ーグローバル・スタンダードの普遍性 (11) −              

    

 大阪カトリック正義と平和協議会『いんふぉめぃしょん』No.137、 2001.1.20、 4-5頁。

           

 「 ・・・こうして効率上の適正さが確保された場合でも、それによってもたらされた経済状態が、分配
 上適正であるかどうかは、また別問題であって、分配問題は・・・ 修正を行わざるを得ないものである。
 ・・・」(1)

 「効率性」にはその土台をも問題としなければならない、との伊藤光晴の提起です。「市場原理主義」の土台とは、近代市民社会に自由と公正を保証すると見なされてきた「私的所有制度」です。「私的所有権」は「資本主義社会の法的基礎」(2) とも「近代国家法の究極原理」(3) とも言われますが、その実態が「既得権益の独占」に他ならず、自由と公正とは無縁のものであれば、「私的所有権」を土台とする「市場原理主義」も自由と公正とは無縁のものとなるからです。
 20世紀後半には、社会的不条理(4) からの解放が説かれました。市井三郎は「各人は、自分の責任の問われる必要のないことから負わされる苦痛(不定理)から自由にされなければならない」(5) という原則を「歴史の進歩」の基準とし、J.ガルトゥングは「自己の責任に起因しない」「社会構造に由来する」ネガティヴな拘束要因である「構造的暴力 Structural Violence -SV-」(6) からの解放を積極的平和(7) の基準としました。今、GNP,p.c. 世界平均(1997年)が、5,130ドル、平均余命(1996年)が男65年、女69年、成人非識字率(1995年)が男21%、女38%、であるのに対し、モザンビークの GNP, p.c. が90ドル、平均余命が男44年、女46年、成人非識字率が男42%、女77%であるとすれば、(8) モザンビークに生を享けた個々人にはSVが認められます。「社会構造に由来し」「個々人に起因しない」「所与(与えられたもの)」には倫理主体としえの権利義務関係は成立しないので、個々人に責任はあり得ず、責任のない負の遺産からは解放されねばならないという訳です。ところが社会的「所与」には不条理な正の遺産もあります。例えば、日本の GNP, p.c. は37,850ドル、平均余命は男77年、女83年、成人非識字率は男女とも0%(8) ですが、これらはたまたま日本に生を享けたことに由来する「所与」であって、所与には倫理主体としての権利義務関係はないところから、個々人には権原(Berechtigungsgrund)も権利も発生しません。たまたま見付けた「拾い物」を着服すれば「遺失物横領罪」(刑法二五四条)が発生するはずなのに、遺失物以外の「所与」に「所有権」を設定して怪しまないのが理性と啓蒙の近代市民社会、(9) それだけならまだしも、「SV」という負の遺産の不条理を糾弾する平和学者も「私的所有権」という正の遺産の不条理には無自覚で、「全ては神の恵み」を信条とする宗教者も「私的所有権」の正当性を公言して憚らない(10) ― 正であれ負であれ、「所与」には権利も責任も生じないはずなのに ― その上、「所与」には「社会的レベル」のそれだけでなくて「個人レベル」のそれも存在します。人は誰しも、特定の「両親」「家族」「性別」「財産」「国籍」「人種」「文化」等々の下に生み落とされます。もしもこれらの「所与」が社会レベルのものだと言われたら、「健康」「体格」「性格」「容姿」「才能」等は個々人レベルのものではないでしょうか。どちらのレベルの「所与」も「所与」であって、そこには何の功罪も介入せず、従って、何の権利も責任も発生しないはずなのに、不利な所与には責任を負わせる反面、有利な所与には権利を全面的に認める近代市民社会とは、もはや、理性と啓蒙、自由と公正とは無縁のものと言わねばなりません。本当は「全ての所与」を捨象した「人格の尊厳」だけに基づく秩序が自由と公正を保証するものであることを(11) 日本国憲法は見逃していません。
曰く ―
  「すべて国民は、(12)(所与の如何を問わず)個人として尊重される。」(第十三条)
  「すべて国民は、(12) 法の下に平等であって、(所与の如何によって)差別されない。」(第十四条、他)「憲法」とは「国家存立の基本的条件を定めた根本法」(広辞苑)、それが「凡ゆる所与」を排撃し、人格の尊厳にのっとる自由と公正を遵守しているのは理の当然ですが、所詮これらは努力目標であり、既得権益が先行する現実社会を否定するものではないだけでなく、憲法自体も「財産権の不可侵」(第二十九条)を謳っているのであれば、「グロータスよ、お前もか」と言わねばならないのかも知れません。
 とにかく、「市場メカニズム」の最適性の基準である「パレート最適」は「私的所有権」によって保証される「既存の配分制度」には、それがいかに不条理でも、一指も触れるものでないことを再確認しておかねばなりません ―
  「他人の福利をいささかなりとも低下させることなしに、誰彼の福利を増進させることができない状態
 
のことを『パレート最適』という。  ・・・『完全競争はパレート最適をもたらし、また逆に、任意のパレ
 ート最適な状態は完全競争によって達成される』という命題を『厚生経済学の基本定理』という。そし
 て同じことを『(私的所有制を不問に付した)完全競争市場は効率的である』といいかえるのである。」(13)

【註】

(1)

 

伊東光晴「日本の都市問題と現代資本主義」、伊東光晴他編『現代都市政策T』岩波書店、1972、35-60、p.36。

(2)

 

渡辺洋三『財産権論』一粒社、1985、pp.8、35、50。

(3)

 

川島武宣『所有権法の理論』岩波書店、1949、p.40。

(4)

 

不条理−Absurdity−とは「道理に反すること」(広辞苑)

(5)

 

市井三郎『歴史の進歩とはなにか』岩波書店、1971、pp.208、140 他。

(6)

 

J.Galtung,“Violence, Peace and Peace Research.” Journal of Peace Research. No.3, 1969,167-191.
高柳先男他訳『構造暴力と平和』中央大学出版部、1991、1-66。

(7)

ガルトゥングはSVからの解放をもって、「消極的平和」に対する、「積極的平和」の実現と見なし諸学諸賢も鸚鵡返しに
反復しているが、この矛盾については、西山俊彦「構造的暴力と平和構築の課題 −積極的平和と消極的平和の差異を踏まえて−」 『英知大学キリスト教文化研究所紀要』第15巻第1号、2000、27-42、他に解説。

(8)

 

世界銀行『世界開発報告 1998/99』東洋経済新報社、1999。

(9)

 

(1)「自己の身体は自己のもの」であり  (2)「自己の身体の働きも自己のもの」、従って  (3)「自己の身体の働きが生み出したものも自己のもの」と見なすのであるが、そもそも「自己の身体」を「自己の行為の所産」とできる者はおらず、「所与」にすぎないとすれば、(1)そのものが成立しない。J.ロック(1689)『市民政府論』岩波書店、1968、27-30項、
pp.32-36 参照。

(10)

 

CATECHISM OF THE CATHOLIC CHURCH, Geoffrey Chapman, 1994, 2401, 2403。

(11)

 

詳しくは、西山俊彦「『構造的暴力理論』は『完全平等主義』と『絶対人格主義』との別名ではなかろうか?−『個人レベルの所与』からの解放をも『ポジティブな所与』からの解放をも不可欠としていることに関連して−」『英知大学キリスト教文化研究所紀要』第16巻第1号、2001年3月、及び、西山俊彦「私的所有権の不条理性」『平和研究』第24号、1999、
pp.100-109、他。

(12)  

現代「国家」は所与性、拘束性、差別性の最大源であるところから、「すべて人間は」としなければ矛盾である。

(13)

 

佐和隆光『資本主義の再定義』岩波書店、1995、pp.73-74。

TOP

INDEX
(全体)

INDEXへ
(GS)