市場原理主義にみる「グローバリゼーション」の矛盾

                              
西 山 俊 彦

   

                「市場原理主義」の効率性は、どんな理論に基づいているのでしょうか    
                                             
ーグローバル・スタンダードの普遍性 (8) −
              

    

 大阪カトリック正義と平和協議会『いんふぉめぃしょん』No.134、 2000.10.20、 6-7頁。

           

 「社会主義の崩壊」は社会主義の「非効率性 inefficiency」の証拠とはなり得ても、「市場原理主義」の「効率性 efficiency」の証拠とはならないことを、前回、指摘しました。歴史的事実から証明できないにもかかわらず「市場原理主義」の大合唱が続いているとすれば、せめて理論的裏付けがあるはず、今回それを見なければなりません。
 「市場原理主義」とは「価格の調整機能(プライス・メカニズム)を通して資源配分を行わせる仕組み」(1)のこと、そこでは価格の変動に応じて財・サービスの需要と供給が一致し、財・サービスの最適配分(2)が実現すると信じられていますが、(3)    そこで前提となっているのが「完全競争市場」の成立です。「価格メカニズム」が完全な形で作動する市場のことですが、それには、通常、次の4条件が充たされていなければならないとされています ―   
  

 (1) [一物一価]  
     
市場で取り引きされる財・サービスは完全に同質であること(4)
 
(2) [プライス・テーカー = 市場価格受容者]
     価格メカニズムによる資源配分であれば、各人にとって価格は所与のものでなければならず、
     そのために各人は市場価格に影響を及ぼす(プライス・メーカー = 価格支配者)のではなく、
     プライス・テーカーでなければならないこと
 
(3) [情報共有・完全予見]
     すべての消費者、生産者が、市場で取り引きされる財・サービスの品質等についての「情報」
     を熟知しており、将来のことも完全に予測できること
 
(4)  [全員対等]
     例外なく市場への参入と退出の自由が保証されており、これに反するいかなるコストも規制も
     あってはならないこと(5)          

「完全競争市場」のための以上の4条件は、いずれも余りにも現実離れをしたものと言わねばなりません。例えば 条件(1) については、「ビデオといえば、その機能やデザインはもとより、アフターサービスなどをも含めて完全におなじでなければならない」(6)   とされていますが、「多くの製品は、品質・色・スタイル・デザイン等の物理的な性質によって、また広告・ブランド名などの主観的イメージによって、さらに立地や付帯サービス等を通して、差別化されてい」(7) ます。 条件(2) の[プライステーカー] については、誰も価格支配者とならないために「生産者も消費者もその数は『無数』であり、個々の消費者が購入する、また個々の生産者が供給する財・サービスの量は、市場全体の取引量にくらべれば大海の一滴のようなものでなければならない。さもないと、一生産者、一消費者の行動が市場価格に影響を及ぼすからである」(8) とされていますが、少なくとも生産者が無数でなければならないとか、生産性の向上の余地がないというのは「同一のコストで同質の製品を生産することが仮定されているからで、そこでは、広告や値引き、品質改良(製品差別化)などの競争戦略はすべて定義上排除されているため、理想状態とされる『競争的均衡』にあっては、均衡価格に落ち着くから、価格をめぐる競争も存在しないことになる。要するに『完全』競争とは実際、すべての競争的活動の不在を意味するというほかはない」(9) ということになります。条件(3) [完全情報・完全予見]も現実とは裏腹のもの、なぜなら、新規科学技術を創出する者が産業機会を開拓し、他に先んじた情報を持つ者が投機の機会を制するのですから。 条件(4)[完全対等]についても全く同様、生産者−消費者、資本家−労働者等々、経済活動のどの立場にあっても、資本・資源
・情報・機会・組織・文化 ・・・ の異同、寡多による支配−被支配の差は大きく、しかも、参入退出には、常に、莫大な時間とコストとリスクが伴うのですから。
 要するに「完全競争市場」の4条件は「非現実的きわまりない」(10)   仮定であって、これら条件を満たそうとすればすればすれほど理論と現実との隔たりは大きくなって、 「市場原理の効率性」も現実離れの空論となってしまいます。「完全競争状態」に代って、次回に説明する「市場の失敗 Market failure」こそ市場の実態ということになりますが、それにもかかわらず「市場原理の効率性」が、なぜ理論的根拠もなしに、大合唱となっているのかが不思議で不思議でなりません。次に記すのはこの領域の諸権威の忌憚のない見解です ―
 「完全競争はただに不可能であるばかりでなく、劣等なものであり、理想的効率のモデルとして認定す
 べきなんらの資格も有しないものである。」(11)
 「近代競争的均衡理論は、競争過程の効果として説明されるべき状態を存在するものとして仮定してし
 まっている。」(12)
 「純粋な市場経済がうまくいくというのは一種の信仰であって、決して理論的にも実際上も論証された
 ことではない。」(13)

【註】

(1)

 

さくら総合研究所編『経済用語の基礎知識』ダイヤモンド社、1999、p.036。

(2)

 

完全競争を前提とする市場原理主義が「効率的」であるというのは次の意味でのことと言われます。「他人の福利(ウェルフェア)をいささかなりとも低下させることなしに、誰彼の福利を増進させる(ベターオフにする)ことができない状態のことを『パレート最適』という。また逆に、他人の福利をいささかも低下させることなしに、誰彼の福利を増進させることができる状態を『パレート不最適』という。『完全競争はパレート最適をもたらし、また逆に、任意のパレート最適な状態は完全競争により達成される』という命題を『厚生経済学の基本定理』という。そして、同じことを『完全競争市場は効率的である』といいかえるのである。」佐和隆光『資本主義の再定義』岩波書店、1995、pp.73-74。

(3)

 

アダム・スミス以来、このような作用を「神の見えざる手 Invisible Hand of God」の働きと表現してきましたが、本当にそのような「御手の働き」があるのかどうかが、一連の検討課題です。『国富論』(1789) 第三篇 第2章、中央公論社、
1978、U、pp.119-122。

(4)

 

製品差別化があっても、その評価が万人に同一であれば構わないが、そのような評価はあり得ないところに基づく条件。

(5)

 

佐和隆光『前掲書』1995、p.75-77。

(6)

 

佐和隆光『前掲書』1995、p.75。

(7)

 

越後和典『競争と独占』ミネルヴァ書房、1985、p.102。

(8)

 

佐和隆光『前掲書』1995、p.75-76。

(9)

 

石原敬子『競争政策の原理と現実』晃洋書房、1997、p.21。

(10)

 

佐和隆光『前掲書』1995、p.77。; 「自由で摩擦のない市場経済の仕組みを解き明かす新古典派の経済理論は、真空状態を
仮定する古典力学にたとえられる。」『同』、p.109。

(11)

 

J.シュンペーター(1942)『資本主義・社会主義・民主主義』(上) 東洋経済新報社、1962、p.193。

(12)  

F.A.ハイエク、Individualism and Economic Order, 1948、in 越後和典『前掲書』、p.56。 

(13)

 

佐伯啓思『ケインズの予言 −幻想のグローバル資本主義−』PHP研究所、1999、p.18。

TOP

INDEX
(全体)

INDEXへ
(GS)