神社参拝と宗教行為の規定の恣意性


―「信教の自由」原理の確立と「カトリック教会の戦争責任」に関連して(1)―
 

    西山俊彦

 


【T】
 

1.「靖国神社参拝拒否事件」

 
 
はじめに


 「わたしたち日本カトリック司教団は、第二次大戦が終結してから五十年たった今、……あらためて過去
 の歩みを反省し、キリストの光のもとに戦争の罪深さの認識を深めて、明日の平和の実現に向けて全力を
 つくす決意を新たにしたいと思います。」

 これは1995年2月25日、日本カトリック司教団が表明した『平和への決意』の冒頭の一節である。カトリック教会が実際にどのような役割を担ったかの具体的な事例はなぜか伏せられてはいるが、我が国の近代化が帝国主義的侵略戦争と化して行く中で、天皇中心的国家神道への協力を余儀なくされ、侵略戦争を聖戦として正当化する一翼を担ったことは、半世紀の 距りをもって眺めれば、やはり常態であったとすることはできないであろう。挙国一致、宗教報国の大波の中に、特にキリスト教の各派は、勇んで協力したのではなかったのかも知れないが、戦争遂行にとって根幹ともいうべき国粋的価値理念の涵養鼓吹の“使命”を“忠実に”果たしたことは事実が示すところである。皇民化教育には天皇崇拝と神社参拝が中心を占めたが、カトリック教会は「神社参拝は宗教(的行為)に非ず」「皇室や国家の恩人に対する崇敬は人間の礼節」と自己了解して、皇民化教育を推進した。戦時態勢下に 存亡の危機に晒された教会の緊急避難的対応の責任を、自由を満喫している見地から問うことは人後に落ちることであろうが、要は、敗戦により新憲法が施行され、信教の自由を保障された暁にも、何の悔悟も反省もされないばかりか、「神社参拝は宗教的行為に非ず(従って参拝は許されている)」との戦前の決定を一再ならず再確認していることをどう理解すればよいのだろうか。(1) 教会の主眼が「信教の自由」にあるのか「“不可謬性”の死守」にあるのか戸迷うばかりとなるが、1960年代後半より高まりを見せた「靖国神社国家護持」反対運動、また、最近の「大葬」「大嘗祭」等に関する異議申立は、「信教の自由原理」とそれを保証する「政教分離原則」への抵触を理由に提起されたものである。一方、「対話と寛容(共存)」をモットーとした第二バチカン公会議(「公会議」と略)では、「普遍なる教会は、(これらの)諸宗教の中に見出される眞実で尊いものを何も退けない。……教会は自分の子らに対して、……他の諸宗教の信奉者のもとに見出される精神的・道徳的富ならびに社会的・文化的価値を認め、保存し、さらに推進するするよう勧告する」(2) とまで断言する。「公会議」では「信教の自由原理」(3) と「宗教的寛容原則」が共々に宣言されたのであるが、後者に神社参拝のような「宗教行為」が含まれるのかいないのかは重大な問題であろう。本稿では神社参拝という宗教行為が、「宗教的行為」としても「非宗教的行為」としても、如何様にも規定し得る事を我が国の事例、即ち、
 1.昭和七年に発生した「靖国神社参拝拒否事件」を契機に、カトリック教会は政府文部省に照会し、そ
  の回答に「神社参拝は宗教的行為に非ず」という日本政府の保証を得て信者に神社参拝を許可したとさ
  れているが、実際日本政府はそのような保証をしたのであろうか。
を中心に事実確認に励めるが、この主題は、
 2.若し日本政府が保証していたとすれば、「信教の自由」は遵守され、それが信者にとって「神社参拝」
  を正当化するに足る十分な理由となっているであろうか。
 3.神社参拝によらずいかなる行為も「宗教的」とも「非宗教的」とも規定し得るそのメカニズムはいか
  なるもので、そのような事実を前に「信教の自由」を確保する条件はいかなるものか。またその条件は、
  「政教分離の原則」について提示された「目的−効果論」とはそのような関係に位置づけられるのか。
 4.我が国を初めとして従来広く認められた「非宗教性」の導入による「信教の自由」の擁護と、「公会
  議」での「信教の自由」原理の確立は、同一原理に基づくものと見なし得るのか否か。
 5.4が否であるとすれば、我が国での戦前の打開策はもはや無効とみなすべきであろうか。それはDH
  の成立によってとみなすべきであろうか、1938年の「新教会法典」の施行によってとみなすべきで
  あろうか。
へと発展し、検討されねばならない要点となる。本稿の意図動機について、それが戦時下の窮状に際し身を賭して事態の打開に当られた責任者の当時の責任を問おうとするものでないことを今一度明言しておかねばならない。信教、言論、結社……の自由が制限され、治安維持法と特高警察の締付けの下に、信者の安泰と教団の存続を死守しようとした教会当局者の判断の可否は、自由を得た時点から論難できるものではないからである。とはいえ、自由を得て半世紀という今の今まで何らの矛盾をも感ぜず、何らの変更をも計らないままに、信教の自由の名の下に抗議の声明を発する無神経は、誠実なものとも、信仰者の良心に基づくものとも 言えないであろう。以下の記述で歴史的事実として確認されるように、神社参拝という一定行為を「宗教的」とみなすか「非宗教的」と見なすかは、全く恣意的といえるほどだが、(4)「人間の尊厳と神の啓示とに合致する」(3) ことを求める人格的、主体的行為としての「信仰」の自由にとっては、その本質を左右する重大な差異である。なお当然のことではあるが、我が国の事例に適用された倫理原則は普遍的な原理でなければならず、これは普遍的(カトリック)教会が土着化されるあらゆる土壌に共通したものであるところから、本稿
の意義は一国一時期に限定されたものでないことは言う迄もなかろう。(5)


 1.「靖国神社参拝拒否事件」

 明治維新以来我が国は、天皇制を頂点とする国家神道に国粋主義的国民統合の価値基盤を求め、それを土台に植民地獲得による膨張政策を 正当化して、帝国主義的近代国家の形成を促進した。従って公的価値基盤とされた国家神道は、諸宗教の一つでありながら諸宗教とは同列になく、それらを超えたものとして「神社は宗教に非ず」とさえ公言され、組織的にも他宗教が文部省宗務課の所管であったのに対し、神道は内務省神祇院に属し、神官は公務員であった。大日本帝国憲法下での「信教の自由」はこの国家主義体制に抵触しない限りでの自由であって、このような態勢の中で最も軋轢を生み易かったのが普遍主義的価値観を有し唯一絶対神を礼拝するとするキリスト教であったことも当然であろう。一層の拍車をかけたのが多事多難な内外情勢で、例えば 、「治安維持法の成立」(大14・4)、「世界恐慌」(昭4・12)、「満州事変」(昭6・9)、「五・一五事件」(昭7・5)、「国際連合脱退」(昭8・3) ……「二・二六事件」(昭11・2)等を経て、遂に「日中戦争」(昭12・7)に突入、「国家総動員法」(昭13・3)の制定、「産業報国運動」(昭14・2)の展開などによって、産業消費活動は言うに及ばず、善悪行動基準、「国民生活の隅々まで、政府の統制と監視の目が注がれ」、(6) 万事「国体明徴」という大義名分の下に一億一心、挙国一致体制へと邁進して行った。戸村政博によれば「『国体』は天皇制という名の超宗教であり、その教義は踏み絵であって」(6)「宗教団体法(昭14・4)が成立するころ、神社非宗教論は、もはやあらがうべき議論ではなく、進んで解説すべきテーマ、弁証すべき論証、証言すべき真理となった。」(6) このような激流の視点に、即ち、我が国が十五年戦争に突入して敗戦迄突走らんとする時点に発生したのが「靖国神社参拝拒否事件」であった。
「事件」は1932年5月5日に起ったとされているが、(7) 真相は判らない。これに類する「カトリック学校排斥事件」は枚挙に暇がないが、(8) 当日上智大学において配属将校の北原一視陸軍大佐が学生を引率して靖国神社参拝と遊就館見学をした際、カトリック信者の学生2名が参拝をしなかったということである。この5月初めに起ったとされる出来事を報じたのが10月1日付の『報知新聞』であり、「靖国神社礼拝を学生が拒否」と銘打って
 「今春満蒙上海事変没の將士を『合祀』のため挙行された靖国神社の大祭に、都下各学生生徒が軍事教官
 や担任の先生に引率されて護国の英霊として衷心より神前に参拝した中に麹町区内のカトリック系の某学
 校(特に校名を秘す)学生中同派に所属する一部が軍事教官の命を拒否して頑として礼拝せず、なお同派
 に所属する九段の某宗教関係の学校の学生もその際同様な態度を示し、更に長崎の某宗教関係の中学でも
 同様な事件で陸軍省派遣の軍事教官が学校当局に対し詰問したが煮え切らぬので、陸軍省に報告したので
 軍部の人々も伝え聞いて激ミし出したので右学校の当局は危険を感じ出し責任転嫁論を考えた結果「神社
 は宗教なりや否や文部省として確固とした解釈の訓令を一般的に発せられたし」と鳩山文部大臣に宛てて
 申請してきた。」
と報じ、同じく1932年10月14日付『読売新聞』は
 「“軍教精神に背く”と配属将校引き揚げ決意、上智大他二校に対して……軍部憤激、文部省狼狽」
と緊迫した情況を伝えている。ここで出来事が一応5月に起ったとすれば、なぜ5ヵ月後の10月になってから紙上に取上げられたのか、しかも日付けなしでは具体的事件とはなり得ないはずなのに「今春」と記しただけなのか、疑問はつきない。(9) ただ、公的報道機関が時流に阿ねたかどうかは置くとして、それが“時の流れ”であったことだけは確かである。この場合、“事件”の主人公が誰であり、それが何時起ったかは問題ではなかった。なぜなら、カトリック教会は「偶像崇拝」を 固く禁じており、異教の神を拝み宗教行為に与することは許されず、「神社参拝」もその一つと理解されていたのだから――。事の推移によっては、一二のミッション・スクールの取潰しに留まらず、全カトリック教会への迫害から全キリスト教の弾圧へと発展しかねない情勢だったことは容易に察せられよう。「騒然としてくる世情の中で、上智大学およびカトリック教会と文部省ならびに内務省神社局の間で事件の収拾にむけてた 度々話しあいが持たれ、『文部省は陰に陽に上智をかばっていた』(上智大学五十年史)とも伝えられている」(10) 通り、この事態を憂慮して抜本的な解決策を求めて解決策を求めて尽力したのが時の東京教区長A・シャンボン大司教であった。
 

【註】

(1)   R・ジョルダーノ『第二の扉』白水社、1990。
(2)   『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言 Nostra Aetate −NA−』1965、(2)。
(3)   『信教の自由に関する宣言 Dignitetis Humanae −DH−』1965。
(4)   筆者が取扱った「憲法第九条」の正反相対する解釈(「『神の国』と『地上の国』の平和主義」『サピエンチア』第29号、1995、603-625頁)も“平和のための戦争論”の矛盾(「理念としての平和」『サピエンチア』第24号、1990、325-346頁)も、同様に、規定の恣意性の一例であった。
(5)   本稿では主題の一部分しか取扱うことができないため、主要概念規定は、その都度、当該箇所で行うことを容赦されたい。
(6)   戸村政博『神社問題とキリスト教』新教出版社、1976、26頁。
(7)   日付については他日との諸説がある。伊藤修一「日本カトリック教会における戦争協力への軌跡―― 1932年カトリックの靖国神社参拝拒否事件とは――」日本カトリック正義と平和協議会『「教会の戦争責任」を考える』1992、25-29頁。
(8)   高木一雄『大正・昭和カトリック教会史―― 日本と教会2――』聖母の騎士社、1985、246頁。
(9)   『上智新聞』第203号(1984・1・1、第4面)は“靖国神社参拝拒否事件、上智の根幹揺るがす、ドキュメント昭和7年の痕跡”を特集している。
(10)   伊藤修一「前掲論文」26頁。

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