神社参拝と宗教行為の規定の恣意性


―「信教の自由」原理の確立と「カトリック教会の戦争責任」に関連して(1)―
 

    西山俊彦

 
 

【V】
 

3.駐日教皇使節P・マレラ大司教の訓令、並びに、布教聖省長官P・F・ビオンディ枢機卿の訓令
 

「神社参拝は宗教的行為に非ず」という自己了解に基づいて方向転換を図り、事件はひとまず終息に向うのであるが、そのために決定的な役割を担ったのが表記の2訓令であった。以下に少しく検討しなければならない。
 駐日教皇使節P・マレラ大司教の1935年12月8日付「在日修道会並びに教育施設の長上に対する訓令」(17)(以下「使節訓令」と略)は 標記関係者に対して宣教に関する一般的指針を示すもののようであるが、機も機、いかにしてキリスト者が国家権力の圧迫の前に信教の自由を護るかについての原則を開示するものである。L・マニーノはこれを五点に要約し、最重要とみなされる第一点を、
 「昨今、私達が格別留意しなければならない焦眉の課題は、国家的、愛国的精神の表現に対していかに処
 すればいいかの問題である。私達の態度を決定づける一般原則は、信仰に直接反しない事柄については寛
 大な抱擁力でもって、また、祖国愛の表現と正当にも解釈できる事柄については誠意ある協力を心懸ける
 ことである。」
と指摘しているが、P・シャルルはこれを問題解決への各種原則として提示する――
 1.たとえ過日にそうであったとしても、現在宗教的意義のものであることが確実でないものは、単に許
  容されるだけでなく、積極的に推進することができるし、また、そうすべきである。
 2.宗教的意義と非宗教的な意義の混淆したものについては、単に世俗的なもの significatio mere ci-
  vilis と理解できる場合は、許容することができる。
 3.誠意ある検討を持ってしてもその意義に疑念が残る場合は、許容も排除も敢てせず、各自の判断に委
  ねるのが賢明である。
 4.宗教的意義があるか、非宗教的意義があるかの判断基準は、
  a.外見とか私的集団の見解に基づくのではなく、関係者の共通の見解に基づくこと。
  b.大日本帝国憲法は国民に信教の自由を許容しているのだから、これに反する意義が明らかである場
   合を除き、公権によって命じられるところのものは、宗教的意義ではなく世俗的意義だけを帯びてい
   ると見なすこと。
  c.教会の教義は不変であるが、教会は状況の変化に順応する se accomodat。こうして往時神道の儀礼
   と見なされていたものも、今日では単に世俗的なものと理解されること。
これらの要点と基準を一つに纏めれば「單に世俗的意義しか有しないか、たとえ宗教に由来していたとしてもその意義が失われていると正当に理解され得る儀礼には、全て、参加が許されていると見なすべきである」(17−B)という原理となる。もっとも、「單に世俗的意義しか有しない儀礼」とか「宗教的意義が失われているもの」等が、実際にどのような事例なのかは解決済みとはなっていないが、とにかく、この原理原則をもって、各信者と教会全体の破局は避け得るものと見なされた。「使節訓令」を一層権威づけ公的指針となしたのが、(18) 半年の距たりを経て送付された布教聖省訓令である。
 布教聖省長官P・F・ビオンディ枢機卿の1936年5月26日付駐日教皇使節P・マレラ大司教宛「祖国に対するカトリック信者の責務についての訓令」(19)(以下「聖省訓令」と略)は“Pluries instanterque”と冒
頭にあるように 、「神社参拝」を強要されていた我が国の教会がいかにして窮地を脱し得るかの公的指針を、繰返し教皇庁へ要請したことへの回答として示されたものである。それが何度であったのか、試案を提出した上での回答であったのか等は知るよしもないが、当時 の我が国の情況を適確に反映したものであるとともに、当然なことながら、世界中到る所で普遍的に妥当する倫理規範を提示するものとなっている。“邦訳”には当時の『日本カトリック新聞』に公表されたものと、現在「正義と平和協議会」担当岡田武夫司教の訳されたもの、(20) との二様があるが、後述する通り前者は抜粋でしかない故、ほぼ後者に従って記せば大要次の通りである。

 「日本のカトリック信者がキリスト教以外の宗教儀礼に由来する行為へと祖国の法律とか慣習によって命
 じられ奬められる場合には、本布教聖省がすでに1659年に宣教師への訓令として示した大層聰明な原
 則を想起するのが適当である。それは
  『それぞれの国民の儀礼や慣習が、明らかに信仰と正しい道徳に反するものでない限り、それらを変え
  るように働きかけたり、勧めたりしてはならない。……〔キリスト教〕信仰は、いかなる国民の儀礼や
  慣習をも、それらが不道徳なものでない限り、排撃したり損傷したりせず、反って、無傷に保護される
  ことを期待する。人間はその本性上、自己に関すること、殊に自己の国家に関することを他人のそれら
  よりも一層評価し愛着を覚えるのであるから、祖国の慣習、殊に先祖代々の慣習となってきたことを変
  えることは、憎悪と反感の因となる。そしそれらが不道徳な慣習であれば、言葉をもってよりも眞心と
  沈黙をもって、相手の心が眞理を悟るように準備されたよき機りをとらえて、徐々に取除くよう心懸け
  るべきである。』」
上記1659年訓令は、(21) M・リッチ(1582-1610在中国)以来、 中国古来の文化と慣習に受容的であった寛容政策を教皇アレキサンドロ七世が承認したものである。(22) もっともこの原則は、教皇クレメント十一世の大勅書 Exilla die (1715)、(23)
教皇ベネディクト十四世の大勅書 Exquo singulari (1742)(24) 等々の不寛容政策、或いは、純粋性保持政策によって退けられることになるが、二百年を距てた二十世紀も三十年代に入って、世界的な全体主義と国家主義への対応策として再確認されることとなる。「聖省訓令」に復活した(25)寛容原則は、少なくとも表面的には第二バチカン公会議の「NA−諸宗教に対する教会の態度についての宣言」に明言された「普遍なる協会は、これらの諸宗教の中に見出される眞実で尊いものを何も退けない」 (2)に酷似しているが、原理的に同種のものと見なし得るか否かは、次章以下の検討に委ねねばならない。とにかく、「聖省訓令」は上記中心原理を我が国の情況に適用して指摘した――
 「従って、日本人の宗教心と愛国心を認識し尊重して、信者がこれらの点で他の国民にひけをとらないよ
 うに教えることは宣教師の務めである。実際、宣教師はそれを心がけてきたのである。
  日本人がその愛国心を表現する次の事柄に留意しなければならない。かつては他の宗教に起源を持って
 いたとしても、それ自体として不道徳でないか善悪いずれでもなく、又、一定の宗教を表現するものとし
 てそれら儀礼が命じられておらず、ただ宗教心を涵養し愛国心を表わす世俗的行為とされているものにつ
 いては、カトリック信者であれ他の人々であれ、それら儀礼が由来する宗教への帰依を表すものとして義
 務づけられていることにはならない。」
我が国においては多くの儀礼と慣習は宗教心と愛国心の表現であるところから、カトリック信者もそれらを尊重する可能性を示し、ついで、何故神社参拝等の行為が非宗教的なものと見なし得るかの理由を列挙する。
 「(2-@) 日本帝国の当局者は一再ならず神社参拝は宗教的行為でないと言明した。(26)
   (イ) それは国家神道と教派神道を所管する部局が異なるところに明らかである。
   (ロ) 東京大司教と文部次官との交換書簡によって明らかである。
   (ハ) 明治32年に公布された「私立学校令」に「教育と宗教の分離」が規定されているところから明
     らかである。(にも拘らず文部省がそれを命じているのだから、宗教的行為である筈がない)
  (2-A) 国家神道の神社で国家当局者の参加或いは主宰で行われる公の儀式についても、国家当局者
     はその非宗教性を言明し、識者文化人の見解も同様である。
  (3-@) 葬儀とか結婚式のような私的な儀式については、宗教との本質的な関係を失い、単なる社会の
     慣習として親族友人に対する愛情の表現と見なされている。
  (3-A) そのような情況で信者が私的な儀礼を拒むなら、健全な愛情に欠けた者となり、非難敵対の原
     因となる。
以上の諸要件を勘案し、1890年長崎教会会議の意図を顧み、(27) 教皇使節と日本の司教方の要望に応じて、本布教聖省は以下の行動原則を提示することに決定した――
 1.日本帝国の司教たちはつぎのことを信者たちに教えるべきである。政府によって国家神道の神社とし
  て管理された神社において通常なされている儀礼を、(政府が数回行った明らかな宣言に従って)国家当
  局も、また、文化人の共通な考えも、単なる愛国心のしるし、すなわち皇室や国の恩人たちに対する尊
  敬のしるしとしてだけみなしている。したがって、これら儀礼が単なる社会的な意味しかもっていない
  ものになったので、カトリック信者がそれに参加し、他の国民と同じように振る舞うことが許されてい
  る。ただし、自分の振る舞いに対するまちがった解釈を取り除く必要があると思われる場合には、信者
  たちは自分たちの意向を説明すべきである。
 2.同様に、司教たちは信者が葬儀、結婚式など日本の社会で通常に行われている儀礼に与る場合、上述
  のように必要なら自分の意向を表して、宗教に由来するものであるかもしれないが、現在では、場所や
  人の状況、さらに、一般の通念によれば、単なる礼儀や相互の愛情だけを表しているすべての儀礼に、
  他の人と同じように参加することを、信者に許すことができる。
 3.省略
以上に記したのが「聖省訓令」のほぼ全体である。中心原理を我が国の情況に適用して得られた結論が、神社参拝もキリスト教以外での冠婚葬祭も可とする結論であった。寛容原理を基礎とすれば寛容政策が帰結されることは当然ともみられようが、それには様々な条件が成立していなければならない。その最たるものが、「これらの儀礼が単なる愛国心のしるし、即ち、皇室や国の恩人、親族肉親、に対する尊敬のしるしであること、換言すれば、宗教的儀式ではなく社会的な慣習である場合」という条件であり、それを保証したとされるのが、とりわけ、「政府当局者の言明」とされている。教会の公式訓令に「政府当局者は神社参拝は非宗教的行為であると宣言した」と断言しているのであるが、(28) 先に見た通りそのような事実はなく 、これは勝手な「スリカエ」又は意識的「捏造」に他ならない。もっとも政府がそのように言明し、非宗教性を保証すれば、信教の自由は保たれ偶像崇拝への危惧も払拭されるか否かは次章 以下に検討を予定する課題ではあるが、本章での事実確認の問題としては、そのような事実は全く存在しないのである。その他の条件、

保証も多々問題を孕んだものであることだけは指摘しておくが、そもそも、中心原理からどうしてこのような結論がででくるのか自体を反問しなければならない。何故なら、「宣教師は日本人の宗教心と愛国心を認め尊重すべきである」としても、だから「神社参拝は許されている」とか「神社参拝は奨励されるべきである」との間には踏越え難き隔絶が横たわっているからである。内村鑑三の言を待つ迄もなく、(29) プロテスタントもカトリックも、神社参拝に与しない全てのキリスト者も、キリスト者こそ「国を愛する者である」ことを公言して憚らなかったのではなかろうか。「布教聖省訓令」はこのギャップを「神社参拝」は「非宗教的行為である」との理由で埋めようとしたのであるが、(30) 若しも信者が神前に出向き、他の日本人に倣って参拝をするのなら、それはもはや礼拝と言わねばならないのではないか。或いは百歩譲って、神社参拝が非宗教的行為であるとして、それにも拘らず“非宗教的対象”を拝むなら、(31) それこそ偽装 dissimulatio であり偶像崇拝 idolatrium になるのではないのか。「宗教的行為」としても「非宗教的行為」としても、どちらにしても偶像崇拝に当る可能性は高く、その間に横たわるギャップを埋めれば埋めるほど、単なる宗教心と愛国心の尊重を踏外した行為となる。事実関係に戻れば、もとより「交換 書簡」を一度でも読んだ者は、日本政府が神社参拝の非宗教性について何らの保証もしていないことに気付かない筈がなく、このように多くの矛盾を抱えたままで「……これらのことを念頭において十分な論議の末、布教聖省の枢機卿たちの会議で次の行動原則を提示することに決定した」とか、「……全て……布教聖省の書記によって教皇に報告され、教皇は、本訓令のすべてを承認し、日本の司教たちが以上の諸規定を安心して守ることができ、かつ守るべきであると宣言した」とされていることに、同意できる筈がない。これは、あり得べきことではなかろうが、例えば“政府当局者の保証”については“現場”と“出先き機関”で“了解”したところを鵜呑みにして、教皇庁 各担当部局で権威付けを施したのではないかと疑わせる程であるが、 この「聖省訓令」にみる「神社非宗教論」が、世界各地で頻発する同種問題解決への雛型とされ、「信仰の自由」擁護への根本原理とされて行ったことは、いかにも不可思議なことと言わねばならない。(32)
 「聖省訓令」の公表がいかになされたかを書留めておくことは、「訓令」が持っていた一般信者への意味合いを推測する上で無意味なことではない。先に「訓令」には二つの邦訳があると指摘したが、その一つとは1936年7月26日付『日本カトリック新聞』第562号に報道された「神社参拝問題其の他に関する羅馬教皇廳の通牒――駐日教皇使節館に 到着――」と銘打った記事である。その特徴は、疑念を起す予知のないように「断定的」、文部省との「交換書簡」と並置しながら記述する「権威主義的」、結論部分だけを断片的に伝える「結論的」 性格である。導入部要約では、

 「ローマ教皇廳は、日本カトリック信者の愛国心表現の徹底を期し、本年5月26日附を以て、神社参拝
 及び其の他の問題に関する重大通牒をローマ教皇使節館に送附せられた。この通牒に掾れば、日本カトリ
 ック信者が益々愛国の實を挙げ、且あらゆる正しき方法に依る愛国心の表現に於いて、決して他宗教者に
 劣ることのないやうに懇ろに教えてゐる。」
と全般的解説を掲げ、「訓令」の目的が愛国心の徹底を期すためのものであることが明示される。続いて本文冒頭に交換書簡の事実を指摘した後に、ゴシック10ポイントの大文字を枠で囲んで粟屋文部次官の回答を、
「教育上の理由(傍線筆者)に基づくもの」を含めて、大書したのに続いて、本文に一層大きな12ポイントの大文字で、
 「今次の通牒は、日本カトリック信者に右の文部省の回答に従うべき旨を命じてゐるのみでなく、積極的
 に問題の範囲を広めて、なほ次の如き原則を与えている。」
として、2段ブチ抜き12ポイントの大文字で、
 「神社に於て、国家的儀式が行はれる場合には忠誠と愛国心との表明を目的(傍線筆者)とするものであ
 るから、日本に於けるカトリック教區長等はカトリック信者に他の参列者と同様これらに参列するやうに
 教へねばならない。」
と結論だけを明確に記して、
 「これによって、カトリック信者に関する限り、神社問題は完全に解決されたものと言わねばならない。」
と再び 9ポイントの大文字ゴシック体で強調する。(この後に同種の形式と簡潔さをもって葬式、結婚式、其の他の私的儀式への参与について述べている。)訓令全文と対比して余りにも変形した伝達法を採ったのは、何らの疑念をも起させないための周到な配慮に基づくものであろうが、これを一言で言えば、
 「神社に於て行われる国家的儀式は、忠誠と愛国心の表明(だけ)を目的とするものであるから、カトリ
 ック信者は、これらに参列するように奬められている。」
というものであり、この原則を遵守する限り神社問題は完全に解決を見ているというものである。尤もこの公表においても「神社参拝の自由」と「神社参拝の目的」という文言は残っており、政府文部省が非宗教性を保証したのではないことは、紙背を読み通せば判らないこともないが、実際は何の疑いをも挟ませぬ簡潔さに徹しており、教会当局の問題回避への周到さだけが際立っている。伊藤修一は「戦前に公表された二項目の訓令は、正式文書から、 極めて重要なる部分の削除が行なわれている。教会当局は、あらかじめ世論の批判を浴びそうな箇所を、意図的に削除したように受けとれる」(7) とコメントするが、先に指摘した通り訓令自体が重大な矛盾錯誤を含んでいるとすれば、さほど問題にすべきことでないのかも知れない。
 「カトリック信者に関する限り、神社参拝は完全に解決された」と言明された通り、神社参拝を奨励する
ことによって一件落着、(31)「国家総動員法」(1938・4・1)「宗教団体法」(1939・4・8)等による戦時態勢の亢進の中で「教会の総力を結集して、大東亜戦争の目的完遂に邁進すべし」(33) を旨とすることになる。これら一連の 方向転換の原点に位置するのが1936年の「布教聖省訓令」であり、そこで明言された「神社参拝は宗教的行為に非ず」という保証を政府見解に依拠させた自己了解であったが、これら一連のステップに瑕疵過失があったとすれば、倫理的行為の成立要件にとっても「信教の自由」原理の担保にとっても、重大な問題が発生していることになる。しかも我が国一国に限らず、1930年代以降、世界化うちでの紛争解決への共通原理とされて行ったのであるから、事は重大である。(32) 我が国を対象として発せられた「聖省訓令」が戦時態勢下に存亡の危機に直面していた各信者と全教団を救うための緊急避難処置なのか、将又、いかなる情況にも妥当する一般原理を示したものかを、次に戦争終了後の推移に検討しなければならない。

【註】

(17)   "L'Instruction du Délégue Apostolique au Japon, Archéveque Paul Marella, aux Supérieux des Instituts et Congrégations re- ligieuses du Nippon, Tokyo, le 8 Décembre 1935", (@) L.Magnino, Pontificia Nipponica, Parte Seconda, 1948, pp.130-140 ;
(A) P.Charles,S.J., "Instructio Delegati Apostolici in Japonia et Annotationes", Periodica de re Morali, Canonica, Liturgica
XXV, Juin 1936, pp.88-105 ; (B) P.Charles, S.J., "Les céremonies shintoistes au Japon", Nouvelle Revue Théologique. 64,
1937, pp.195-201.
(18)   "Quoniam praesens documentum (Instructio 26 Maii 1936) roborat instructionem datam a Delegato Apostolico, nec quidquam in illa immutat, referimus lectorem ad commentarium quam de hac ipsa instructione proposuimus in hisce Periodicis."
P.Charles, S.J., Annotationes et nota (6) ad S.C.P.F.Instructio 26 Maii 1936. Periodica de re Morali, Canonica, Liturgica. 26
(1937), pp.103-108.
(19)   "Instructio ad Ex.mum D.Paulum Marella, Archiepiscopum Tit. Docleensem,Delegatum Apostolicum in Japonia circa catholicorum officia erga patriam." 1936 Maii 26, N, 1889/36, SCPF, Instr. AAS 28(1936) pp.406-409 ; SYLLOGE, 1939, pp.537-540 X,Ochoa, Leges Ecclesiae post Codicem iuris canonici editeae. Vol. 1, Romae, 1966, 1338, pp.1725-1727 ; L. Mabnino, PONTIFICIA NIPPONICA, Parte Seconda, Romae, 1948, pp.147-153 ; Periodica de re morali, juridica, liturgica. 26(1937), pp.103-108 ; V. Bartocetti, Apollinaris 10, (1937), pp.14-22 ; The Clergy Review. 12(1936), pp.250-251 ; U. Bertini, "Una data storica negli annali missionari del Giappone."  Il Pensiero Missionario. Vol.[, Fasc. 2(1936), pp.97-151 ; F. Cenci,
"L'Istruzione dell'8 dicembre 1939 e i suoi precedenti immediati."  Il Pensiero Missionario, Vol.]U         (1940), pp.6-14.
(20) 日本カトリック正義と平和協議会編『「教会の戦争責任」を考える』1992、39-41頁。
(21)   Collectanea S. C. de Propaganda Fide. Vol. I, n. 135, pp.42-43 ; L. Magnino, Pontificia Nipponica. Parte Seconda, Officium Libri Catholici, Romae, 1948, pp.148-149.
(22) F.A.Rouleau, "Chinese Rites Controversy." New Catholic Encyclopedia, Vol.V, 1967, pp.611-617.
(23)   Clements ]T, const. Ex illa, 19 mart. 1715. E.mi P. Card. Gasparri, Codicis Iuris Canonici Fontes. Vol. I, Romae, 1918,
275, pp.566-570.
(24) Benedictus ]W, const. Ex quo, 11 iul. 1742. E.mi P. Card. Gasparri, op. cjt., pp.756-769.
(25)   在外教皇使節館高官は "Siamo tornati ai tempi del Ricci. Il Ricci è risorto."  と指摘したと言われる。P. M. D'Elia, S.J.,  "La
Recente Istruzione della S.C. di Propaganda Fide sui Riti Cinesi." Civiltà Cattolica. 1940, I, pp.123-137, p.132.
(26) L. Magnino, op.cit., pp.149-151 ; V.Bartocetti, op.cit., p.19 ; U. Bertini, op.cit., pp.1382-138 ;
田口芳五郎『前掲書』143-145頁。
(27) V. Bartocetti, op.cit., p.20 ; "Evoluzione di Popoli e Nuove Provvidenze della Chiesa. "La Civiltà Cattolica, 3 (1936), p.286.
(28) 最近の再検討でも事態は好転していない。岡田武夫「『靖国神社参拝拒否事件』の今日的意味」『福音宣教』第44巻第3号、1990年3月、64-71頁。青山玄「国家神道とそれに対するカトリックの対応」『日本カトリック神学会誌』第6号、1995年7月、61-80頁。
(29) 内村鑑三「二つのJ」『内村鑑三選集』W、岩波書店、1990、306-307。
(30) 「……戦没者の慰霊は軍人や自衛隊員の指揮の高揚を目的にしているから国がおこなっても違憲ではないといった司法判断がなされている。……一般に、……良縁を祈願して神前で儀式することが、結婚という世俗的目的のためにするのだから宗教活動ではない、などという宗教学者はひとりもいない。」荒木政晴『浄土真宗の戦争責任』岩波書店、1993、58-61頁。
(31) 「第二聖省訓令」及び、「1937年2月マニラにおける聖体大会閉幕後、教皇特使ドハーティ枢機卿は日本に立ち寄られた。2月18日午前中宮中に参内し、午後は小雨降る薄ら寒い頃、明治神宮および靖国神社をマレラ教皇使節とともに公式参拝(傍線筆者)し1936年5月26日ローマ聖座から発布せられた神社問題等に関する教皇大勅書を、身をもって実践して範を垂れたのである。」
大阪聖ヨゼフ宣教修道女会『走るべき道を走り……』(田口芳五郎枢機卿回想録)、1991、36頁。
(32) 〈JAPONIA〉"Evoluzione di Popoli e Nuove Provvidenze della Chiesa. A. proposito di culto cilto in Manciuria e in Giappone." La Civiltà Cattolica. 3 (1936), pp.186-196 ; pp.279-291 ; 〈COREA〉Ibid., pp.194-195 ; 〈MANCHOUKUO〉"Normae circa Participationem Catholicorum in Obsequiis Confucio Praestandis." 1935 Mai 28. SCPF, Normae Part. LEGES ECCLESIAE, Vol.I, Romae, 1966, n. 1271, pp.1621-1622 ; "Evoluzione di Popoli e Nuove Provvidenze della  Chiesa. A proposito di culto civile in Manciuria e in Giappone." La Civiltà Caattolica, 3 (1936), pp.101-108 ; P.M. D'Elia, S.J., "La Recente Istruzione della S..C.di Propaganda Fide sui Riti Cinesi." Civiltà Cattolica. 1940, I, pp.123-137 ; pp.191-202 ; 〈CHINA〉Decretum de Ritibus Sinensibus, 1930 Iul. 13. SCS. Officii, Decr. AAS  22 (1930) 344, cf. X. Ochoa, LEGES ECCLESIAE, Vol. I, Romae, 1966, 981, p.1185 ; Circa Quasdam Caeremonias et Iuramentum Super Ritibus Sinensibus. 1939 Dec.8, SC PR.FID., INSER. AAS32 (1940) 24-26. n.1506, pp.1944-1945 ; 〈CONGO〉Expurgari Debet a Superstitiosis Ritibus Caeremonia Funebris
〈MATANGA〉. 1938 Iul. 14. SC Prop. Fide, Epist. Part., n.1447,  pp.1895-1896 ; 〈MARABARICUS〉De Iuramento Super Ritibus Marabaricis a Missionariis in Indiis Orientalibus Non Praestando. 1940 APR. 9. SC. PROP. FIDE, DECR. AAS 32 (1940) 379, n. 1527, p.1958 ; 〈THAILANDIA〉Facultas Datur Conferentiae Episcopali Thailandiae Permittendi Catholicis Interventum in Caeremonias Quae Celebrantur in Honorem Antenatorum. 1966  NOV. 15.  SC  DE  PROP.  FIDE  RESCRI- PTUM, PART. cf. LEGES ECCLESIAE, Vol, V, Romae, 1972, 3492, P.5055 ; 〈CAMBODGIA〉Extenditur ad Regionem Laosianam et Cambodgianam Usus Instructionis circa Caeremonias Antenatis Tribuendas. 1967 Iun 26. SC DE PROP. FIDE, RESCRIPTUM. PART. n. 3575, pp.5216-5217.
これらの諸訓令は、駐満教皇庁代表A・ガスペ吉林司教と満州帝国外交部大臣謝介石及び同文教部大臣(兼任)鄭総理との交換書簡(1935・2・27と数日後、V.Bartoccetti, op.cit., pp.22-25) を含めて、全て欧文教会側文書であるところから、当該政府当局者の非宗教性の“保証”は“自己了解”である可能性が高い(粟屋文部次官の回答はどの文献にも例外なく自己了解されていた)。なお、満州帝国の教皇庁による承認(1934・8・2)前後の接渉には、「神社参拝」問題解決の矢面に立たれ、ガスペ司教顧問(1934年3〜12月)を務められた、田口芳五郎神父(後大阪大司教・枢機卿)が活躍された模様が、その著『満州帝国とカトリック教』カトリック中央出版部、1935年4月、に詳にされている。
(33) 日本天主公教教団総務院「日本天主公教戦時活動指針(一)」、1943年9月28日。

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