きっと聖なるお姿に魅せられたからだと思います ― 曲がりなりにも今日の私があるのは ―
。
後知恵でそう了解しているのかも知れませんが、
確かにJ・ジュピア神父様は人生の岐路に決定的役割を果たして下さいました。
先ず洗礼、家族揃って再洗礼(誕生直後にプロテスタントで受洗)の恵みを受けたのは1947年4月のこと、神父さんには香里教会で初めての復活祭の直前でした。
次いで大阪公教小神学校への入学、それは新制中学3年生直前の1949年3月のこと、私が召命への志を抱くようになったのは、神父さんの無言のお導きがあったからと思えてなりません。なぜ、吉川厳神父さんの叙階式(1947年6月1日於小林聖心)に私一人だけ連れて行って下さったのか、不思議でなりませんが、もっと不思議なのは、お腹を空かしてバッタリ横たわっている時(終戦直後の物資欠乏に加えて我が家は子供4人の母子家庭でした)、それを見透かしておられたかのように、スープの香り滴る洋鍋の柄を持って現われ、飢えを癒して下さったことです。勿論私たちが癒された分だけ、神父さんは空腹を忍ばれたことは言う迄もありません。私から押しかけたことも2度や3度ではありません。きまって笑顔で食堂に案内し、地下貯蔵庫のサツマイモを好きなだけ持って帰るように促して下さいました。背に腹は替えられなかったとはいえ、大層申し訳ないことをしていた訳ですが、そんな訳で旧司祭館の地下貯蔵庫を一番知っていたのはこの私ではなかったかと思います。
小神学校入学時に無言で渡して下さったのが蒲団上下と丸い大きな黒カバン、がっしりした皮製でとても日本製とは思えないところから、1923年11月、神戸の土を踏まれた時にフランスから持って来られたものと見受けます。(このカバンは神父さんが亡くなられた年、浜寺教会に宮本勝美神父さんがお作りになった「キリスト教資料館−エマオ−」へ、スータン、靴修理の鉄床等と一緒に納めていただきました)
小神学校入学については後日談があります−1986年6月頃だったかと思います。ガラシア病院に御入院だった神父さんを見舞い、丸い大きなカバンの由来を尋ねましたが、これについては一言も触れず、代わりに、私の小神学校入学に動いて下さったのは当時香里の助任だった山口正神父さんだったことを明言され、そして「私には反対する理由がなかった」と茶目っ気たっぷりに付け加えられました。私の神父さんを慕う気持ちを柔げようとなさったのか、或いは、間違った思い入れは、たとえ小さな思い入れでも正しておかねばとの義務感からか、とにかく、その時温かいものを感じたのを憶えています。
巡り巡って半世紀近く経った1992年12月21日のこと、姫路は仁豊野のマリア・ヴィラに神父さんを見舞いました。2階112号室の神父さんはまずまずの御様子で安堵しましたが、小1時間で日はトップリと暮れてしまいました。婦長だった堀田康子シスター方の御好意に甘えて、2人で夕食を戴くことになりました。車椅子を押して行った先きは東側の明るく美しいゲストルーム、お皿の数が多かったことを記憶していますから、ほぼフルコースのクリスマス・ディナーだったと思います。晴れやかな雰囲気も手伝って「お写真を撮っても構いませんか」と切り出したところ「どうぞどうぞ」と。これ迄カメラを持って近づくと、きまってアッチを向いて仕舞われたのに「もういいんですか」と念を押される始末、いよいよ最後の時も近いのかとの思いが頭をよぎりましたが、神父さんには私の不謹慎などとうの昔にお見通しのこと、持参したボルドー・ワインを開けるように促されたのも私不謹慎をお察しだったからではなかったかと思います。 |
|
帰路の夜空がどうだったのか、温かい気持ちを胸に次の訪問先、浜崎伝神父さんの灘教会へと急ぎましたが、本当にこれが“最後の晩餐”となりました。(当ページ掲載写真はこの時のものです)
それから約5ヶ月が経過し、いよいよ「その時」が近づきました。今度は聖マリア病院本館520号室、ミッション会の神父さん方に混じって若手神父も付き添うことになり、私も加えて貰いました。
5月6日(木)は夕方7時頃に到着、管区長ロランド神父様が看病しておられました。暫くすると「(人は)病気になることが許されている」とか、「胸が悪い」「自由にして下さい」など、断片的な言葉を口にされましたが私には解りませんでした。
ところが夜中の1時半になって、突然ニコニコ顔で「私に堅信を授けて下さったのはブールジュの大司教だった。神父にしていただいてより半日たりともそれを悔いたことはない
― それは神と隣人への奉仕だから ― 。多くの先人がこれを証しし、私も彼らの轍に従って証ししました。多くの人々が同じ使命に招かれています ―
全力で証しする使命に―。このことを多くの兄弟に告げて下さい」とキッパリとフランス語で言われました。まさに宣教師の面目躍如、これは遺言ではなかったろうかと思います。
病床ではフランス語の童謡、ラテン語の聖歌などをミッション会の神父さん方から聴かせて貰って喜んでおられたこと、5月12日(水)には突然病状を持直し、病室で司祭叙階70周年を祝われたことなどは別稿に登場しますが、5月19日(水)に最後にお付きした時に「今やこの世を去る時が来ました。私は良き戦を戦い、走るべき道を走りました。……」(Uテモテ4・6〜8)を私がラテン語で唱えると、この上ない面持ちでニッコリと微笑んで下さいました。私にとってこの笑顔がこの世での最後で最良のものとなりました。
今私の手元には2つのスータンが残されています ―
1つはジュピア神父さんのものと、もう1つは代父だった大園義興神父さんのもの、前者には木製のボタンが24個あり、上下2枚の布を縫い合せた特製で、きっと大祝日にだけ使って来られたもの、宣教70年の年輪を刻んでいるに違いないこのスータンは今一つの無言の証しです。とにかくジュピア神父さんが
私に残された言葉はごく僅か、受洗以降46年、叙階以降32年、奈落の淵に沈んでいたような時にも、ルンルンに近く上擦っていたような時にも一言もありませんでしたが、本当は無言で導いて下さっていたのだと思います。
貧しき者への共感については「貧しく生まれ、貧しく生きた者」だけの特権だったのではと思いますが、それ以上に、自ら貧しくなられた主イエス・キリストを身に以って宣べ伝えるものの本姿ではなかったかと思います。
頭上に輝く星は遠くて近いもの、最早一言も黙して語らぬ境地に立たれた現時点にこそ、無言の宣教師はスグソコに語っておられるように思えてなりません。
無言の宣教師
−貧しく生まれ貧しく生きたJ・ジュピア神父− より |