“問われている”
信仰の正体が
   
          西山俊彦
                
「声」1284号 1986年10月 52-54頁掲載

 

 
 去る7月27日夜半、M・ジェンコ神父“釈放”のTVニュースが流れた。カトリック・リリーフ・サービス、ベイルート責任者が誘拐されたのが昨年1月8日、以後音信途絶、解放陳情に奔走される神父の御兄弟のお姿は、私も何度かお会いして 、誠に痛々しかった。朗報に先立つこと五日、手にした手紙に認めてあった―「主の復活ほど大きな出来事はなかった。しかし我々も、進んで兄弟を愛し、心から赦し、主御自身のように生命を賭して平和に励むなら、同じ復活に与かることができる」と。在ニカラグア28年、7月3日帰天されたSr.B・サラゴサの絶句である。私がチゥダッド・サンディーノにお訪ねしたのは 昨年7月5日の事だった。 この3月末まで丸1年、許されて得た『平和巡礼』の上澄みをここに記したく思う。
 20年振りのアメリカに人種差別改善の足跡を認めた。しかし全般的落込みは予想以上だった。3年間セントルイスでお世話になった教会周辺は廃屋同然、全米で の失業者800万、要援護者2000万以上、貧困階層3300万、ニューヨークに野宿する者3万人…、物乞う人が目立ち、「何もしてくれないのなら何しにやって来た」と詰寄られさえした。2ヶ月間自炊を楽しんだ宿舎CARAの筋向いの幼い女児が 或る日“
Mummy bring me back some food” と叫んでいた。一方天文学的巨費を要するSDI開発に政府産業界は狂奔する。ワシントン、ニューヨークを中心に諸機関を訪ね、ピース・ペンテコステにも参加した。運動団体の多くは宗教的背景を持っている。先に平和教書を発布した米国司教団は、11月には経済教書“Economic Justice for All”を発しようとしている国際権力構造の一方の極にある国の教会が、今、一定階級、一定先進国だけの経済ではなく、すべての人の利益となるそれを宣言する。 昨年8月広島に代表を派遣したのも、MX等軍拡反対証言を議会で繰返しているのも同じく米国司教団である。
 中米・カリブは例外なく国際政治経済体制に翻弄され、自律産業不在に起因する貧困、抑圧に喘いでいた。厳しい自然環境の下、水、食糧、衛生、職場、学校…そして自由、ないないづくしの社会は基本的要件を欠いている。パナマはダリエン地方の 怖るべき未開性、ハイチでは悪臭鼻を突くドブの中で人間が体を洗っていた。ハイチでもキューバでも、渦中の人物と会っていながら名乗ることさえためらわれる事態に、情勢の厳しさを垣間見た。国際、国内的対決の狭間に内的亀裂の拡大しつつある教会、反革命分子とのレッテルで政府の厳重監視下に置かれている教会、独裁制化に抑制を強いられている教会、……左右いずれの政権下に あってもこれだけの緊張関係を持しているのは、民衆と共に歩む教会の生きている徴しと解され、それだけに関係者の苦悩の程が思い知らされた。
 7月末ハバナからマドリッド着、先進国の“きらびやかさ”に龍宮城に踏み込んだ錯覚を覚えた。約4ヵ月、ヨーロッパ各地の大学、研究所の心地よい雰囲気を味わって後、中東、アフリカ、アジアに直視した現実は気の重くなるものだった。もはやゆとりある反戦、反核ではない。飢えと渇きと放浪からその日その日を凌ぐことが焦点だった。スーダン、エチオピア等東アフリカ7ヵ国は、蜃気楼の 絶えない水なしの荒地だった。モガディシオの病院にはハエとお腹の膨れあがった子供達が群がっていた。目だけが未だ何かを語る子供達に出会ったのもソマリアだった。インドには昔、狼少年が一人いたという。しかしデリー、ベナレス等に路上生活を強いられた狼少年は少なくとも何百万人とはいた。マニラはエルミータ地区の“女性市”では、胸の番号だけを頼りに我身を売り、彼女らの出身地の一つネグロス島ではネズミを食糧としていた。貧困、汚職、腐敗、圧政、内乱、棄民…等々、構造的貧困は人類を真底蝕んでいる。将に「未開発状態は世界平和の一大脅威」
(ヨハネ・パウロ二世、1986年平和の日メッセージ)である。しかも、緊急食糧援助を受けている国に輸出用バナナ畑だけはたわわに広がり、井戸掘り支援を続けている傍を装甲車が疾走し、国威高揚の殿堂が跋扈する。1981年以来債務繰延交渉を行った25途上国中、6ヵ国は毎年10億ドル以上を先進国よりの武器購入に費やしている(
R.L. Sivard,1983)。誰しも南アの差別政策は非難するが、世界大の南ア化は非難しない ―― それによって私の生活水準が保たれている差別の構造を。最早誰が罪なしと云えるであろうか。 マルキシズムを含めナイーブなヒューマニズムは現実を解明できなう。宗派の如何を問わずファンダメンタリズムは独善的で宗教的とさえ云えない。神の恵みによる救いが要るのだ。理想的、構造的で、全人類を包含する救いが。
 問われている ―― すべての人間の品位が、救いの真実が、キリスト教の本質が。人類の4分の3に隷属を強いる「弱肉強食」の社会は人間のものではない。一切が心に起因するとは云え、この世を聖化できない宗教は、神の子の受肉を核心とするものではない。少数者だけの救いに満足することは絶対者を私物化するものだ。信じているだろうか、神の子がおいでになったことを。身をもって平和を約束して下さったことを。聖旨の実現を信じる者は山をも動かせ、動かす術をも知るようになる。真に祈り求める者は「平和は人間の品位にかけて不可欠であるばかりでなく、普遍・永続的正義に基づく新しい社会は可能」(ヨハネ・パウロ二世、同)であることを実証する。何事も見込みなくして始める者はいない。まして既成事実の変革、地球大の体制変革を迫るには、よほどの見込みと科学的裏付けが必要となる。にも拘らず国連を初め諸研究機関での対応は説得力あるものとなっていない。途上国の厳しい現状に身を挺して励む兄弟の犠牲が、局面打開への着実な一歩とされて行く展望が不可欠である。平和は可能であり、そのための知恵も力も、聖恵みも与えられていると信じたい。主の復活はかりそめのものではなく、その値もかりそめのものではなかった筈だ。私達がその値を払うならば、神の恵みの偉大な業に与ることができる。ローマ聖座の最近の動向、アメリカ、中南米、フィリピン…における教会の苦悩の証しは、復活の主の現存を明示するより確かな前兆と受 けとめたい。

 1ヵ年にわたる巡礼はまことに強烈だった。地球大に拡がる非人間化の前に、信仰者の正体が問われている。視線を交えた無数の兄弟の目も問うている――我々の信仰の本質がいかなるものかを――

         

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