市場原理主義にみる「グローバリゼーション」の矛盾

                              
西 山 俊 彦

   

                  「自由放任」か「市場介入」か、どちらの政策が市場の効率化に
       役立つのでしょうか
 
        ーグローバル・スタンダードの普遍性 (13) −              

    

 大阪カトリック正義と平和協議会『いんふぉめぃしょん』No.138-2、 2001.3.20、 4-6頁。

           

 バブルが弾けた1990年代は「失われた10年」と言われます。史上空前の失業率と長期不況、いつ終わるとも知れない不良債権処理、この現実を前に、一方では、規制緩和とリストラが叫ばれ、他方では、赤字財政の景気刺激策が断行され、同時に双方を求める者もいる始末、一体どんな政策が有効なのでしょうか。
 [新古典派]か[ケインジアン]か
 近代経済学の一方の雄[新古典派]は
  「市場 -マーケット- にインフレ、失業、景気循環があるのは、規制などの人為的な制度ゆえのこと
 である。もともと市場は完全なのだから、政府の役割は規制を撤廃し市場を完全に機能できるようにす
 ることに尽きる」(1)
と主張します。「神の不思議の御手  Invisible Hand of God 」という予定調和の働きにより「本来の市場」は「完全なもの」であると想定する事は、経済学の創始者 A.スミス以来、(2) L.E.ミーゼス、F.
A.ハイエク、M.フリードマン等、現代自由主義の旗手だけでなく、ワルラスもパレートも、ヴィクセルもシュンペーターも皆、(3)  同様でしたが、この自由放任の完全競争状態では、「すべての財について需要と供給が一致する一般均衡の状態」、(4) 即ち、「各個人の満足が極大化、各企業の利潤も極大化し、社会資源は最大限有効に使用され、完全雇用が実現する」(3) とみなされます。しかし「自由放任」が有効である

        いわ
とされるのは次の謂れ無き理由による事にすぎません。                      

 (1) 「完全な市場」モデルに基づいて、即ち、 @「独占・寡占」「価格硬直性」「情報の不足」「収穫逓
 増」等も、 A「外部性」「公共財」「将来財」等も、存在しないことが前提となっていますが、既に述べ
 た通り、これらの想定は非現実的で相互矛盾さえ含んでおり、「市場モデル」が純化されればされるほ
 ど、その有効性はなくなります。
 (2) 「逆U字型曲線論」等、経済的な根拠に基づくと言われますが、(5) 事実は反対です。
 (3) 理論上、「自由放任」によって「完全競争状態が実現される」のは、「供給はそれ自身の需要をつ
 くる」という「セイ法則」が成立する特殊な場合だけであって、同法則は「恐らく第一次大戦から、ほ
 ぼ(戦後には全く)成立しない」(6) こと。
以上の反証にも拘らず、(7) 「自由放任」の「市場原理主義」が大唱され、あたかも「規制緩和が不況から脱出できる景気対策であり、日米経済摩擦対策であり、新産業創出対策であり、雇用対策である、という、
まるで万能薬のように説かれ」(8) ています。内橋克人はこれを「空想的市場主義」(8)  と呼び、佐和隆光は「市場主義者の主張は、科学的な論証なり実証なりをいっさい経ていないという意味で、マントラ(呪文)
のたぐい」(9) と表現し、森嶋通夫は「セイ法則」も「見えざる手」も迷信と断じます。(10)
 それでは、今一方の雄、政府の市場介入を正当化する[ケインズ学派]はどうでしょうか。「20世紀の
30年代半ばから70年代半ばにかけての40年間は市場経済体制を保ちつつ政府の役割を重視する混合経済は有効、円滑に機能」(11)  しました。公共投資でもって有効需要を常時喚起し、格差是正の福祉厚生政策とセーフティネットの拡充は市場経済の維持強化に必要だったからに他なりませんが、(12)  オイルショックを経た1970年代後半に事態は一変しました ― 「高度成長期も終わり、いずれの先進国も野放図な財政金融政策を続ける訳にはいかなかった」(13) からです。80年代には「規制緩和」「自助努力」のモットーを掲げたM.サッチャー、R.レーガン、中曽根康弘等の新保守主義者が時代を席撹し、混迷の90年代には一大合唱となりましたが、「自由放任」が救世主となれる資格は、もとより、理論的にも実際的にもありませんでした。それでは政府による「市場介入」の方はどうかと言えば、これが有効に機能するためには4つの厳しい条件があることを伊東光晴は指摘します。(14)  その中の第4は「財政金融政策が有効需要を喚起する」ためには「クローズド・システム 閉鎖体系 」が確立され「国際貿易・資本移動が存在しない」ことなのですが、海外生産が常態化し、輸出の動向が景気を左右するだけでなく、国内に投資機会が枯渇している上に金融緩和をすればするほど、「写真金利」(15) 差でもってアメリカに資金も利益も吸い上げられる国際経済の構造は、正に、「クローズド・システム」の反対です。それにも拘らず、赤字財政とゼロ金利策で返済不能な累積債務を積み上げて一極覇権の世界経済に奉仕し続けることは、「市場介入」の前提条件を全く否定した無謀さです。景気低迷と不況、即、「市場介入」とならない事について、伊東光晴に言わせれば、「暴飲暴食を続けておいて胃潰瘍が治らないからといって医者を批判する事は酷ではないか。
ケインズ政策という治療策が有効であるためには、患者自身が『身を慎ま』なければならない」(16)  と直言します。
 このように、「自由放任」にしろ「市場介入」にしろ、それらが有効に働くためには厳しい条件整備が不可欠なのに、日本についても世界についても無為無策、空しいスローガンだけが独り歩きをしています。
 [市場原理主義は持てる者だけのナンセンス]
 ここで資源の効率的配分を約束する市場原理主義が弱者を切り捨て「強者の効率だけを重視するナンセンス」(17)   であることを記しておかねばなりません。効率性の基準である「パレート最適」とは「所得格差を是正したり、環境を保全したり、 ・・・ 不平等をなくするという機能をもちあわせているわけではな
い」(18) だけでなく、ただ
  「他人の福利(ウェルフェア)をいささかなりとも低下させることなしに、誰彼の福利を増進させる(ベ
 ターオフにする)ことができない状態のこと」(19)
を意味するだけなのですから、「希少資源が、すべて、ある特定の個人に配分され、他の人々には全く配分されていなくて」(20) もよく、「世界でもっとも裕福な3人の資産を足すと、もっとも貧しい48ヵ国の年間経済生産を合わせた金額を超える」(21) 事態があっても問題とはなりません。「一般均衡」とか「パレート最適」とは「供給側もその価格では売りたくないし、需要側もその価格では買いたくても買えないという(持たざる者の)断念と怨念を除外して、(持てる者の)需給一致が市場の上で表面的に成り立つ、それだけのことなんです。」(22)  もっとも、1980年に登場した「ブラント報告」(23) は、誰をも排除しないグローバル市場と誰をも生かすグローバル・スタンダードの導入を提示しましたが、未だに、夢物語に留まっています。
 [グローバル・スタンダード -GS- の普遍性]
 これ迄の説明でGSの正体は明らかだと思いますが、一筆だけ記します ―- 「いかなるルールであれスタンダードであれ、それが世界大に適用されれば、それはGS」です。多くの場合それはアメリカ発か先進国発のものですが、(24)   途上国発のものであってはならない訳ではありません。ですから「市場原理至上主義」もグローバルな適用を見たならば、正に、それはGSですが、どのルールであっても特定社会の特定段階に成立したものであれば、当該社会には好都合でも、諸他社会にとっては不都合極まりありませんし、特に経済規範であれば先進諸国に有利であれば途上諸国に不利となるトレードオフの関係のものが殆どです。このためです、S.ジョージがグローバライゼーションは    @ 貧者から富者に富を移転して不公等を増大し、 A 無責任体制を結果するだけでなく、 B 敗者への対策を持ち合わせない、と言ったのは。(25)   それが証拠に、本来のGSなら、その施行を裏付ける法律も組織も機関もなければならないはずなのに、(26)   GSにそういうものは一切なく、世界の投機王 J.ソロスさえ『グローバル資本主義に危機』(27) を唱えています。普遍性とは無縁のGSでは「小錦と幼稚園児を同じ土俵で相撲させろという考え」(28) と同じです。代って本当のGSでは、その適用範囲によらず、その効果から、即ち、グローバル社会の全構成員を、特に、弱い立場・遅れた環境に置かれた者を、生かすかどうかの普遍性で決まります。私達の知っている経済学者とエコノミストの考える普遍性が、このようなものではないとしても、「普遍的愛のみ教え」を信じているとする私達迄もが、決して流されてしまってはいないと、どうすれば断言できるかを熟考しなければなりません。

【註】

(1)

 

佐和隆光『漂流する資本主義』ダイアモンド社、1999、p.224。

(2)

 

B.マンデヴィル(1714)『蜂の寓話−私益すなわち公益−』法政大学出版局、1985 ; 
A.スミス(1775)『国富論』第四篇第二章、中央公論社、1978、pp.119-122。

(3)

 

森嶋通夫『思想としての経済学』岩波書店、1994、p.189。

(4)

森嶋通夫『前掲書』、p.52。

(5)

 

「経済成長の初期に拡大した格差は順次縮小する」とする「S.クズネッツの逆U字型曲線論」、「高所得者への税率を下げれば政府歳入が増え、その利益は底辺にも及ぶ」という「トリクルダウン理論」、「企業の占有率が高くても、参入の自由
さえあれば値上げできないはず」とみなす「コンスタビリティ理論」、に基づく自由化論の背理、杉浦克己「マルクスは本
当に死んだのか」、内藤克人『経済学は誰のためにあるのか−市場原理至上主義批判−』岩波書店、1997、159-184。

(6)

 

森嶋通夫『前掲書』、p.232。

(7)

 

だからと言って“逆は真なり”=“大きな政府は効率的”とはならない事は当然です。

(8)

 

内橋克人『前掲書』、p.72。

(9)

 

佐和隆光『市場主義の終焉』岩波書店、2000、p.199。

(10)

 

森嶋通夫『前掲書』、p.159。

(11)

 

佐和隆光『前掲書』、1999、p.225。

(12)  

森嶋通夫『前掲書』、p.9。

(13)

佐和隆光『前掲書』、1999、p.225、61。

(14)

@ 「経済が完全雇用水準に達した時点で、財政は黒字になっている租税水準と租税体系」を意味する「完全雇用余剰
  full employment surplus」
A 「低金利政策の一般化」による「有効需要政策への基盤」
B 「地域・産業の別を問わない資本移動による調整メカニズムが働く等質的な経済構造」
C 「国際貿易・資本移動が存在しない」「クローズド・システム閉鎖体系」の存在の4条件、伊東光晴『「経済政策」は
    これでよいか−現代経済と金融危機−』岩波書店、1999、pp.147-169。

(15)  

吉川元忠『経済覇権−ドル一極体制との訣別−』PHP研究所、1999、他。

(16)  

伊東光晴『前掲書』、pp.150-151。

(17)  

岸本重陳「ナンセンスな市場均衡論」「経済学の再生を求めて」、内橋克人『前掲書』、36-68、pp.48-52。

(18)  

佐和隆光『前掲書』2000、p.215 ; さくら総合研究所編『経済用語の基礎知識 1999−2000』ダイアモンド社、1999、p.034。

(19)  

佐和隆光『資本主義の再定義』岩波書店、1995、pp.73-74。

(20)  

宇沢弘文『近代経済学の再検討−批判的展望−』岩波書店、1977、p.86。

(21)

L.ブラウン『地球白書 1999-2000』ダイアモンド社、1999、p.34。

(22)

岸本重陳「前掲論文」、p.49。

(23)

ブラント委員報告『南と北−生存のための戦略−』日本経済新聞社、1980。

(24)

T.リベラ「グローバライゼーションと次なる千年紀の挑戦」、樋口陽一他編『グローバライゼーション −光と影−』
サンパウロ、2000、23-36、p.24。; 内橋克人『前掲書』pp.238-239 ; 西川潤「国際基準とは」、内橋克人『前掲書』
237-267。

(25)

S.ジョージ「グローバライゼーション −光と影−」、樋口陽一他編『前掲書』、4-22、p.8。

(26)

S.ジョージ「市民の援助のための国際的課税の必要」、樋口陽一他編『前掲書』、p.237-246。

(27)

日本経済新聞社、1999。

(28)

伊東光晴『前掲書』、pp.51-52。

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