「平和」
それは信仰の本質
   
          西山俊彦
                

 


 

「きょう、ダビデの町に、救い主がお生まれになった。その方こそ平和の君」

                                                      ばっこ
 その昔、天使の声を耳にした羊飼いは、ひどく怖れた。二千年を経た今日、同じ聖なる地に、人間性を拒絶する暴虐が跋扈

し、二百万を越える兄弟が流謫の地 にあるのを見て、慄れる。昨年(1986)三月に至る1ヶ年の「平和巡礼」で世界各地に目撃した凄まじい光景を胸に、ここに、平和の君がもたらして下さった福音の基本ラインを、教会の公式見解を中心に、確認整理し、信じる者だけに約束された「大きな悦び」への課題と希望を共にする縁としたい。


「平和」、それは福音の本質
 「あなたがたに平和」、これが主が与えて下さった福音のすべてであった。福音の真髄である平和は、人間の側からみれば、「神の生命の完全な享受」(神の国19・11、神学大全U・U 29 2-4)とも「人間本性の究極的完成」(同)とも表現され、従って平和は、「正義が平和に悖るところを除去する意味で、間接的には正義の業である」が、「直接的には愛の業」(神学大全U・U 29 3・3 GS78
(1))と説明される。「人間本性の全人格的究極充足態」(EN33)に相応するところを、「旅する者」(LG48 LG51)の立場に立って、平和は、A、個々の「人間本性の全体」を充足させ、B、「人類全体」を包含向上させるもの(PP14 PP42 PP87 EN9 RH15)であることまず確認したい。

 A、人間本性の全的充足、とは、(1)人間の霊的・絶対的本性だけではなく、(2)物質的・相対的本性も充足されねばならぬことを意味している。(1) 霊的・絶対的本性が福音の第一義的目的であるのは、「人間の尊厳」(RH14)が、霊的絶対者とのかかわりに定立されるからである(PP42 拙稿1987A)。ここに「霊的本性の充足が優先される」(EN34 OA45 RH7-12)理由があり、これを社会正義の実現を強調したメデジン・ラテンアメリカ司教会議は次のように表現する−「キリスト教のメッセージの独自性は……この変革をもたらす人間の回心をまず強調するところにある。われわれの新しい大陸は新たな社会構造の再構築なしにはありえないが、それ以前に、新しい大陸は新しい人なしにはありえない」(MDT・U 3-4)と。
(2) 物質的・相対的人間本性の充足も同様に福音の一部である。貧しい者にも告げられる福音が「飢えた者を良いもので飽かす」ものでないとすれば、自己撞着であろう。メデジン会議は「貧しさ−人間生活に相応な財の欠乏−は 、 神の意思に反した、不正と罪の実りであり、それ自体悪である」(MD W・U 4a)と断言する。
 相対的と言われる理由は、身体的・物質的本性の充足は、歴史的・社会的制約を帯びており、必然的に多様性を示すからである。例えば、食物の摂取には、粟、稗、麦、米等、どれでなければならないとの原則は存在せず、生活水準の 向上にし

ても、賃上げが唯一の手段ではなく、物価対策、減税、社会保障、公共施設の充実等、方策選択の余地は少なくない。
                
・・・・・
但し、物質的・相対的本性の充足も福音の本質をなしていることはとくと明記しなければならない。なぜなら、いかなる食

物を口にするかは自由選択によるとはいえ、栄養の補給自体は、人間本性に本質的で不可欠的なことだからである。物質的・

相対的充足も、全人格的本性充足を約束する福音の本質をなしていることは、強調しても強調しすぎることはない。この点に関する認識は十分とはいえないからである。
 B、福音の約するところは人類全体の本性充足であることは、(1) 個々人(ミクロ)的レベルでの充足にとどまらず、
(2) 人類全体を充足向上させる社会(マクロ)的レベルに及ぶこと。(1) まず個々人のレベルでの充足であるとは、あらゆる自覚も行動も、個々の責任主体を中心に展開するからである(OA48 MD U・U 14C)。(2) 平和の福音が社会的レベルに及ぶことは、正義(神学大全U・U 58・2)も愛(同U・U 29・1)も、社会的次元に結実するものだからである。「正義の果実」、「愛の業」(GS78)が平和をもたらすものであれば、福音的であるためには、「現代世界で論じられている(社会構造上の)正義、解放、開発と平和の諸問題を無視して、新しい愛の掟を宣言することは絶対にできない」(EN31)こととなり、「正義のための戦いと世界の改革への参加は、福音宣布の本質的な構成要素となる」(JW6)。これは「不一致の原因、とりわけ戦争の温床となる不正と過度の経済的不平等を取り除くこと」(GS83) はもとより、「基本的人権を保障する機構づくりを目指さねばならないこと」(GS86d、EN39、EN36)を意味している。福音の本質的要素 である社会的レベルへの三無主義

       ないがし
は福音の本質を蔑ろにするものである(MD W・1 1、MD U・U14C)。  

 主の約束にかかる福音が真に福音的であるためには、人間本性を全的、全人類的に充足していなければならず、これに欠けることは福音を歪なものとする。福音の全人格的理解だけが自信と信頼の基礎となる。 
   
福音の担い手
 福音がいかなるものかが理解されれば、福音の担い手も、当事者間の関係も自ずと決まる。今一度繰り返そう。福音は、個々人のレベルにおいても社会構造のレベルにおいても、霊的・絶対的本性と物質的・相対的本性双方の充足を約するものである。その充足のための、必然的に目的を異にする、機能集団は複数個存在する。教会の第一義的使命は、「究極的救いと終末的完成」(GS40)の観点から、人間存在に根源的意味付けを与える(EN32 EN20)霊的・宗教的なもの(EN34 EN32)であって、そのために教会は「世の光」(LG1 LG3 GS4 GS10)、「地の息吹」(GS40 GS26)としての威力を発揮する。教会は政治団体でも、福祉団体でもない。
(2)「教会がその使命と本質のうえからいかなる特定の 政治・経済・社会体」(GS42)と同化することも、同一視されることもあってはならない(EN32)。裏を返せば、文化形態、政治・経済・社会的機能の維持増進を第一義的目的とする諸機能集団が不可欠なわけで、それら諸集団の存在と使命は充分に尊重されねばならないこととなる。相対的次元における形態的多様性、機能的多次元性の理由である(GS42 PP38 PP39 OA50)。「チェザルのものはチェザルに、神のものは神に」はこのような第一義的機能にみる諸集団間の関係を表現する。

 それでは政教分離を典型とする機能的独自性の尊重は、教会の物質的次元への関与を否定するのだろうか。機能的集団関係が世界大に確立機能しているならば、キッパリ「否」である。しかし、平和を目指し、福音化に 努めねばならない状態(過程)にある限り、「否」とはなり得ないのが事実である。まず機能集団関係が確立していない状態とは、

[図 T]

福音の諸次元および所轄団体の類型例示

    但しこの例示は、たとえば教育活動が、その実施の仕方によって、いかようにも
   分類され得るように、あくまで類型的理解のためのものである。

人間本性と福音化の主体

      拙稿「基本的人権と人間本性」『サピエンチア』21号 1987A 参照。
霊的・絶対的充足次元 物質的・相対的充足次元






個々人の
 福音化

(1)教 会

(3)福祉団体(教会−補助性の原理による)

社会構造
の福音化

(2)教 会

(4)政治団体(教会−補助性の原理による)

諸機能的要件の充足を第一義的とする諸集団が未成熟か、或いは不全である場合である。教育、医療、…機関が未熟であった時代には、教会がそれら機能を補完してしてきた。政治・経済的体制が発達している時代にあっても、人間本性の人格的充足に悖る機能不全の場合には、それを矯正補完する義務を免れるものではない(GS42 EN30)。未成熟な場合、不全の場合を含めて「補助性の原理」(GS86c MM53 383 PT140 PT141)の名の下に長く実行されてきたが、それが「救いの普遍的秘跡」(LG1 LG48 GS42 GS45 AG1)としての使命発揮であることは言うまでもなかろう。但し、(補助性の原理に基づく図T(3)(4)の次元への関与ではなく、(3))、第一義的使命に 基づく図T(1)(2)の次元への関与は教会固有のものであって、しかと自覚徹底されねばならない。いかなる社会構造にもそれを裏付ける価値理念があることは指摘するまでもない。
 今一定の社会構造が病んでいるならば、それは社会構造を支える精神構造が病んでいるからであって(PP66)、この価値基盤の福音化こそは、教会固有の使命である(EN18 EN19 GS81)。社会規範の変革、世界大の価値転換は至難の課題ではあるが、そのために教会がその崇高な使命を免除される訳ではない。いかにこれを実行するかの具体策こそ肝要である。明瞭な区別を欠いてはいるが敢て記そう。「(絶対的貧困と精神的隷属の支配する現代社会にあって)教会には 、解放する義務、この解放を始めさせる義務、それをあかしする義務、それを完成させる義務がある」(EN30)と。

わたしたちの信仰と「平和」
 福音の約束するものは、平和、平和の担い手はあらゆる人々とあらゆる機関、そして教会はその根幹にかかわる崇高な役割を担っている。今平和を「世界大の秩序確立」(神の国19・13)と置き換えてみれば、カトリック教会が、A、世界大の視野に基づく、B、人類全員の例外なき参与のために、特別な位置を占めているのが明らかである。

                             スキャンダル
 A、人間性の本質を冒瀆する世界大の犯罪(GS88 JW3)から目を逸すのでなければ、抜本的構造変革の必要性(GS1 GS86 

PP32 PP81 EN36 EN39 DM1 1-1)は歴然である。しかし変革の主体もなければ、その見通しさえ確立されていないのが現状(GS82)、構造変革が闇雲にできないとすれば、秩序達成へ向けての計画も(GS87 PP32 PP33 PP50)そのための機関も必要である(GS90 PP78)。 第二バチカン公会議は、専門機関の設立を提唱し、共同計画の必要性を認めたが、実現されているとは言い難い。世界大の最重要課題についての責任ある機関が存在しない現時点では、「時のしるしを探求して、福音の光のもとにそれを解明する使命を持っている」(GS4 AG1 PP13 JW5)「救いの普遍的秘跡である教会」がこれに対処しなければならないのは、これまでの説明に明らかであろう。しかも教会が有する権利は義務でもある(GS42 JW36)。もちろん真の平和への展望を明示することは、政治・経済等領域への介入になろう筈もないが、そもそも教会が、文化的・社会的先端領域に、かくも莫大なエネルギーを(アメリカに限っても218のカトリック大学)傾けている理由は、主の平和の可能性を示し共働に努めるめでなければ、どこに見出せるのだろう(P・アルペ「カトリック教育の新理念」1973参照)。カトリック教会には普遍的価値観も、善意も、世界大の組織も、行動力もある。具体的 、意識的、実践躬行が切に望まれる。

 B、紙幅の都合上、教会の“主体”について触れることができなかった。代わりに、普遍的価値観を土台に「主の約束」を信じる者全員に求められている留意点を三つに限り記したい。
 ⑴「平和の自覚化」 平和が福音のすべてであり、福音を信じるとは、平和は可能であることを信じていることを自覚す
 ること。お題目とか方便としてではなく、平和の君の約束を確信して生き始めるとき、新たな世界が動き出す。
 ⑵「全体像を育むこと」 平和の理念を理解するだけでなく、それをどのように実現したらよいかを見究めようとすると
 き、日々の活動の意味づけと生活の見直しの輪郭が現れる。
 ⑶「自分の役割をつかむこと」 全体的見通しの中で自分には何ができるかを具体的に見究め実行し、その環を着実に拡
 げること。



 
「平和の君」のご誕生は、人類の歴史にとって決定的転換を告げるものだった。闇と死の支配する涙の谷にあって、「私
                       
・・・・・ 
はすべてを新しくする」、「平和は可能である」と身をもって確約して下さったからだ。クリスマスを祝う私達は、今年も
                                                     
ママゴト 
「平和の挨拶」を交わし、主の贖いの事実に与かる。信じてもいないものを信じているかのように装うことは、よくて戯事
                                             よきおとずれ         
にすぎない。しかし馬槽に集う人々のあの貧しさの心に徹し、福音を真底信じ始める時、それは山をも動かすものとなる。

平和こそ福音の本質、平和の福音の真実は、まさに、我々の信仰の内実にかかっている。


                                  『声』1987年12月  第1297号 より   


 
    [註]
(1) LG 第二バチカン公会議『教会憲章』1964
GS 第二バチカン公会議『現代世界憲章』1965
AG 第二バチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』1965
MM 教皇ヨハネ23世回勅『マーテル・エト・マジストラ』1961
PT 教皇ヨハネ23世回勅『パーチェム・イン・テリス』1963
PP 教皇パウロ6世回勅『ポプロールム・プログレシオ』1967
OA 教皇パウロ6世回勅『オクトジェジマ・アドヴェニエンス』1971
EN 教皇パウロ6世使徒的勧告『福音宣教』1975
RH 教皇ヨハネ・パウロ2世回勅『レデンプトール・ホミニス』1979
JW 第2世界代表司教会議『司祭職と社会正義についての宣言』1971
DM 第2回ラテンアメリカ司教会議『決議文書』1968
(2) 拙稿「平和−現代の不安とその充足の視点から−」『声』1981年6月号参照。
(3) 但し補助性の原理に基づいて教会が第1義的目的以外の活動に関与する場合でも、平和へのどの次元の目的も本来福音的であること故、その目的自体を目的として補完しなければならす、勢力拡大等の方便とすることは許されない。M・テレサの小さな業が無限の感動を呼び起こすのも、この献身と節度のためである。

 

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