「平和」
現代の不安とその充足の視点から
   
          西山俊彦
                

 


 

“私の思いは、平和のそれであって、苦痛の思いではない”
 

 教皇ヨハネ・パウロ二世のアピールは慈父であり巡礼者である者の究極的目標を明示した。「キリストは平和の 外に何を教えられ、何を述べられたか。主イエズスはいつも『皆さんに平和』と挨拶された」(エラスムス)。キリストの御教えは平和の教えである。ではキリストの約束し給うのはいかなる平和なのだろうか。ここでは、現代の不安とその充足という二側面から平和への精神構造をスケッチする。

「平和」、それは福音の本質
 「人間をして真の人間たらしめる」ところに平和の実現があるとすれば、平和への精神構造には二過程が考慮される。人間本性を圧迫する凡ゆる束縛からの解放と、人間本性の全き充実である。
 歴史は諸々の桎梏からの解放過程を明示する。ごく図式的に述べれば、原始・未開社会から古代・中世の時代に到る迄、人間は自然的・社会的環境に埋没し、精神的・文化的営みにおいても既存の枠組を当然視し、疑念を差挟む余地すらなかったと言ってよい。いわゆる『閉鎖社会』である。それに引換え、「我思う、故に……」に象徴される近代的自我覚醒は、高生産性に裏付けされて、個が凡ゆる 桎梏から自由であることを理想とする『解放社会』をもたらした。凡ゆる価値規範、中でも人間的レベルを超える聖なる次元のそれは禁忌された。宗教は滅び、“神は死んだ”。人間性が信頼に足るものと見做された暫くの間は、人間が自らを絶対化したところの偶像、“人神”が神の座についた。自我か意識か、理性か意思か、君主か英雄か、国家か民俗か階級か、科学か技術か、理想か主義か、自由か愛か誠実か……、しかし、いかなる人間、いかなる能力を信頼し信仰したとしても、それは所詮、人間性の愚味を讃美することでしかなかった。「ヒューマニズムをつきつめて行くと、必ずニヒリズムに行き着く」(久山康)。「全てが許されている」解放の極、人間至上主義の勝利のエピグラフの直下には虚無の世界が口を開く。自己のみが唯一の依拠である世界は将に、眩暈・嘔吐と倦怠の支配する世界に外ならない。
 P・ティリッヒは人間存在を危機に陥す三つの不安を指摘する。人間存在が「存在論的(ontic) に脅かされる」『運命と死の不安』、「倫理的に脅かされる」『罪責と断罪の不安』、そして、「精神的に脅かされる」『空虚と無意味の不安』である。それぞれの不安は、西洋文明における古代、中世、近代の末期に典型的とされ、近代文明の破綻期に当る現代は『空虚と無意味の不安』が顕著となる。『無意味の不安』とは「すべての意味あるものに対して意味を与えるところの意味、即ち、究極的関心を喪失」するところに起因し、『空虚』のそれとは「精神的中心の崩壌によって、無意味の深渕に追いやられた状態」である。『空虚と無意味』の不安は根源的不安である。『根源的』とは「それによって生き、そのために死ぬことができること」、即ち、究極的価値を指しており、従って、現代の不安はそのような究極的価値基盤を喪失したところに由来する。凡ゆる束縛からの極限、あり余る“自由”とあり余る“豊かさ”の現代が、空虚と動揺の支配する根源的不安の時代とは何たる皮肉と言うべきではなかろうか。

根源的充足だけが平和の基礎
「数え切れない程の顔を持っているようで」(ヴァレリー)。「何者にもなれなかった」(ドストエフスキー)。ニヒルな人間はどこに安らぎを見出すのか。友人の中にか。「彼等とて我々同様に悲惨であり、我々同様に無力である。彼らは我々を助けてはくれないであろう。人は一人死ぬであろう」(パスカル)。“神の死”を宣告し、“神々の約束”に幻滅を覚えた現代人は、もとより“古き良き時代”に回帰することもできない。道化か、狂気・自殺か、真の宗教への道があるばかりである。道化とは「醒めた自己を押し殺しつつ、自作自演のお芝居を演じ続けること」である。孤独な自己を一時の忘却で慰撫する喜劇は、問題の延期であって、解決ではない。又、何者も自己を全的に否定し得ないとすれば、自殺も救いとはならない。一人「宗教的な生き方だけが最後に残る」(三木清)。
 人間とは「人間を限りなく越え行くもの」(パスカル)であり、人間は「自らが住むこの小さな地球を必要とするのと同じように、測りしれないもの、限りないものを必要」(ドストエフスキー)とする。人間とは、この「越えゆくもの」「限りないもの」、即ち、超越への本性が充足されずにはやまない存在である。一人、神との交わりにおいて超越的本性は充たされる。実に、
  「人の生きるのはパンのみによるのではなく、神の口から出る総ての言葉による」
のであり、又、
  「労苦して重荷を負う者よ、来なさい」
との招きがこの上ない慰めを与えるのも、同じく神の言葉であるからである。
 ニヒリズムに冒され、エゴの醜さに沈澱した人間は、自己一身をさえ救えない哀れな存在である。人間的レベルでのみ人間を見れば“石ころ同然”と云わざるを得ない。然し、「神の言葉」に生かされ、根源的充足を得た時、この同じ哀れな存在は、『神の似姿』、『神の子』としての本性を発揮するようになる。

教会は政治結社か福祉団体か
“愛の実践”を叫ぶ余り、教会が福祉団体の観を呈することがある。労働運動、各種人権擁護運動、東西・南北問題から、病める隣人へ愛の手を延べること迄、どれもこれも実践しなければならない緊急事と説かれる。キリスト教と社会主義、社会運動は異名同体(村井知至)とされることさえある。真実はどうか?
 この点に関し、冷静に、然し断固として叫ばずにはいられない。「神の国はこの世のものではない」と。ラザロの復活の後にも死は人間を支配し続け、貧しき者も常に我々と共にいるのである。外的束縛から完全に解放され、社会主義社会が到来したとしても、罪と死を担う運命は微動だにしない。キリストの約し給うところはこれらに克って余りあるものである。「私はあなたたちに平和を残し、私の平和を与える」。然しキリストの与え給う平和は、「この世が与えるようにして、与えられるのではない」。教会は福祉実践の場でも政党活動の場でもない。
 教会は「神と人との出会いの場」である。そこに集う人々は、罪と死の汚辱を纏いながら、根源的癒しに与かり、終ることのない安らぎを得る。再び飢え、再び渇く類の癒しではない。永遠の生命のそれである。それは悲惨の中にも憩いを、裏切られてもなお愛する力を、死に直面してもなお希望する恵みを与えるものである。キリストの与え給うのは根源的平和である。これこそ人間を真に生かすものであって、これ以外の充足は全て付随的、従属的なものに過ぎない。

「私の名のために」
 
きりすとの約束される平和、教会で得られるそれこそ、平和の真髄、唯一の土台である。人間に超越性を付与し、『神の子』とするからである。
 それでは、キリストの御教えは、現実の矛盾から目を逸らせ良心を麻痺させる免罪符を与えるものか。教会とは礼装に浮身をやつす種族の社交の場なのだろうか。否、否、そうではない。否、狂気のように叫ばずにはいられない。断じてそうであってはならない、と。
 我々の信じるのは「人となり給うた」お方であり、我々に与えられる生命はキリストのそれである。いと小さき者の一人となられたお方に肖かろうとする者は、彼の愛し給うたように、彼の愛し給うた者を、彼自身と見る。彼が兄弟の一人となられたように、私も兄弟の一人とならなければ、私の本性は充たされない。仏教でも「衆生無辺誓願度」とか「上求菩提・下化衆生」と云う。上に菩提(悟り)を求める道自体が、実は、下に衆生を済度する道であるとの謂である。“自他不二”の自己が菩提であり、仏性であるならば“自他不二”の仏性を愛せずして真実の自己実現はあり得ない(秋月龍a)。まして、「人となり給うたお方」に肖る者、恵みに生かされる者にとっては、「隣人を自分と同じように愛すること」、社会的係わりに賭けることは、実に本性 の根源的充足の不可欠の要件、或いは、実存的課題であって、これが完成を見る迄は、真の私もあり得ない。「愛は自ら溢れ出る」と云われるように、将に、第一の掟と第二の掟はキリストの受肉の秘義によって一致し、彼岸性と此岸性は一体化され、物質的、肉体的、現世的事物も精神化、霊化、永遠化されるのである。
「娑婆苦を娑婆苦とするためにコミュニストの棍棒を振う」こととは全く違う。唯一つの良きものを得て、 全てを「彼が名のために」行うのである。マザー・テレサはこのことを「私はすべてをあの方のためにする」と表現している。

「チェザルのものはチェザルに」
 キリストの与え給う平和はこの世のそれを無限に超えるもの、然し、と同時に、すべての知恵と力をもって、いと小さき者を慈しみ、救うものである。ここで、教会の「チェザルのもの」への係わりについて敢えて一言する。
 一先ず、「平和への思い」、願望、理念は全人類に共通の彼岸であると想定しよう。然し、人々は平和のために戦い、平和を求めて殺戮を繰返す。可令理念は一つであっても、その具体化は多様である。一定の目的には様々な政策設定が可能であり、政策間の優先順位にも又、選択の余地がある。教会は絶えず理念を喚起し矛盾を告発しさえするが、通常、自ら特定の主義政策を組したり、実行の主体とはならない。この「神のもの」と「チェザルのもの」を区別する多元的姿勢が、個人と集団の自由と自主性を基礎づける。然し、このような教会の姿勢は、福音を社会的次元でのみ理解する者にとっては、日和見的と映り、物足りなさを感じさせる。事実はどうなのか?教会が一党一策に偏らないこのことこそ、個々人の自主性を保証し、その責務を喚起するのである。この責務は、勿論、隣り人への実践に始まり、機構、制度、体制の変革に迄及ばざるを得ないのは云う迄もない。教会が実践団体となることを期待するあまり、信じる者各人がその責務を免除されているとする錯覚に決して陥ってはならない。

「戦争も平和も心の反映」
「……(各人が心に抱く)理念は普通に考えられているよりは、はるかに強力なものである。事実、この世界はそうした理念によって支配されている……」(ケインズ)。「……思想は歴史そのものを形成する……最初に人と思想が存在し、次に思想の帰結が到来する……」(ガルブレイズ)。物質的貧困が精神的貧困の反映であるように、心の平和が現実の平和の原点となる。戦争も平和も人間の業、人間の心の業――心こそ人間の尊厳の座に外ならない。将に、「世界平和は精神の優位にかかっている」。
 現代の悲惨と動揺は根源的不安に由来し、根源的由来はキリストの平和によって初めて癒される。「私は平和を残し、平和を与える」――キリストの平和は、先ず、各人には何物をも超える自由を与えると共に社会的責務を自覚させ、同時に社会には、新しい秩序のための絶対的基盤を約束する。キリスト教の現代的使命はいよいよ重く、信じる者の課題も重大である。教皇ヨハネ・パウロ二世の『永遠の平和』への呼びかけは、『神の子の尊厳』を踏まえた最も本質的なものであり、我々一人ひとりに『真の人間』として力強く生きることを迫るものである。
 

           『声』1981年 6月  第1226号 より   
 

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