「教会は誠実にその罪の赦しを願った」のだろうか

高柳俊一神父御高論「記憶の浄化−教会と過去の過ち−」(1)に関連して


 Did “the Church sincerely ask the Lord's forgiveness for Her sins” ?
 -concerning the Article written by Rev. Fr. Shunichi Takayanagi,  S.J., 
                           on “Memory and Reconciliation”. - in Japanese - 

『福音宣教』第55巻第3号、2001年3月号、32−39。(原文)
(2000年10月投稿、2001年3月掲載)

                    西 山 俊 彦

    要旨

  「聖年の喜びは、とくに罪のゆるしに基づく喜びと、回心の喜びです」のモットーで設けられた大聖年「赦しの日」(四旬節第一主日、2000年3月12日)には教皇ヨハネ・パウロ二世が “教会の過去の罪の赦しを請われた”と伝えられましたが、私が関連文書を吟味した限りでは、教皇が赦しを願ったのは “教会の息子や娘たちの罪” でしかありません。歴史を否定し、教会の定義と善き牧者の使命に反する今一つの背信が加わったのではないかと案じ、約一年掲載を待ちに待った前掲文書
 1.Did  “The Church sincerely ask the  Lord ’s  forgiveness for Her sins ”?

  −concerning  “Memory and Reconciliation : the Church and the Faults of the Past ”. -   を認め、
J. M. J. -the japan mission journal へ、昨年2000年12月6日付で提出しましたが、現在点で掲載するとも却下するとも返事
が得られません。 いつ迄もこのまま放置しておくこともできず、近日中に教皇庁関係各部局へ真実について照合する予定です。
      

                                       
               ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・             
[T] 「教会の罪」を認識するための諸要件
筆者の事実認識
筆者の倫理原則
『記憶と和解』の指摘
「教会」の規定
[U] 「教会の罪」の事実
教会(の責任者)には罪があり得る
『文書』が列挙する「過去の罪」
筆者による歴史的事実の指摘
                ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・      

 「聖年の喜びは、とくに罪のゆるしに基づく喜びと、回心の喜びです。」(2) この喜びに生きよう

と、大聖年の四旬節第一主日は「赦しの日」と定められ、聖ペトロ大聖堂で教皇ヨハネパウロ

二世が“教会の過去の罪の赦しを請われました”。これは「1300年に聖年制度が発足して以来

の快挙」と報じられましたが、私が関連文書を読む限り、本当に赦しを願ったのかどうか疑わし

い限りです。同事実を報じた『カトリック新聞』(3)では、一面トップに、

 「教皇、教会の過去に謝罪を表明」  

とありますが、『オッセルバトーレロマーノ』(4)では、

 「赦しなさい、そして、赦しを願いなさい」

との見出しの下に

 「教皇ヨハネパウロ二世は、教会の息子や娘たちの(傍線筆者、以下同様)過去と現在の罪

    の赦しを主に願われた Pope John-Paul U asked the Lord's forgiveness for the sins, 

    past and present, of the Church's sons and daughters

と解説しています。これに対し、「国際神学委員会」委員である高柳俊一神父の御高論では、

 「(教皇の説教は)教会が過去に犯した罪に対する謝罪をカトリック教会の最高責任者が公式に

  行ったものととられ、おおむね好意的に評価されたが、一部でもっと踏み込んで謝罪をすべ

  きであると批判した向きもあった」とか

 「(国際神学委員会の文書が)『教会は過去に過失を犯したとして、自ら公に認めた』という

  ことが強調され、説教の趣旨や文書の論旨からも切り離され、独り歩きした結果、誤解が生

  じたのである」

のような第三者的伝聞の羅列が多く、実際「教会が罪を犯した」ことが「あった」のか「なかっ

た」のか、(だから、或いは、それにも拘らず)「教会は赦しを『願った』のか『願わなかった』

のか」、「誰が」 「誰の」罪を「どういう理由で」 「願った」のか「願わなかった」のか、判然とし

ません。そのために質問のポイントを絞ることができず誤解を生じているかも知れませんが、次

に記した骨子についてだけでも、御教示いただけますよう願っています。(5)

 

 

[T] 「教会の罪」を認識するための諸要件

 

 筆者の事実認識

 

 敢えて「筆者の」を付加しますが、(1)「教会には罪がありがあり」(2)「教会の息子や娘たちにも

罪があり」ますが、(1) と(2) は、倫理主体としては、区別しなければなりません。(6) この他に

(3)「教会以外の当事者による諸々の罪があり」ます。(1)は「教会の責任者が教会の名によって行っ

た罪過ですが、(2)は「教会の非責任者が個人の資格で行った罪過」です。(7)ここで「責任者」を

「教皇公会議」に限定しますが、それは教会が「位階制使徒継承性」を「信条」としている

ことと、『新教会法典』によっても「教会の最高権威」と定めているところによるものです。そ

れでは (1)について、実際、あるのかとなると、「山ほどある」というのが歴史的事実ですが、こ

れらについては後掲第 [U] 部に譲ります。

 

 筆者の倫理原則

 

 敢えて「筆者の」を付加えますが、間違っていれば御指摘ください。罪過の謝罪は、基本的に、罪過を

犯した者が自己の罪過について行うのが原則です。ですから (1) 「教会の過去の罪」については「教会の

責任者が行う」のが原則です。勿論、救いの普遍的秘跡としての教会は (2) と (3) についても執り成しを

することを使命としない訳ではありませんが、「教会の罪」については、(2) (3) に先立って、先ず「教会の

責任者がその罪を謝罪する」のが原則です。罷り間違っても (1) を (2) (3) でもってスリカエルことは赦さ

れません。

 

 『記憶と和解』の指摘

 

 「赦しの日」の教皇説教で「罪の赦しを願う」根拠は教理省「国際神学委員会」文書『記憶と

和解』(8)(以下『文書』と略)に基づくとしているところから、『文書』の記述を少しく見なけ

ればなりません。『文書』で「神学的根拠」と題される第3部冒頭には−

 「キリスト教の第二の千年期の終わりが近づく中、教会がその子らの罪深さ(傍線筆者、以下

 同様)をより深く認識し、歴史の中で彼らがキリストの精神とキリストの福音から遠ざかり、

 世界に向かって信仰の価値に導かれた生活の証言をするかわりに、信仰の反対証言とつまづ

 きとなった考え方や行動にふけったすべての時代を思い起こすことは、適切なことです。

  教会は、キリストと結ばれて聖なるものですが、教会の息子や娘たちの罪深さを神と人と

 の前で認めているので、悔い改めの努力を惜しみません。『教会憲章』はこう証言していま

 す。『教会は自分のふところに罪びとを抱いているので、聖であると同時につねに清められ

 るべきものであり、悔い改めと刷新との努力を絶えず続けるのである。』(9)

と指摘した上で、

 「これら教皇ヨハネパウロ二世の言葉は、いかほど教会がその子らの罪過に冒されている

 かを強調している」

と解説し、

 「教会は御子の犠牲の代価と聖霊の賜物によって御父がお建てになったのであるから聖なる

 ものであるが、洗礼によって教会に生み落とされた者達の罪を実際に引き受けるのであるか

 ら、ある意味で、罪人である」

と規定します。

 

 「教会」の規定 

 

 『文書』には「教会」は (1)「御父より建てられた聖なるもの」であると同時に (2)「罪人を抱

えているので清められるべきもの」とありますが、両者をどのように理解するかが肝要です。

(1)を起点とすれば「教会は聖なるもの(で罪を犯さない)」だけが本質的となりかねず、(2)は

付随的となって排除さえされかねませんが、これでは「神様がお創りになった人間は罪を犯すこ

とがなく」 「神が合せ給うた二人は別れることがない」に等しくなります。これに対し、もし(2)

が事実上存在するとなると(1)は条件的となります。ですから(1)と(2)を排他的に考えるのではな

く、双方を本質的とみなし総合的に理解する見方、

 「位階制度をもって構成された社会とキリストの神秘体、見える集団と霊的共同体、地上の

 教会と天上の善に富む教会は、二つのものとみなされるべきではないのであって、人間的要 

 素とからなる複雑な一つの実在を形成しているのである。」(LG8)

との第二バチカン公会議の立場に立帰ることが必要です。

 私の理解では、間違っていれば御指摘下さい、『文書』の立場は (1)「教会は聖である」であ

ると思われます。でなければ(1)をこれほど断定的に提示できないと思われますし、(2)「教会は

清められねばならない。それは息子や娘たちに罪過があるからだ」と罪過を「息子や娘たちに託

けている」箇所が、それほど長くもない『文書』に 31箇所、その中第3部「神学的根拠」には16回

も登場するはずがないと思われます。

 

 

[U] 「教会の罪」の事実

 

 教会(の責任者)には罪があり得る

 

 畏れ多いことながら、聖書には「罪のない人は一人もいない」 (ローマ 310、Tヨハネ 18)

となっていますので「最高の権威」をお持ちの方も同様と思います。『文書』にも教会のメンバー

全員が罪深い者と記しております。(10)  それでは公的な役務遂行に関しては罪過を免れているかとなると、

不可謬性に関すること以外は、(11) 免れていないと想定されますが、本第 [U] 部に列挙する歴史

的事実を認めるか否かに懸かります。今一度繰り返しますが、教会の責任者が教会の名によって

行った罪過は「教会の罪過」となり「教会の責任」が生じます。もし責任がないこすると、もと

もと、組織も権限もなかったこととなり、去る三月十二日に行われた「罪の赦し」の代願もでき

なかったはずであって、上べはどんなに良心的に見えようとも、中味は余りにも空恐ろしい一事

となってしまいます。

 

 『文書』が列挙する「過去の罪」

 

 『文書』は第5部で、「倫理的識別のための諸基準」を掲げた上で、教会の息子や娘たちが福音

的証しに反して犯した(傍線筆者)と見られる罪過と明記して、次のものを、例示します−

 (1)「キリスト者の分裂」(2)「真理への奉仕に際しての暴力の行使」(3)「キリスト者とユダ

ヤ教徒」(4)「現代の諸悪についての責任」(12) です。これらは、『文書』の指摘するように「息

子や娘たち」の罪だったのか、或いは、「教会の罪」だったのかに関わる重大なポイントですか

ら、具体的事実を指摘しなければなりません。

 

 筆者による歴史的事実の指摘

 

 例によって「筆者による」を付加しますから、間違っていれば御指摘下さい。

 (1)「キリスト者の分裂」ほど「愛の宗教」にとって痛ましい現実はありません。東西キリスト

教の分裂(1054)と宗教改革(1520- )が最大のものとしますと、前者は教皇聖レオ九世とコンスタ

ンチノープル総大主教ミカエルケルラリオスとの相互破門状をもってのことであり、後者は、

ルターを異端として破門したのは教皇レオ十世の大勅書 Exsurge  Domine (1520)であったとさ

れています。「全キリスト者が愛の証しに生きてなかったから」との『文書』の指摘は認めると

しても、「息子や娘たち」に破門できるはずはなく、できたとしてもそれに何の意味があったとい

うのでしょうか。

 (2)「真理への奉仕に不寛容であり、暴力を行使した」ことは、十字軍の遠征であり、異端審問

であり、魔女裁判であり、強制改宗を意味すると思われます。どの一つを採っても、正に「暗黒

時代」そのものですが、第一回[十字軍](1096-1099)は教皇ウルバヌス二世とクレルモン教会会議

の、第二回のそれ(1147-1149)は教皇エウジェニウス三世と聖ベルナルドゥスの提唱奮励によるも

のであり、それ以降も、教皇インノチェンチウス三世の召集した第四回ラテラノ公会議(1215)とか教皇イン

ノチェンチウス四世の召集した第一リオン公会議(1245)等が関与していたのではなかったのでし

ょうか。(13)

 同様に、[異端審問]制度を確立したのは教皇グレゴリウス九世の大勅書 Excommunicamus

et  anathematizamus (1231)でありそれに拷問の使用を認めたのは教皇インノチェンチウス四世

の大勅書 Ad extirpanda (1252)ではなかったのでしょうか。(14) なかでも教皇インノチェンチウ

ス三世の南仏カタリ(アルビジョア)の異端に対する十字軍遠征は(15) 残虐の極みで、犠牲者

114,000名中、10,220名は火刑に処せられたと伝えられます。(16)「1790年から1792年にかけてマドリッ

ドの異端審問所長官だったリリョレンテは、『国土回復』以降彼の時代までだけでスペインで

30万人が死刑になったと見積っています。これはローマ皇帝の犠牲となったすべてのキリスト

教徒とも比較できない数字とされ」(17) ます。そして異端審問が一番長く続いたのがローマで、

十九世紀は教皇ピウス九世の時迄でした。

 [魔女裁判]については、魔女についての定義を与えた教皇インノチェンチウス八世の大勅書

Summis  desiderantes  affectibus (1484)(18)以降、「これを否定する者は司教であれ神学者であれ

異端とされました。」これによって「ふと目を覚ますと愛していたはずの女がじつは隠れた魔女

だったことに気づくという事態が起こるようになり」、「長すぎる冬、あるいは収穫の遅れがあれ

ば、それはこういった不幸な女たちの大量焚殺を意味しました。」(19)

  (3) 「キリスト者とユダヤ教徒」と中立的な見出しですが、中味は深刻です。ナチスによるユダ

ヤ人迫害に関して教皇ピウス十二世が沈黙し続けたことが非難されますが、ユダヤ人全体に「キ

リスト殺害者」としての汚名を着せることは、クリゾストムス等教父時代からのもので、この汚

名が取り払われたのは、ようやく第二バチカン公会議においての事でした。(20) 教皇インノチェン

チウス三世と第四ラテラノ公会議(1215)は、十字軍を招集し、異端審問を徹底させた他に、ユダ

ヤ人に「土地の保有、軍隊に入ること、役人になること」(21) を禁じるとともに、キリスト教世

界で生活するイスラム教徒とユダヤ人に識別のための印「黄色の星章」を強要しました。(22)

チスの迫害に先立つ事七百年の事柄です。「キリスト殺害者であるユダヤ人は生まれながらの奴

隷であり、そのような者として扱わるべきこと」(23) を強調したのは教皇パウロ四世の反ユダヤ

主義の大勅書 Cun  nimis  absurdum (1555)で、「同教皇の在任期間にローマのユダヤ人は半減し

た」(24)と言われています。

  (4) 「現代の諸悪についての責任」に関しては、「神を否定する無神論」 「宗教的無関心」「人生

の超越的意味の喪失」「世俗主義」「倫理的相対主義」「人類家族を蔽う “貧しき者の叫び”への

絶望的無関心」と、項目だけが挙げられていますが、これに「教会の責任者」が直接関与してい

た事など、ついぞ自覚されていないようです。そこで、“貧しき者の叫び”は列強の世界制覇が

もたらしたものであり、その起点、原点に、世界制覇を教会の名によって正当化した教皇アレキ

サンダー六世の「贈与大勅書 Inter  caetera」(1493)があったところから、その一部を記載します−

  「全能なる神よりペトロに授与された権威にもとづき、他のいかなるキリスト教を信仰する

 国王もしくは君主によって現実に所有されていないすべての島と大陸、及び、その一切の支

 配権を、汝ら(カトリック両王イザベルとフェルナンド)(傍線及び括弧内筆者)と汝らの相

 続人であるカスティリアおよびレオンの国王に永久に・・・贈与し、授与し、賦与するとと

 もに、汝らと汝らの相続人を・・・完全無欠に叙し、任命し、認証する。」(25)

これによって教皇は、キリスト教徒が発見する非キリスト教徒の全ての土地を永久に授与するこ

とを教会の名によって宣言しました。(26) このような権限があったとは、現代では考えられない

事ですが、当時は「ある」と考えられ、全く非福音的な植民地主義的、資本主義的、帝国主義的

(無)秩序を正当化し、それが増幅されて、“絶望的な叫び”となっていきました。(27)

 以上に歴史的事実を寸記したのは、これらを、『文書』が説くように、「教会の息子や娘たちの

罪過」と決めつけてしまうには、あまりにも非良心的と感じられるからです。今仮に「息子や娘

たち」が関係しているとしても、「教会の最高権威」が「職権をもって」 「教会の名において行っ

た事」は「教会が行った事」であり、もしそこに罪過があれば、それは「教会の罪過」であり「教

会に責任」が生じます。なぜこれらを「教会の息子や娘たちの罪過」とするのか、それは「教会

は聖なるもの」で「罪を犯すはずがない」との第二バチカン公会議以前のメンタリティの虜に

なっているからに他なりませんが、これが健全な「教会の定義」をも無視し「歴史的事実」をも否

定する暴挙であることは、今更指摘する迄もありません。(28)これほど非良心的な『文書』にも拘

 らず、日本カトリック教会には賛辞こそ谺すれ、(29)批判の一声も上がらない事態をどのように

理解すればよいのでしょうか。

 

  「誤りを認めることは、信仰を強める勇気ある誠実な行為」

 

 勿論『文書』には沢山の素晴しい指摘も、分析も、表現も、ない訳ではありません。序文にも、

本文にも、結語にも、登場する次の文章はその最たるものと思われます−

  「真実の認識は和解と平和の源泉です。」

  「過去の弱さを認めることは、わたしたちの信仰を強める勇気ある誠実な行為です。」

これらは誠に真っ当な指摘、美しい表現です。しかし「その言うところ宜し、しかし行うところ

に倣ってはならない」(マタイ233)との聖言葉が、同時に、響きます−なぜなら『文書』は

  「過去の誤りと不信仰、一貫性のなさ、必要な行動を起こすときの緩慢さなどを悔い改めて

 自己を清めなければ新しい千年期の敷居をまたぐことはできません、とその子らに勧めるこ

 (傍線筆者)は教会の責務です。」

を結語としているのですから−。

 

 「良心の痛み」と「教会の責任者への不信」を少しでも癒していただければ幸せです。

 

 

 

   【注】

 
(1)  

高柳俊一「記憶の浄化−教会と過去の過ち−」『福音宣教』(2000年 8・9月)4-9ページ。

(2)  

教皇ヨハネ・パウロ二世『紀元二〇〇〇年の到来(TMA)』(カトリック中央協議会 1994年) 32、43ページ。

(3)  

『カトリック新聞』(2000年 3月19日) 第一面。

(4)  

L'OSSERVATORE  ROMANO, N.11(1634) -15 March 2000,(1)

(5)  

この拙文の背景について一言すれば、「国際神学委員会」委員高柳俊一神父の御高論を読了直後、2000年7月21日付の書面で同神父に、同『文書』では「教会が教会の罪の赦しを願った」ことになっているかどうかについて直接問合わせました。同時に関連資料も御恵送願えないものかと依頼しました。2000年 8月14日付書面で再度のお願いをしたにも拘らず、現在のところ、音沙汰なしの状態です。『記憶と和解』の論理では「教会の戦争責任」もあり得ないと、2000年 6月 4日の大阪正平協の月例会でお話しをし、それを承けて同日、日本カトリック司教協議会会長島本要大司教宛の要望書を提出しておいたところ、2000年 9月19日付の書面にて「司教協議会は解釈について回答する立場にないので、直接教理省・国際神学委員会か同委員会委員高柳俊一師に問合わせるように」との丁重な返答に接しました。

(6)  

「息子や娘たち」の対句には「父なる神」としての「御父」か、或いは、「聖父」 「神父」が挙げられます。前者であれば「息子や娘」に「聖父」「神父」も含まれますが、絶対者と被造物人間との“親子表現”は、所詮、比喩にすぎません。とすれば、自己と区別して何度も「息子や娘」呼ばわりをする主体は、「聖職者」である「聖父」や「神父」となりますが、この場合「息子や娘たち」は、所謂、“平信者”となります。

(7)  

この他に「教会の責任者が個人の資格で行った罪過」等の問題が残っていますが、今は問わないことにします。

(8)

 

 

INTERNATIONAL   THEOLOGICAL   COMMISSON,
Memory and Reconciliation : The Church and the Faults of the Past.   L'OSSERVATORE   ROMANO,
 
N.11(1634)-15 March 2000. SPECIAL  INSERT.

(9)  

TMA  33、43-44ページ、第二バチカン公会議(1964年)『教会憲章(LG)』(中央出版社、1965年) 8、14-16ページ。 

(10)  

「その役務者達を含めて教会の全構成員が罪深い者であることを認めねばならない。」(3.1、Wページ)

(11)  

不可謬性については、別途、取扱う予定です。

(12)  

TMA  33-36、43-50ページ。

(13)  

J・Bデュロセル『カトリックの歴史』(白水社、1954年)69-73ページ。M・バンソン(1995年)『ローマ教皇事典』(三交社、2000年)91-92、99-101、107-108ページ。P・G・M・スチュアート(1997年)『ローマ教皇歴代史』(創元社、1999年)117-119、123-124、133-137ページ。

(14)  

半田元夫・今野国雄『キリスト教史T』(山川出版社、1977年)440-445ページ。P・D・ローザ(1988年)『教皇庁の闇の奥-キリストの代理者たち-』(リブロポート、1993年)324-333ページ。

(15)  

C・Sクリフトン(1992年)『異端事典』(三交社、1998年)30-45、80-83ページ。

(16)  

P・Dローザ『前掲書』316-323ページ。但し、C・S・クリフトン(前掲書、41ページ)によれば1万5千から2万人の殺戮となっている。

(17)  

P・Dローザ『前掲書』341ページ。P・ジョンソン(1976年)『キリスト教の2000年(上)』(共同通信社、1999年)389ページ参照。

(18)  

M・バンソン『前掲書』143ページ。P・D・ローザ『前掲書』368ページ。

(19)  

P・Dローザ『前掲書』367-368ページ。

(20)  

第二バチカン公会議(1965年)『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』(中央出版社、1966年)4、5-6ページ。

(21)  

P・ジョンソン『前掲書』375ページ。

(22)  

P・G・Mスチュアート『前掲書』135ページ。M・バンソン『前掲書』153-154ページ。P・ジョンソン『前掲書(下)』60ページ。

(23)  

P・Dローザ『前掲書』386ページ。

(24)  

P・Dローザ『前掲書』384ページ。なお、ユダヤ人が<ゲットー>と呼ばれる特別な区画に閉じ込められたのも教皇領が最初、とあります。

(25)  

『コロンブス航海記』(平凡社 1993年)694-699ページ。

(26)  

これに関して I・カントは「われわれの大陸の文明化された諸国家、とくに商業活動の盛んな諸国家の非友好的な態度をこれ(諸大陸間の平和的相互関係−筆者−)と比較してみると、かれらがほかの土地やほかの民族を訪問する際に(訪問することは、かれらにとって、そこを征服することと同じことを意味するが)示す不正は、恐るべき程度にまで達している。アメリカ、黒人地方、香料諸島、希望峰などは、それらが発見されたとき、かれらにとってはだれにも属さない土地であるかのようであったが、それはかれらが住民たちを無に等しいとみなしたからである。」と評論している。I・カント(1795年『永遠平和のために』(岩波書店、1985年)48-49年。

(27)  

西山俊彦『カトリック教会の戦争責任』(サンパウロ、2000年)160-177ページ。

(28)  

日本の教会関係では、信仰そのものを否定しかねない「神社参拝の容認と奨励」(1936年5月26日)も、十五年戦争の起点に位置するバチカンによる「満州帝国の承認」(1934年4月18日)も、 「教会の息子や娘たち」が行ったものではなく、 「ローマ聖座」を構成する「福音宣教省」の公文書をもってなされたことは言う迄もありません。西山俊彦「教会の戦争責任を問う@〜I」『福音宣教』(1996年8・9月号−1997年6月号)。

(29)

 

 

(今回の教皇による罪の赦しの願いは)「天皇の名で行いながら天皇の責任を問わず、その下で働いた人々の責任にしてしまうのとは、大きな違いである。」(「千年単位で我が身を振り返る−教皇の謝罪行為の根拠について−」あけぼの』2000年9月、34-35、35ページ)と森一弘司教は記されました。岡田武夫大司教は、その着座式の説教で、「ことしの四旬節第一主日、教皇は和解と回心のミサを捧げた時、教会として犯した罪を告白し、主にゆるしを求めました。・・・この教皇の実に謙きょで、かつ勇敢な模範に、不肖、私も倣いたいと願っています。・・・」(『カトリック新聞』2000年9月14日号、第一面 3-4段)と明言されました。どうしてこのような賛辞が表明できるのか、私には解りません。

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