「平和」
−それは交わりの果実−
   
          西山俊彦
                

 

 
 やるせない念に駆られます。エウクリッド駅の階段でガムを数粒売っていたうつろな少年を想います。蠅とけだるさでいっぱいのモガディシオの病院に浮腫んだ幼児と目だけがまだ生きている性別不明の“骸骨”、大人に怯えるシュシュ・ババンの子供達、バラナシで、マニラで、猛暑の大道に倒れていた少年達…現場を見過ごして帰国して三年、原稿用紙に無能を託つ我が身の悶々……。なぜ幼児達がこんなにもムゴイ仕打ちを受けなければならないのでしょう。天国の報酬のためと言われれば、そんなものは要らないと言いたくなります。なぜこれ程までの冒瀆が許されるのでしょう。私には責任がない、
政治家のせいだ、歴史のなせる業だ、と言ってみても心安らぐ思いにはなりません。 「平和は正義の果実」と言われます。しかし、どうすれば正義の実は実るのでしょう。―あの無辜の幼児達に―。

 世銀『開発報告1988』を開けてみた。色鮮やかな地図、第1世界はグリーン、第3世界はオレンジ、第4世界はイエロー。驚いた―これでは植民地時代のままではないかと。
 グリーンは先進“キリスト教諸国”―たとえお涙ほどしか援助の手を差し伸べてはいなくても(J・ティンバーゲン)―.  
 第3次「国連開発旬年」が終ろうとしている。不思議なこと、その間に却って絶対的貧困が増大したとは。子供達がなぜ文字を学び、お腹一杯食べられないのだろう。なぜ一家に夜露を凌ぐ片隅が与えられないのだろう。お金がないのならなぜ稼ぐ機会が与えられないのだろう。当人の責任に帰せられない社会的悪を構造的暴力と言う。その無責任の陰に10億に近い兄弟が疎外され、命を落とす。人がナイフで殺されようが無関心で餓死させられようが道徳的には全く同じ、とW・ブラントは言い切った。構造的悪の体制を矯め直さねば、平和も救いも絵空事―しかしパウロ六世が強調された体制変革の必要性は未だ充分認識されていない(ヨハネ・パウロ二世『真の開発とは』1988年2月19日公表、36-37、46)。
 忘れないでおこう―祭司とファリザイ人が咎められたのは誰かを傷つけたからではなかった。無関心を装い、かかわりを拒んだからだ。
 

 公会議は言った―貧しい人の苦しみはキリスト者の苦しみ、彼らの喜びは我らの喜び、皆が幸せになれなければ私達の幸                                            

せはない、と。「貧しき者のための選択
(プレフェレンシャル・オプション・フォー・ザ・ファー)」(同42、39)、これはただ苦楽を共
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にすることだけを意味しない。これ以上犠牲者が出ないように構造を変革し、そのための責任を担うこと、己が醜さを知っ

ている人間がこれを公言できるとはゾッとする。やはり恩寵の業か。いや口先だけだから言えるのだ、とあらぬことを想え
                                                       しくみの
ば、なおさらゾッとする。いつ本気で構造的変革に取り組むのか―公会議が終ってはや4半世紀―。 


 殺生なしには生きていけない。罪の子に己の如く愛する道はあるのだろうか。兄弟を兄弟とも思わぬ事実で地球は満杯。無原罪であられたのは救い主の母聖マリア唯一人。とは言え人の子の今一つの顔は神の子、恵みの子。父なる神を認めることは互いに兄弟として生きること、神からの恵みに例外なく充たされるのを喜ぶ心こそ神の子の心。ただし、豊饒と喧騒の谷間には父なる神の御姿も、神の子の顔も、余りにも霞んでみえる。
  
 善意のない人はいないと思う。兄弟の幸せを願わない人もいないだろう。なのにどうして人格の尊厳を拒絶する状態が続くのだろう。構造的不条理は当人が耐え忍ぶしか仕方がないのだろうか。冷戦構造は、部落差別は、誰の力、みんなの善意をもってしても改革できないのだろうか。大人には解決不能と映る難問も幼子はその答えを知っている―みんなが対立を解き差別を取り除けば、戦争は止み冒瀆もなくなる、と。実現は不可能に近いが、原理はかんたん、洪水がどのように矯め治されるかを知っているではないか。無心に、そして 賢明に、日々植林を怠らず、確かな図面にしたがって一つ二つと土嚢を積み上げていけば、いかなる濁流もやがて恵みの大河となり、新しい地平を拓く因となる。地球を包む大きな環も、一つ一つ小さな手を結ぶところから始まるのだ。山をも動かすのが本当の信仰、体制を変革するまでしっかりと手をつなぐのが本当の善意。コシテイの砂漠に一人働く宣教師がこう書き留めていた―“Good intention is not enough. But there is the place to start with. 善意だけではどうにもならない。しかし、そこにこそすべては始まる”と。本当の善意は賢く、忍耐強く、手をつなぐことを知っている。「平和は正義の果実」と公会議は宣言した。ヨハネ・パウロ二世はこれに「平和は連帯の果実」(同39)と付け加えられた。

 恵みに生きる者は手をとりあう―大きなうねりを創り出し、構造改革をもたらすまで―。人間的には出口が見えなくても、決して絶望に身を委ねない。信仰の恵みを受けた者は「交わり
(コムニオ) 」に生きる。「主イエスの生命に生きる交わり」こそ信仰者の証し、教会の印、とは先日教皇が力説されたこと(同40。クリスティ・フィデーリス・ライチ、1998年12月30日公布)あの世の報酬のためでもなく、この世の地位財産のためでもなく、現代に力あるトータルな福音は、十字架と復活の事実によって確約されたもの、この招きを受けた信仰者が主イエスの神秘の体に生かされなければ、自己矛盾であろう。「平和とは主の十字架への参与の果実」。

 人間は罪の子であると同時に光の子、時代の子であると同時に永遠の生命に与かる恩寵の子、構造的罪だからと無能を託つことは信仰を捨てると同然。神の子には、知恵も、理性も、情熱も、連帯への恵みも十分に与えられているはず、神を信じ、神の子を信じて、聖霊の息吹に委ねれば、主の復活の無上の事実は着実に顕かになるに違いない。「平和とは主の復活への交わりの果実」。

        コムニオ
 平和―それは交わりの果実―。あのエウクリッドの少年にも、かのシュシュ・ババンの幼児達にも、あらゆる兄弟に確固

とした福音が告げられねばならない。
           『声』1989年 6月号 48-51頁。
 

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