「持続可能な開発原理の二律背反性と
                              普遍的秩序(平和)構築原理としての不可欠性」

 Antinomy of the Principle of Sustainable Development as an Indispensable              Requisite for Constructing Universal Order, Peace.” 
                    PEACE STUDIES, No.21,Nov.1996,pp.35-46.

 

                                                   西 山 俊 彦

 

Summary :

    Since the Earth-Summit in Rio, Sustainable  Developmeut  (SD)  has become a political platform for mankind, despite the fact that consensus on conceptual contents and, much the more, on its theoretical
feasibility has not yet been ascertained. The present article purports humbly to undertake such tasks,
giving special consideration to the noble target of constructing the universally acceptable order, peace.  

  T. Conceptual characteristics of SD have been identified as, successively adding to classical “Steaby
State”, “State of Equilibrium” specified by “Renewability” (H.Daly,1971), “Inter-generational Equity”
(Brundtland Report, 1987), and “Intragenerational Equity” postulated by logical consistency, attesting,
thus, man's active role and the global structural change implementing SD.      
 

 U. Antinomy of SD  has been proved b means of conceptual adequacy and practical infeasibility of
internalization, due to the reasons :
      (1)  State of SD, specified by renewability  of resource and environment, could be redefined as a co-
        mpletion of internalization of entire economic externalities which is tantamount to the restoration
        of original state before the depletions.
      (2)  The above task is not feasible in practice, since ;
         1)  external functions are numerically infinite, being as many functions to be identified as the num-
          ber of the framework applied.
         2)  (mutually  potentiating ) externalities are almost always inseparably ingrained in the economic
          actor himself, in opposition to contrary supposition of economic models.
         3)  As an ultimate state of SD, the Zero-Growth society was illustrated to show how unrealistic
          and unrealizable is such a state in so far as one can not get rid of the Free-Market-Economic-
          System. 
  

  V. The universal value principle, such as SD, is, briefly argued, indispensable to universal order, peace,
due to the reasons:
      (1)  Contrary to the value-free-supposition of science, the value-sharing-supposition is, explained to
        be, more consistent with theoretical requirements of science and, especially, of the science of
        peace.
      (2)  Given the survival of mankind is of prime importance, the realization of a SD society is a supreme
        commandment for mankind.
      (3)  Never being completed the internalization and meaning the more private initiatives the more  dis-
       ruption from SD, a certain Systemic Remedy has to be invented to overcome the unavoidable  det-
       riment deriving from the Free-Market-System.

 
   はじめに
T.「持続可能な開発」原理の特徴 V.普遍的秩序(平和)構築への普遍的原理の
1.「永続的開発可能性」としての「SD」原理   不可欠性と暫定性−むすびにかえて−
2.「世代間の平等」としての「SD」原理   1.「SD」原理という普遍的価値規範の定立は
3.「世代内の平等」としての「SD」原理      科学と平和学の使命
  2.物理的限界が不可避、人類生存が
U.「内部化」による「SD」原理の確立      不可欠での転換は至上命令
1.「外部(不)経済の内部化」は「均衡状態」の回復に相当   3.隘路打開の可能性
2.「十全な)」外部経済の内部化」は実現不可能
1)「効用の無限性と無評価」
2(「(相乗的)外部効果は経済主体に内在的」で不可分離
3.「ゼロ成長 −ZG−」社会のイメージ
 

 はじめに

 

 日本平和学会1995年度秋季研究大会のテーマは「アジア・日本・戦後50年−『持続可能な発展』と日本の選択−」であった。「持続可能な発展 Sustainable Development−以下 SD(1)−」という評価基準を掲げたことは画期的なこと、冷戦崩壊の次第であれ超氷河期の行方であれ、戦後50年を評価し次代を選択することは価値基準の自覚化なしにはあり得ないとすれば、これでようやく平和学も科学としての第一歩を踏み出したことになるのではなかろうか。
 「SD」社会の実現こそ人類死活の「最重要課題」(2)と言われる。産業革命以降未曾有の生産力を手にした人類は、限りなき経済成長を夢み、その学的反省である経済学も同様であった。地球が惑星の一つにすぎず、限りある世界にすぎないことに目覚めさせたのが「スプートニク」(1957)であり、『成長の限界』(3)(1972)ではなかったろうか。今や「有限な宇宙船地球号では際限なき人口増加と生産消費の増大は継続できない」(4)との認識はほぼ人類共通のものとなっている。本稿では、人類の生存と共存には「SD」原理の確立は不可欠の要件であることを確認し、同時に経済行為に内在する反「SD」原理によってそれが不可能であることを認識し(5)、これによって「SD」社会の確立には個々の対応を超えたグローバル・システムの構築が不可欠となる理由を共有することを目的としている。中心課題は概念分析であって、分析枠組は「事実規定論」(6)と「外部経済の内部化理論」、分析用具は「矛盾律」或いは「論理整合性」だけである。紙幅の都合上、点と線との素描となるのを許されたい。

 

  T.「持続可能な開発」原理の特徴

 

 「有限の世界で無限に幾何級数的成長を続けることができると思い込んでいるのは、理性を失った者(一部変更)か経済学者だ」(7)とK.ボールディングは指摘した。とはいえ、「定常状態」はリガードからJ.S.ミルにいたる古典派にとって資本主義経済の行きつくべき状態とみなされ、A.マーシャルに続く新古典派では「均衡概念」が実現されるべき状態でも方策でもあった。過去50年近く成長至上主義が支配的だったのは、或いは「新古典派の静的均衡理論に対する反動」(8)か、或いは各個々人は利潤追求に、経済学者はこれら営為の分析に終始して、その連関帰結の全体的視野統合を軽視したためではなかったろうか。いずれにしろ成長至上主義は資源枯渇と環境破壊を惹起し、「このまま放置すれば、22世紀をまたず、人類が滅亡する可能性は強い」(9)との警鐘が打ち鳴らされ、「もう一つの選択は、市場経済を放棄し、世界経済の成長率をゼロにすることである」(9)と大転換を迫っている。「すべての者の家である地球の不可分性と相互依存を確認した」「地球サミット」(1992)では「SD」社会の実現が、遂に、人類社会の政治的課題となった。先ず「SD」原理の骨子を確認しなければならない。

 

 1.「永続的開発可能性」としての「SD」原理

 「SD」の最も基本的性格は「永続的開発」(10)或いは「開発に関する要件が時系列的に無限に継続する可能性」(10)と言われる。H.デーリー(11)は、「永続性」を「均衡状態」で据え直し、これをアウト・プットがイン・プットを上回らない「再生可能性」の概念でもって表現した。
 1) (土壌、水、森林、魚等)再生可能な資源の消費ペースは、その再生ペースを上回ってはならな
   い。
 2) (化石燃料、良質鉱石、化石水等)再生不可能な資源の消費ペースは、それに代わり得る再生可
   能資源が開発されるペースを上回ってはならない。
 3) 汚染物質の排出ペースは、環境がそうした物質を無害化しうるペースを上回ってはならない。
   (12)(13)
 均衡状態についてのこれら条件を達成するには、「人口増加の抑制」「生産性の向上」「生活様式の改善と生活水準の抑制」が必要とされているが(14)、「SD」の最大の目的が、「あらゆる人類構成員の基本的ニーズの普遍的充足」(15)にあることは、後述する「SD」原理の最終基本単位とも一致する、最も重要なポイントである(15)

 

 2.「世代間の平等」(16)としての「SD」原理

 「西暦2000年までに持続的開発を達成し、また、これを永続させる長期戦略を提示」しようとした「ブルントラント報告」は、
  「持続的開発とは、将来の世代が自らの欲求を充足する能力を損うことなく、今日の世代の欲求を
  満たすこと」(17)
と規定した。「世代」という単位区分を導入して「永続的開発可能性」を「世代間の平等な開発可能性」に置き換えたことは、第一義的には、良好な環境がどれだけ持続すれば、とか、どれだけの容量を保持すれば、とか、どれだけの容量を保持すれば、「SD」原理は充足されるかという客体からの規定を回避しつつ、各世代が均衡を保つことによって全世代に同等の可能性を保証する手法、即ち、主体からの規定を行いつつ、第二義的に「SD」原理の主体が人間主体にあることを明言したことに相当する。この事実は「ブルントラント報告」がその定義に先達て、「人類は、開発を持続可能なものとする能力を有する」(18)と宣言し、「環境と開発に関するリオ宣言」第一原則も、「人々は、持続可能な開発への関心の中心にある。人々は、自然と調和しつつ健康で生産的な生活を営む権利を有する」(19)と宣言したところにも一致する。換言すれば、「SD」の中心概念が、即物的“自然愛護”“動物愛護”“万物平等主義”にあるのではなく(20)、ましていわんや、単純な“資源主義”でも“環境主義”“生態主義”でもなく、人間主体のグローバル主体形成に関わる資源であり環境であることである。この性格が一層明確に表れるのが「SD」原理の次の特徴である。

     

 3.「世代内の平等」としての「SD」原理

 前項「世代間平等」は各世代が「再生可能性」を堅持することによって、他世代にも同等の開発可能性を保証し、全世代間の平等を確保するものであった。ところで「同一世代内」での平等を権利義務とできるのであれば、「世代内の平等」は「世代間の平等」の不可欠的前提である。「持続可能性は……世代間の社会的公平のみならず、各世代のなかにおける公平にまで論理的に拡大されるべきものである」(22)(23)と言われる所以である。「世代内の平等」は「南北間の平等」はいうに及ばず、「個々人間の平等」にまで必然的に及ばねばならず、このために、「SD」原理の最終基本単位は個々人(の平等)ということになるが、これは開発の主体が人間個々人であり、また、その目的も人間個々人であったところと一致する。これを個々人の視点から見れば、個々人を主体として尊重する普遍的価値規範に相当し、従って、「SD」社会を確立することは普遍的秩序とみなされる平和構築の不可欠の要件であることを意味している(24)。「SD」原理の主体と目的が人間個々人であり、最終基本単位が個々人(の絶対平等権)にあるとすると、ここにまた多くの論理必然的帰結が派生する。その二つだけを記せば ―― 「個々人を主体とし、個々人を目的とする平等」は、
 1) 機会の平等ではなく、結果の平等を要求する。なぜなら、
  (イ) 機会の平等があったとしても、その利用可能性は
個々人の能力、資源、財産等、既得権益の寡
    多によるのだから、既得権益を放置したままでの機会の平等は名目的なものにすぎなくなる。
  (ロ) 「国民が有能勤勉だったから経済大国となった」という「応能原則」が成立するのは、
     (@) 「国民が好機に恵まれなくても同じ結果を生み出し」、(A)「他国民が好機に恵まれていな
    がら同じ結果を生みださなかった」ことが立証された場合であって、これらが立証不可能な間
    は、既成事実の一方的正当化にすぎなくなる。
 2) 個々人の絶対平等権に抵触するあらゆる制度機構の制限撤廃を要求する。なぜなら、
  (イ) 資源の生産分配消費の主体と目的が個々人であれば、この原則に抵触する機構制度、例えば、
    私有財産制とか国家主権(含資源の恒久主権)は撤廃されねばならない。
  (ロ) 資源の配置も国家権力の実態も、恣意的偶有的事実でしかないとすれば、「SD」原理が充足
    され個々人の権利が尊重されるためには、これらの抜本的変革が必然的となる。 
  「世代間平等」は「世代内平等」を必然化すると同時にそれに基礎づけられ、「世代内平等」は「個々人間の平等」を意味するのであって、従って、「SD」原理の最終基本単位は個々人(の絶対平等権)にあることを確認した。「再生可能性」の実現単位/レベルとしては「世代」であれ、「個人」であれ「個々人の個々の行為」であれ、収支バランスが保たれている限り確保されることは言う迄もないが、「SD」原理の確立がマクロ的課題であるところから、本稿でも便宜的に、「ブルントラント報告」が提示した
「世代」をもって基本単位とした。

 

  U.「内部化」による「SD」原理の確立

 

 第T節では、「世代間のSD原理の確立」は「世代内のSD原理の確立」によって確保されること、即ち、「世代間における平等な開発可能性」は「各世代内における再生可能性の維持」によって確保されることを確認した。ところで、資源環境の「均衡状態」或いは「再生可能性」はどのように維持されるのかが次の問題である。それを守れば「均衡」が保たれ、守らなければ「均衡」が崩れる要件を説明する十全な理論は必要十分なものでなければならないが、植田和弘等は相互排除的ではない五つの理論を挙げている(25)。(1) 物質代謝論アプローチ、(2) 環境資源論アプローチ、(3) 外部不経済論アプローチ、
(4) 社会的費用論アプローチ、(5) 経済体制論アプローチ。この内の (3) 外部不経済論アプロ−チを、その論理整合性と現実との相即乖離を説明する自己完結性によって採用説明し、他は、紙幅の都合上、割愛する。

 

 1.「外部(不)経済の内部化」は「均衡状態」の回復に相当
     ― (3)外部不経済論アプローチ ―

 A.マーシャル、A.C.ピグー、R.F.カーン(26)等によって順次理論化された外部(不)経済とは「経済的営為の中で、市場取引(内部経済)外のものとして処理された(非)資源、或いは、その(不)効用のもたらす(非)経済性」(27)と定義づけられる。呼吸とか燃焼に対する空気とか酸素のように、往々にして、意識されているかいないかに拘らず、或いは、温暖化に対する森林効果とか、或いは、各種スケール・メリットのように意図的に利用されているかいないかによらず、実際上経済行為に寄与しているにも拘らず(28)、市場取引の対価計算外のものと見なされている経済効果のである。外部経済と表現されるのは対価計算に対してだけのことであって、経済行為には内在的であるにも拘らず、何らかの権益格差によっていわば“タダ乗り”を許されている効果であるところから、比較優位性と利潤創出の主要な源泉となる。「外部経済を内部化する」とは、これら市場取引外のものとして処理された「不払いの資源効果」を対価計算に再び取り込み、「再生可能性」に応じた対価支払を実行して資源環境の「平衡状態」を回復することに相当する。少なくとも概念上は、「不払いによって再生不可能に陥っていた状態」(29)を「支払いによって再生可能な状態」に戻すのだから、論理整合性は見事に充たされ、「外部経済の内部化」課題の実行こそが「SD」社会確立の十分条件となる。このような収支バランスの回復は、論理的、原理的に余りにも整合的であって、その実現可能性については問題視されないことが多いが、「内部化」の実現可能性に「SD」社会の実現可能性がかかっているのであるから、「外部経済の内部化」が実現可能なものであるか否かは最大のポイントである。次に展開するこのポイントが本稿の一特徴である。

 

  2.(十全な)「外部経済の内部化」は実現不可能

 論理的にも原理的にも全く整合的な「外部経済を内部化する」課題は、次の二つの理由によって実現不可能なことが判明する――
 1) 「効用の無限性と無評価」
 「こんなようになってはならない」という今一つの物指しを適用すれば、救い難い状態にも反面教師的効果は現れる。一定枠組みとか基準が適用されるところに、それに応じた効用効果が現れるとすれば、
適用可能な数だけの効用効果が潜在していた訳であり、実際に、適用可能な枠組基準は無数だから、効用効果も実際的には無数無限であって、これら全ての効果を同定することも、市場取引の対象とすることもできない。これら効果が無自覚のまま留め置かれ対価計算の対象ともされないからこそ、外部経済とも環境とも見なされて、「均衡維持」と「再生不可能」への負担外のものとして処理される。この事実にも増して、「再生可能性」のための貨幣評価の仕方は、一義的な規定を拒む難題である。例えば「オゾン層破壊」にしろ「温暖化」にしろ、そのメカニズムの全貌が解明される迄は責任負担の貨幣評価は決定し得ない訳であるが、環境問題のトータルなバランス・シートは今後の解明を待つものが殆どである。その上、責任負担の原則についても「汚染者原則」によるのか、或いは、「応能者原則」「受益者原則」(30)か、「原状回復」か「汚染防止」か、大差が生じるこれら原則基準でさえ今後の合意にかかっている。「外部経済の内部化」は「顕在的−潜在的」「意識的−無意識的」「あるがままの−あるべき」「市場取引内−市場取引外」……と区分される経済効果の前者だけでなく、後者までもが判明し、「SD」原理に見合う市場取引の対象とされて初めて成立することになるが、後者については部分的にしか達成され得ない、という訳である。
P.エキンズの説明を借りれば、彼は「トータル経済価値TEV」(31)を、
  TEW=(1)直接使用価値 + (2)間接使用価値 + (3)選択価値 + (4)存在価値
と表現し、(2)生産機構と法体系、実績、情報機能等の使用価値、これら機能を(3)将来の使用に持続させようとして社会が付与する価値、(4)芸術美術、自然環境等、使用価値とは無関係に社会がその維持を欲する価値、に区別される(1)〜(4)すべての合計をもって「TEV」と見なしているが、内部化は(1)についてだけ可能となるだけで、(2)〜(4)については、それらの全効用の定立も、メカニズムの解明も、貨幣評価も、如何ともなし得ない課題である。
 2) 「(相乗的)外部効果は経済主体に内在的」で不可分離
 自由財、環境財、公共財等として自由なアクセスに供されているように見える外部経済の殆んどは権益格差に基づいて経済主体に分有内包され、それらは、また、他の外部経済の取得行使に相乗的に影響する。例えば、「健常者」なら健康を、「日本人」なら国力を彼(女)自身が既に内包しているように、それらは労働力、資本力、技術力、経営力、市場支配力、立地条件等は言うに及ばず、組織、制度、体制、教育、政治、治安、軍事、歴史、文化、風土等々、環境財とか公共財とか社会財と見なされている財の所有と利用を左右し、差異的効果を発揮する。国力、気候、文化等は国内的には同一とも見なせようが、国際的関連付置ではそうではない。とにかく各種経済主体はこの外部経済を極大化して比較優位性を発揮し、利潤拡大を図るのであるが、これら外部経済の殆んどのものは主体内在的であって、経済行為と不可分離である事実は重大である。
 一方、経済学が想定する「市場メカニズム」或いは「完全競争市場」は「合理的経済主体」を前提にしており、「自由」で「対等」な経済主体の想定がそこにはあるが、これは外部経済が各経済主体に内在的、不可分的に存在していることを無視したモデルに過ぎない。外部経済が既得権益である限り、それらが恣意的、差異的取得分布を示すことは、同義反復的特徴である。各経済主体とその行為に不可欠、不可分離に内在していることは、それら外部経済を分離平準化できないことを意味している。もっとも、理念的には分離可能ではあるが、外部経済を払拭した経済主体とその世界とは一体どのようなものであろうか。(32)老若・男女・能力・資格……の差異にも拘らず、それらに全く影響されない誰とでも対等で自由な個々人の世界、ただ彼(女)が彼(女)であるとの理由だけが、各人が人格の尊厳において独自で平等であるとの信念だけが生きている世界、いわば「彼(女)には必要に応じて、彼(女)からは能力に応じて」というような世界となる。それは各人の「必要性」と相互の「博愛」だけが支配する世界となるであろうが、「外部経済を完全に払拭した自由で平等の世界」に経済行為が存続し得るか否かは疑問である。なぜなら、完全に差異格差を払拭し対等になった取引には、比較優位性の可能性はなくなり、それを追求する理由も目的も消滅し、いわゆる経済行為の根拠がもはや存在しないからである。実際には、これら“夢幻想”の逆こそが現実である。外部経済の取り込みを不断に行い、それらを取り込めば取り込むほど経済効果は絶大となるが、それら経済活動の伸張こそ「再生可能性」と「持続可能性」からの乖離を結果する。植田和弘等(33)は「SD」原理の回復を要する領域として(1)農業・林業・漁業等の〈自然→経済〉領域と(3)廃棄物処理に関する〈経済→自然〉領域を挙げ、外部経済の内部化の必要性を力説した。この部分についての異存はないが、全く不十分な見解と言わねばならない。なぜなら、従来の市場取引である (2)〈経済⇔経済〉領域自体に介在する外部経済こそが「SD」原理からの逸脱乖離の最大の原因なのだから。この〈経済⇔経済〉領域自体の内部化が最大の課題であるが、それが本項 1)、2)に述べた理由により可能とはならない。内部化命題は内部化命題自体によって否定される将に二律背反なのであるが、この袋小路を脱却する可能性は皆無なのだろうか。市場経済の図式に従う限り十全な「内部化」は不可能であって、可能なのは常に不十分なもの、即ち、部分的、事後的、暫定的なものでしかない。たとえ不十分なものであれ、それらが「内部化」の一環をなしている限り推進されなければならないことは言う迄もないが、所詮、市場経済に基づく背理は避けられず、システムとして発生するマイナス・シートはシステムとしての対応が計られねばならない。この点についての示唆を記すに先達て「SD」社会の究極完成態とも見なし得る「ゼロ成長社会」について少しく垣間見ておきたい。

 3.「ゼロ成長 −ZG−」社会のイメージ

 「SDと経済成長は両立し得る」(34)とも「持続可能性はZGを意味しない」(35)とも言われるが、「SD」社会が「均衡社会」「定常社会」のことだとすると、その「究極完成態」は「ZG」社会となるところから、ボールディングは「ZG経済とは定常状態の別名」(36)と明言する。林雄二郎は「ZG」社会の近似例として鎖国化の江戸を挙げ、それが可能となったのは、(1)対外依存度の低い自給的生活パターン、
(2)間引きによる人口抑制、(3)勤勉は美風、無欲は美徳で貧困を恥としない風習が確立していたから、とし、それには、強烈な集権体制、士農工商の固定的身分制度、とヨーロッパが産業革命以前であったこと、の結果とみなした。(37)「ZG」社会をM.オルソンに言わせれば、「誰かが得をすれば誰かが損をするゼロ・サム・ルールが支配し、成長は排除され、パイオニア精神は不要、科学や革新のフロンティアもなく、……個性や創造性は萎縮し、文化や文物も同様となる社会」(38)となる。ボールディングによれば、「定常的社会状態」についての特徴は
「定常的資本ストック」についての特徴となり、そこでは「純投資がゼロ、総貯蓄もゼロで、純正味投資が増加してはならない。特定時期に個人貯蓄があれば、それは必ず他者の正味資産の減少(非貯蓄)でもって相殺される。自由市場社会でこれを達成することは至難の業」(4-B)となる。「純投資がない場合、民間国内総投資は資本の減価償却費と等しくなる。失業をふやさないとすれば、この差は、住宅建設、政府投資とかで埋め合わされねばならず、政府の赤字をふやし、これはインフレ圧力となる。 ……純投資が皆無だとしたら、……企業は全体として、正味資産をふやすことができない。」(4-B)「……企業全体としての貯蓄がないとすれば、利益の一部を蓄える試みを挫折させるには、総利益を低下させるしかなく、1932年当時の状況への転落はありえないことではなくなる。……ゼロ成長の熱狂的な支持者は、30年代の恐慌の理由が、ゼロ成長に類した『長期にわたる停滞』に帰せられている事実を、記憶してしかるべき」(4-B)となる。ゼロ・サム社会の最も厳しい問題が分配にあることの他に(39)、市場経済を継続する限り「SD」社会の実現が不可能なことは一層致命的である。なぜなら、各企業が存続するには常に生産性向上に努めねばならず、例えば労働生産性を高めた場合、社会全体としての雇用確保のために雇用機会の拡大、労働市場の拡大、即ち、生産活動の拡大が運命づけられる。H.ブルックスは「労働生産性が現在の比率で伸び続けるとすれば、……合衆国の経済は年4〜5%の割合で、若年労働者と累積失業者を吸収するには、9〜11%以上の経済成長が必要」(40)と指摘する。とすれば、「現在の生活水準を保てれば満足だから、経済も今の状態を維持してくれればいい、というのは間違った見方、……現在のシステムや企業経営は、適度な成長率を維持し、拡大生産性を図らなければ正常な運営ができないような仕組」(41)になっている。「SD」社会の究極完成態である「ZG」社会が、いかに厳しい現実を呈することになるかの認識はどれ程徹底しているであろうか。或いは、「実のところ、全世界的基盤に立って人口または経済のゼロ成長について、実質的に賛成意見を述べる者は、裕福な人びとと、貧しい人びとを問わず、誰もいない」(42)からこそ、「SD」原理が一人歩きをしているのではなかろうか。
 本第U節では、1.外部経済の恣意的独占と利用に非「SD」社会の発生原因があり、外部経済の内部化過程に「SD」社会の回復可能性があることを確認し、この課題遂行こそ「SD」社会達成の論理整合的命題となるが、2.外部効果の確認が不可能なら、その貨幣評価も可能でない上に、特に、外部経済は人間存在自体に不可分的に内在し、その効果を最大限に利用するとこによって経済活動が維持されている限り、十全な達成は不可能な命題であることを確認した。できることは「部分的」「事後的」「暫定的」でしかない不十分な内部化だけであって、それが十全な「内部化」の一環をなしている限り遂行されねばならない課題ではあるが、所詮、全的な解決策とならないことは明白である。個々の対応を超える市場経済全体としての組織的回復システムが構築されない限り、経済活動が拡大すればするほど、枯渇汚染は進行し、破局への道は避けがたいものになって行く。本節末尾に「ZG」社会がいかに厳しいものであり、市場経済の実態といかに乖離したものであるかについて一瞥した。

  V.普遍的秩序(平和)構築への普遍的原理の不可欠性と暫定性
           −むすびにかえて−

 以上、2節にわたって「世代間」の「SD」原理の実現は、各「世代内」における「外部経済の内部化」の達成によって実現されるとすることは論理整合的であって、目標とされるべき中心命題あるが、内部化自体の原理的制約のためそれは全的には実現不可能なところから、市場経済に不可避的に発生する「外部不経済」を修正するシステムを組織化しなければならないことを確認した。最後に、1.「SD」原理という普遍的価値規範の定立を目指すことは、科学と平和学の本来の使命であって、その逆ではないこと、2.地球容量に物理的限界があり、人類の破滅は避けねばならぬなら、「SD」社会への転換は至上命令であること、3.二律背反からの脱却可能性は市場経済の矛盾を超克するグローバル組織の創出にあることを、紙幅の許す限り書き留めたい。

 1.「SD」原理という普遍的価値規範の定立は科学と平和学の使命

 「SD」原理の意図するところは、人類の「全世代」(ひいては全構成員)に普遍的に妥当する(はずの)「平等な開発への可能性」を保証することであれば、これは価値自由を旨とする科学に価値規範を持ち込む暴挙ではないか、との疑念について、この見解が科学性を全く非現実的な価値自由性と等置する錯誤に基づいていることだけを説明する。先ず、事実は即物的、客体的、第三者的なものであり、科学的世界を構成しその道具である「概(観)念」「事物」「対象」も価値自由であるとする見解(43)は全く錯誤であること。なぜなら、あそこに行くのは「人」か否かを規定できるのは、「人とは何物か」という「人としての要件」或いは「共通の思い込み」という「(常に暫定的な)定義」(44)を有している場合だけで、これなくしては「人」という事実は規定されない。「タスキ」は長いか短いかという評価も、「SD」社会の定立は人類の課題に相応しいか否かも全く同様(45)、価値規範と価値枠組の前提なくしていかなる事実も存在しない。「世界は物 Ding の総体ではなく、事実 Tatsache の総体である」(46)と言われる所以で、いかなる事実も存在拘束性を脱却できない所為でもあるが、それらが即物的、客体的、第三者的所与と見なされるのは、ただその規定主体が当該価値グループに埋没してその枠組みさえ自覚されない虚無意識のなせる業である。「SD」原理の基準とされる
「平等」にしろ「衡平」にしろ、将又、他のいかなる普遍的「原理」「原則」にしろ、それらは不可必然的に「当該帰属グループ」の「思い込み」を反映した多様なもので、存在拘束性の下にある「暫定的」なものに過ぎないが、それら「原理」「原則」(正しくは「観念」)が全ての世代に妥当する普遍的「原理」「原則」となるのは、「帰属グループ」の輪を拡げ人類大に妥当する「思い込み」「理念(理想的観念)」が形成される場合である。いかなる「観念」「理念」も常に暫定的で未完の“普遍性”でしかないが、もし「SD」原理という人類大の(普遍的)秩序形成が人類の生存と共存にとっての至上命題であるのなら、普遍妥当的価値規範(47)への合意形成も、また、至上命題となる。いかなる事実も価値自由なものではなく、「SD」理念も「平和」理念も一定価値基盤を前提にしたものでしかないが、対話が成立し、科学的営為を共有していること自体に、既に、この制約を自覚し、この暫定性を乗り越えるべく漸進する契機がある。科学、特に、平和学の眼目が普遍妥当的秩序形成にあるのなら、人類の全構成員に妥当する普遍的価値理念の涵養に先ず励み、それに対応する普遍的秩序−平和−の構築を目指さねばならない(48)

 2.物理的限界が不可避、人類生存が不可欠であれば、「SD」社会への転換は至上命令

 「宇宙船地球号」に各種限界があることを否定する者はもはやいない。それは、或いは光合成率を基にして、2210年頃の総人口576億人を物理的限界とし(49)、或いは、インド並みのカロリー摂取量で134億人を限度とし(50)、『成長の限界』では、資源埋蔵量などを基に「成長の局面が今後100年続くことはない」(51)と結論付けた。このような限界を前に、悲観論者は「池面と水蓮」の喩えを持ち出して、「今日が破局の一日前」であるかのような警鐘を鳴らし(52)、楽観論者は技術革新と市場メカニズム(53)(54)が全てを解決すると力説するが、人間主体の対応こそが肝要である。平準化の水準をどこに置くかは決定的なポイントであって、上限に一致させることが望ましいことは言う迄もないが、「開発途上国のエネルギー使用を先進工業国並みにすると、世界のエネルギー消費量は現在の5倍に増加し」(55)、「21世紀に開発途上国における工業製品の消費を先進国並みの水準に引き上げるとすれば、工業生産額を5倍から10倍に拡大しなければならず」(56) 「地球の生態系はこれらを支えきれない」(55)。これが不可能ならより低い水準を目標とすることになるが、欲望の抑制をもって人類の連帯を図ることがはたしてできるだろうか。(57)。1960年代より既に4度目となる「国連開発旬年 Development Decade」(58)の援助目標GNPの0.7%を達成したのは OECD18ヵ国中僅かに4カ国だけであり、2005年までにCO放出量を1986年水準の20%減とするとの「トロント声明」の実現も絶望的である。近未来の予測は、
  「もし、今後平均 3.0%の経済成長がつづき、21世紀中頃から後半にかけて 2%程度に軟着陸する
 と仮定するならば、世界経済の規模は、……99年後の2090年には12倍という途方もない規模に達する
 ことになる。」(59)
 推定には不確定要因がつきまとう。同時に不可逆的破壊も進行する。いずれのポイントについても、もし、「SD」原理に忠実なら、「再生ペース」内での開発消費は鉄則であって、これは「成長至上主義」とも「無為放任主義」とも無縁のものである。「同世代内」での平準化への要求は、国内的にも国際的にも、高まりこそすれ下がることはない。「このまま放置すれば、22世紀をまたず、人類が滅亡する可能性は強い」(60)との予測が吉とでるか凶とでるかは、我々の対応次第である。無為無策で自滅自壊の道をたどるのか、或いは、賢慮と意思を発揮して危機的運命を克服するのか。「進むべき道は明らかであり、必要な手段も人間の能力の範囲内にある」(3)とされる一方、「欠けているのは、現実的かつ長期的な目標と、その目標を達成しようとする人間の意志である」(3)とも指摘される。「最終的な救済は、一刻も早く文明の転換をはかること以外にない」(9-@)

 3.隘路打開の可能性 

 これ迄に確認された諸ポイントの要点は、「内部化」をもって、論理整合的に充足されるはずの、「SD」原理は、外部経済の同定不能性と経済主体に内在する外部経済によって、即ち、「内部化」原理の十全な実現は「内部化」原理自体の不確定性によって不可能となることだった。この「SD」社会達成を不可能にしている原理こそ各経済主体が最大限に利用して利潤拡大を図り、生存競争に勝ち残ることによって資本主義経済に活力を付与し続けるものであった。市場経済が存続する限りこの呪縛を払拭できる経済主体はないが、それは各経済主体としては、各種生産性の向上を企てて熾烈な競争に生き残ること以外に生存の余地がないからであり、従って、各経済主体にとっての市場メカニズムは、時間と空間にも比せられる、先験的所与でしかないからであった。僅かに今世紀に入り、(決して本来の理念と方法で実施された訳ではなかったが)世界を東西に二分する「社会主義」の未曾有の実験が、この市場原理への例外的抵抗であったと理解できようが、この壮大な試みが呑み込まれてしまう程、市場原理は強大であった。市場原理が存続する限り「SD」確立の試みも同じ運命を辿るのであろう。市場原理が唯一の支配原理である限りとは、経済活動が全て個別経済主体のイニシアティブに委ねられている限りということに当るが、自由と競争の制限が市場の効率と利潤の極大化を損うことも、また、明白である。ところでこの市場原理は外部経済を許容し、経済行為自体に内在する外部経済の効果によって、社会的格差を拡大するのみでなく、資源枯渇と環境破壊を必然化した。即ち、市場経済に立脚した内部経済は、それとしては極めて効率的で利潤極大化の特質を有しながら、外部経済の結果、不可必然的に負のバランス・シートを結果していた訳である。もとより、市場経済を放置する限り枯渇と破壊は避けられないとすれば、やはり「SD」原理に悖るマイナス・シートは補正されねばならず、このための唯一の打開策は、効率的市場経済を維持したままで、「SD」原理に反してそこから発生するマイナス・シートに見合う損失を、「SD」原理に悖った(常に近似的でしかない)比率に応じて自動的に醵出埋め合わせを行うシステムを構築すること、このシステム構築は、強制によらず、自発的意思、合意、参画による人類大の自己変革の道となる。(不可能事ではあるが)「SD」原理に基づいた公正な市場がたとえ構築され得るとしても、そこに(自由と平等に基づく)「完全市場原理」が保たれなければ、市場メカニズムの効率性も自己調整機能も損われるであろう。「SD」原理に基づいた「完全均衡社会」の創出に代えて結果の平等を目指すことは日和見的ともとれようが、いわば「生産は市場原理に基づいて」、しかし「分配消費はSD原理に基づいて」ということを主張しているのであるから、全くの革命に相当し、人類大の普遍価値に見合うグローバル大の「合意」と「組織化」なしにはあり得ないこと、デーリーが指摘する道義的資源の覚醒と動員が不可欠である。確かに自主自発性に基づく「普遍的秩序」の構築は不可能事に近く、現状では望み薄としか言いようがないが、課題の重大さはいかなる試みの断念をも許すものではない。人類の滅亡のかかる重大な課題は、実現至難な課題であることを重々留意しなければならない――。
   「われわれは全世界が持続可能な社会への道を選択することを望んでやまない。……しかし同時に
  その選択の重大さと難しさを見くびるつもりはない。技術的、経済的には、持続可能な社会への移
  行は可能であるし、さほど難しいことでもないと信じている。だが、心理的、政治的には、人びと
  に二の足を踏ませるような選択であることも承知している。それは、あまりに多くの希望が、あま
  りに多くの人びとのアイデンティティが、そして、工業化された現代文化の多くが、果てしなく続
  物質的成長という前提の上に築かれているからだ。」                
                                               『限界を超えて』1992、H貢
   「現在の趨勢では、世界経済と国際関係の将来は暗い。……現在の趨勢は放置されるべきものでは
  なく、いわんや悪化させられるべきものではない。私たちは、諸国が、自己利益という理由によっ
  ても、世界をより平和で安定的なものとし、生存を確保するための共同の事業に参加できるものと
  信ずる。……世界は一つであり、われわれは互いに依存し合うこの世界のメンバーとして振舞うこと
  を始めなくてはならない。……丸テーブルを囲んで解決不可能な問題について話し合うというだけ
  では不十分なのである。私たちは、眼前の苦境を超越し、世界に対して希望を抱かせる計画と構想
  を提示しなければならない。」 
                        『南と北−生存のための戦略−』1980、64−65貢

  

  【註】

(1)   Sustainable は「持続的」とも訳されているが「可能性」については十分でない嫌いがある。Development は即物的な「発展」と人間主体の営為としての「開発」の双方に訳されているが、“開発主義”とは無関係の、後者の意味を尊重したい。「持続可能な開発」を訳語とするが、引用等の場合はこの限りではない。
(2)   植田和弘・落合仁司・北畠佳房・寺西俊一『環境経済学』有斐閣、1991、1
(3)   D.H.メドウズ・D.L.メドウズ・J.ラーンダズ・W.W.ベアランズ三世『成長の限界』ダイヤモンド社、1972。
(4)   (@)J.Tinbergen and R.Hueting,“GNP and Market Prices.”in R.Goodland,H.E.Daly and S.E.Serafy(ed.s), Environmentally Sustainable Economic Development,Working Paper No.46, 36-42, Washington, D.C., World Bank, 1991, in (A)P.Ekins,“‘Limits to Growth' and‘sustainable Development'.” 
Ecological Economics,8 (1993) 269-288. p.277; (B)K.E.Boulding「定常状態の影」、ボールディング・E.J.ミシャン他『ゼロ成長の社会』日本生産性本部、1974、77−100、77
(5)   二律背反とは「相互に反対・矛盾する二個の命題が同等の権利にて主張されること」『岩波哲学小事典』。「開発」と「環境」、「発展」と「持続」等、閉鎖システムにおける命題は常に背反的性格を帯びるのは当然であるが、本稿では「経済行為」自体、或いは、「SD」原理自体が自己に背反する機制を有していることについて検討する。
(6)   広松渉『事的世界観への前哨、物象化論の認識≈存在論的位相』勁草書房、1975他;西山俊彦「『もの』の諸相と価値基盤−社会学的立論への予備考察−(1)(2)(3)」『サピエンチア』第17、18、19号、1983、84、85、他。
(7)   M.オルソン「序・ゼロ成長社会の考察」、 4(B)、1-28、6
(8)   (@)ボールディング (4)-B、78-80;(A)加藤久和「持続可能な開発論の系譜」大来佐武郎監『地球環境と経済』
中央法規出版、1990、13-40、23-26;(B)J.C.J.M. van den Bergh and J.van der Straaten,
“The Significance of Sustainable Development for Iidem, Toward Sustainable Development:Concepts, Methods, and Policy. Island Press, 1994, 1-22, p.2.
(9)   (@)ジオカタストロフィ研究会『ジオカタストロフィ上・下』NHK出版、1992、41、42;(A)坂田俊文『人類大破局』徳間書店、1995;(B)W.R.Catton Jr., Overshoot. The Ecological Basis of Revolutionary Change. University of Illinois Press.1980.
(10)   (@)P.Ekins 4(A), p.280;“The Environmental Sustainability of Economic Processes : A Framework for
Analysis.”8(B)25-55、p.33;(
A)F.Hinterberger, “Biological, Cultural,and Economic Evolution and the Economy/ Ecology Relationship.”8(B)57-81, p.70.
(11)    (@)H.E.Daly“Toward a Stationaly-State Economy.”in J.Harte and R.Socolow(ed.s), The Patient Earth. Holt,Rinehart and Winston,1971;(A)idem,“Toward Some Operational Principles of Sustainable Development.” Ecological Economics, 2 (1990) 1-6.
(12)   素材資源と環境資源は同一物ではないが、本稿では、時として、双方を合せて資源または環境と記述する。
(13)     D.H.メドウズ・D.L.メドウズ・J.ランダース『限界を超えて』ダイヤモンド社、1992、56、268
(14)   「環境と開発に関する世界委員会」『地球の未来を守るために』(「ブルントラント報告」)福武書店、1987、73-91
(15)   加藤久和 8(A)、29貢、(14)、67、78-80
(16)   「平等」という観念理解が、他の観念理解同様、時代感覚、人権感覚にもとづいて発展することについては、西山俊彦「基本的人権と人間本性−理念史事実史への予備考察−」『サピエンチア』第21号、1987、1−26。価値基準による差異については
(17)   (14)、28、66
(18)   (14)、28
(19)   (13)、16

(20)

  西山俊彦「『持続的開発』原理の妥当性の抄察−『人間中心主義』に代る『万物平等主義』の可能性の一検討−」『英知大学キリスト教文化研究所紀要』第10巻第1号、1995、61−80参照。
(21)   M.オルソン・H.H.ランズバーグ・J.L.フィッシャー「エピローグ」、4(B)、239−264。
(22)   (14)、66
(23)   植田和弘「持続的発展論の課題と展望」(8)-A、41-60、56
(24)   西山俊彦「平和」(普遍妥当的秩序)定立課題と宗教集団」『サピエンチア』第27号、1993、437-459、(48)。
(25)   (2)、31-120。
(26)   A.マーシャル『経済学原理』東洋経済新報社、1965-67;A.C.ピグー『厚生経済学』東洋経済新法社、1953-55;
R.F.Kahn, “Some Notes on Ideal Output.” Economic Journal, March, 1935;熊谷尚夫『厚生経済学』創文社、1978、174-230
(27)   少しく敷衍すれば「内部性−外部性の区別は枠組み基準の取方にかかり、それらは単位レベルでは『特定企業』「特定産業」「社会全体」と大別され、発生のメカニズムとしては内部要因の「相乗(殺)効果」と外部要因の「取込(排除)効果」が、又、その効果が経済主体と第三者に意識されているか否かに応じて「顕在的効果」と「潜在的効果」に区分されよう。市場取引の枠外に機能している効果とは希少性が認められていないか、公共財のように対価負担の対象となっていない資源の他に、投入−産出過程に(予期された通り)発生する相乗(殺)効果も、原理的に当然その一環である。発生過程は(1)当該企業の費用逓減(増)原理によるもの、(2)当該産業としての相乗(殺)作用によるもの、(3)“社会”全体としての相乗(殺)作用によるもの、に大別されよう。(1)は分業特化と規模の原理に等しく、(2)(3)は(1)を拡大敷衍した成長原理であって、これが経済的営為に内生的、内在的な原理であることを自覚するのが肝要であろう。もとより諸資源の帰属関係は、「専有」−「放置」、「有責」−「免責」、と一義的ではなく、人種、性別、階級、世代、国家、社会、 ……の勢力関係の恣意性に委ねられてきた。ここに搾取と収奪を許容し、資源(含領土)、環境、開発、公害等々、焦眉の課題を放置する因縁がある。」西山俊彦「外部経済の恣意的規定」「DDIV(第四次国際連合開発旬年)への認識論的前提条件」『経済社会学会年報』XV号、1991、97−107、103−104
(28)   外部効果は、当該主体にとっての「順」効果を取込み「逆」効果を放置するものが中心であり、以後これらを合せて「外部効果」と表現するが、本当は、「順」効果を放置し「逆」効果を取込む「外部不経済」もない訳ではない。
(29)   「資源の減少や環境問題の多くは、経済的、政治的な力の差から生ずる。……それによって最も影響を受ける人々は貧しさのため、苦情を申し立てることができないからである。……」(14)、70
(30)   森田恒幸・川島康子「『持続可能な発展論』の現状と課題」『三田学会雑誌』85巻4号、1993、4-33。
(31)   (10)-@、34-39;F.ハーシュ『成長の社会的限界』日本経済新報社、1980、16-17
(32)   「1750年のイギリスの炭鉱夫が、現在のトヨタの生産ラインを想像できなかったように、持続可能性革命以後の世界の姿を語れる者はいない。」(13)、285
(33)   (2)、44-47
(34)   (14)、67、20、28
(35)   (3)、158;(13)、268
(36)   (4)-B、79;E.J.Mishan, The Economic Growth Debate, an assessment, George Allen & Unwin, 1977,
257-267.
(37)   林雄二郎「序・ゼロ成長社会論によせる一つの試論」(4)-B、265-276。
(38)   (7)、16
(39)   (@)デーリー、(3)、164参照;(U)W.R.ジョンソン「貧困者とゼロ成長」(4)-B 185-237、186
オルソン (7)、16;(9)-@、46;(9)-A、83
(40) H.ブルックス「ゼロ成長のテクノロジー」(4)-B 135-161、154、144-145
(41) (9)-A、59-60
(42) (39)-A、187
(43) 松原望・森田恒幸「南北間・世代間の利害調整問題」(8)-A、75-84、80-81
(44) 西山俊彦「文明論としての都市社会学の視角」『現代都市を解読する』ミネルヴァ書房、1992、16-40。
(45) 西山俊彦『宗教的パーソナリティの心理学的研究』大明堂、35-45、260-263
(46)   L.ウィトゲンシュタイン「論理哲学論考」『ウィトゲンシュタイン全集』T、大修館書店、1975、1-1。
(47)   西山俊彦「理念としての平和−平和学パラダイムの事例的検討−」『サピエンチア』第24号、1990、325−346。
(48)   西山俊彦「平和学の創造−抄約−」『平和研究』第12号、1987、151−164;「科学的社会学定立への基本用件−現代『社会の危機』と『社会学の危機』超克への一提題−」『ソシオロジー』第35巻第1号、1990、71−89。
(49)   島津康男「自然と人間の均衡」宝月欣二他編『環境の科学』日本放送協会、1972、361−394、384−385
(50)   唯是康彦・田村眞八郎『食糧危機』ダイヤモンド社、1974、32−34
(51)   (3)、169
(52)   (9)-A、103
(53)   (@)W.Beckerman, “Economic Growth and the Environment;Whose Growth? Whose Environment ?”
World Development, 20(4), 1992,
481-496;(A)E.J.ミンシャン「病気・悪・不快−成長の代償−」(4)-B、
29-76、37;(13)、207-243。
(54)   市場メカニズムが枯渇した資源と破壊された環境を、特に過去に遡って、回復させるものではないことは二律背反の明示するところである。
(55)   (14)、35
(56)   (14)、37、255
(57)   (13)、154、245-278貢。;(9)-@、9-11、26、44、48貢;(9)-A、80-88、104他。
(58)   西山俊彦「DDV(第三次国際連合開発旬年)と社会科学の課題」『経済社会学会年報』]I号、1989、266-273他。
(59)   (9)-@、18
(60) (9)-@、41

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