Fr. Peter Toshihiko Nishiyama

    

十二、三個のみかん箱


     福田豊神父様が、姫路のマリア病院から移ってこられたのが1991年7月29日、
   御帰天が1992年12月26日ですから、ほぼ1年5ヶ月を共にさせていただきました。

 御不自由な手足に時として不自由な口は、周囲の人々にも大変だったことでしょうが、一番大変だったのは神父様御自身ではなかったかと思います。元気な 時には意欲も出ますし困難に挑むこともできますが、一旦“老化現象”に見舞われますと何事も億劫になりがち。でも寝てばかりではダメになりますから、車椅子に“放置”しておきますと、これまた大変な苦痛。そんな日々を潤いあるものとして下さったのが、毎週きまって好物を手に見舞って下さる姪御さんのKさん夫妻、ヨゼフ会のシスターH、遠くは北海道から近くは地元の同信同僚の皆さん、月に一度は大きな書体の励ましのお手紙が、あるシスターから届いていたとは後で知ったことでした。
 
 なかでもトビキリ大きな喜びは、千里NT教会に招かれごミサを共にできたこと。いくら年をとっても、いや年をとったればこそ、神父として祭壇を囲める以上の喜びはなかったことと思います。そのような訳で、教会から帰った翌日は必ず「もう教会へ帰る」と言い出され周囲を困惑させられましたが、これも神父としての情熱のなせる業だったに違いありません。
 
 とすれば、神父様にはかなりボケが進行していたのかと訝りの向きもおありかと思いますが、さに非ず、何もかもを弁えておられ、ただこちらが脈略仔細に疎いだけでした。例えば 1昨年の10月のある日、「シスターSに電報を、電報を……」とせかされました。訝りつつも姫路にお電話し、シスターSはマリア病院で懇にして下さり、今度初誓願の佳き日を迎えられることを知りました。このように病気の中にもこまやかな感謝の念を忘れておられなかったのが神父様でした。神父としては生涯神と人々に奉仕したいと希いつつも、年をとればやはり人の子、実際は多くの善意の人々の支えの中にあることを知るようになるのだと思います。
 
クリスマス、御帰天の前日のお昼過ぎ、514号室にお訪ねした私に「神父さん、お忙しい処を長い間ありがとうございました」とハッキリ2度も繰り返されました。「なぜ」との思いで退出したのでしたが、この言葉は決して私一人に言おうとされたものでなかったことは確実です。

 3月11日のこと、司教館での用事も済んで、とある書籍を福田神父様の所持品の中に探させてもらいました。夕方までにできるだろうかと案じていたのですが、あっという間に終わってビックリ。79年の御生涯の後に残された一切合財が「十二、三個のみかん箱」だったのですから。ただし、目に僅かなものであればあるだけ、心に残された爽快さは絶大です。
 
 もうすぐ花の季節、華麗な装いは今年も耳目を魅了するに違いありませんが色香を越えた永遠なるものの真髄はその比ではありません。 

                           風雪 福田豊神父思い出集 より     


 


            アントニオ・山口正神父様
          
             ジットこちらを見つめておられるだけ―、
              
          それでいて得も云えない温かみを与えてくださる
            アントニオ山口正神父様の面影が目に浮かぶ。

          フト気がついた眼ざしの幾つかを記させていただく

 山口神父様が初めて姿を現わしてくださったのは叙任として香里に来られた昭和21・22年のこと、私がまだカトリックの洗礼を受ける前のことだった。貧しい我が家を訪れ、御自身で作ってくださったあのコンビーフを一杯入れた芋粥の味、M助祭と一緒に来られイガグリ頭を刈ってくださった時のことなど、 今だに忘れられるものではない。あの頃から既に心してくださっていたのだと、今にして思う。
 
 昭和30年7月、ローマに旅立つに当って、神戸少年の町に神父様を訪ねた。帰りぎわ、しばらく奥に行っておられた神父様は、白い封筒をポイと渡された。胸さわぎを覚えた。塩屋へ下る道すがらソット覗いてみると、何と、千円札が10枚入っていた(ちなみに、当時の司祭の給与は月額 4千円位だったと思う。)下って後帰天の2日前、海星病院に最後のお見舞いをした時も、「神父さん、お金ありますか」と訊ねてくださった。15年の隔たりをもつこの2つの事実は、今だにダブッテ映る。
 
 桜宮教会へ招いてくださったのは、須磨の聖ヨハネ病院に御入院の少し前、昭和44年5月の初めであった。ブラブラしていた私にとっては、“有難い”ことであると同時に、ささやかな“ご恩返し”の気持ちもなくはなかった。小さな教会、歓楽街に埋もれた教会、15か月ばかり出入りしていると、時折、こんな教会なくなってもと思うことすらあった。しかし美しい教会 、山口神父様の気心のしみこんだ教会だった。庭の草木は我が子のように手入れされていた。勤労者聖ヨゼフの木彫も祭服器具も、みな最高の品が準備されていた。信者の一人々々をよく理解し、よく配慮しておられた。彼らが神父様を慕うことも又格別だった。ある時神父様はフト洩らされた。「彼等は週6日働いているのです。だから日曜ぐらい早く帰してやりなさい 」と。意外と思うと同時に温かいものを底まで感じた。御療養中、見舞いはいらないと云っておられたのも同趣旨だったのだろう。1年が過ぎ、やはり出掛けようということになった。御帰天の丁度一月前のことだった。日曜9時のごミサを一緒に捧げ、お昼過ぎ、聖ヨハネ病院に勢揃いした。先づ私が御容態を伺った。ベッドに横たわっておられる神父様は顔色冴えず、誠にお苦しそうだった。……しかし、弱音を見せる神父様ではなかった。慕い来る信者にソッポを向けられる神父様でもなかった。……お会いできなければせめて同じ屋根の下で食事だけでもと応接間にたむろしていた信者の前に、スータンに着替えて出てこられた神父様は、まさにいつものお姿そのままだった。丹羽さんの赤ん坊 、(新井)弘君、(山本)征人君、(畑原)智彦、征二君達、ちびっこ達は、一人ずつ抱いてもらったりもした。彼等の家族に工藤、築さん、武内、吉田さんも一緒だった。短いひと時をどう過ごしたかはもはやさだかではない。ただ、久方振りに親爺に会えた生気と喜びがその場を支配していたことだけは確かなことである。
    
 山口神父様の眼ざしは静かに微笑を含むものだった。喋るでもなく笑うでもなく、それでいて絶対忘れられないあの面影は何に由来していたのだろうか。浦上キリシタンの血のなせるわざなのか。そうかも知れない。しかしそれにもまして、日々主の御前にぬかづき、恵みに生かされることを知っている人が捧げ続けた祈りの賜物ではなかったかと思う。逝かれて既に14年、神父様にきくすべはない。しかし、絶えず祈り、今もジット見つめ続けてくださるあの温顔は、時の経過とともにますますリアルになってくる。

         ― 御摂理の計りがたさをしみじみと想う。―

                     
桜宮カトリック教会「25年のあゆみ」 より


 

 

    
       きっと聖なるお姿に魅せられたからだと思います ― 曲がりなりにも今日の私があるのは ― 。
                       
                         後知恵でそう了解しているのかも知れませんが、
           確かにJ・ジュピア神父様は人生の岐路に決定的役割を果たして下さいました。
 

 先ず洗礼、家族揃って再洗礼(誕生直後にプロテスタントで受洗)の恵みを受けたのは1947年4月のこと、神父さんには香里教会で初めての復活祭の直前でした。
 次いで大阪公教小神学校への入学、それは新制中学3年生直前の1949年3月のこと、私が召命への志を抱くようになったのは、神父さんの無言のお導きがあったからと思えてなりません。なぜ、吉川厳神父さんの叙階式(1947年6月1日於小林聖心)に私一人だけ連れて行って下さったのか、不思議でなりませんが、もっと不思議なのは、お腹を空かしてバッタリ横たわっている時(終戦直後の物資欠乏に加えて我が家は子供4人の母子家庭でした)、それを見透かしておられたかのように、スープの香り滴る洋鍋の柄を持って現われ、飢えを癒して下さったことです。勿論私たちが癒された分だけ、神父さんは空腹を忍ばれたことは言う迄もありません。私から押しかけたことも2度や3度ではありません。きまって笑顔で食堂に案内し、地下貯蔵庫のサツマイモを好きなだけ持って帰るように促して下さいました。背に腹は替えられなかったとはいえ、大層申し訳ないことをしていた訳ですが、そんな訳で旧司祭館の地下貯蔵庫を一番知っていたのはこの私ではなかったかと思います。

 
 小神学校入学時に無言で渡して下さったのが蒲団上下と丸い大きな黒カバン、がっしりした皮製でとても日本製とは思えないところから、1923年11月、神戸の土を踏まれた時にフランスから持って来られたものと見受けます。(このカバンは神父さんが亡くなられた年、浜寺教会に宮本勝美神父さんがお作りになった「キリスト教資料館−エマオ−」へ、スータン、靴修理の鉄床等と一緒に納めていただきました)
 小神学校入学については後日談があります−1986年6月頃だったかと思います。ガラシア病院に御入院だった神父さんを見舞い、丸い大きなカバンの由来を尋ねましたが、これについては一言も触れず、代わりに、私の小神学校入学に動いて下さったのは当時香里の助任だった山口正神父さんだったことを明言され、そして「私には反対する理由がなかった」と茶目っ気たっぷりに付け加えられました。私の神父さんを慕う気持ちを柔げようとなさったのか、或いは、間違った思い入れは、たとえ小さな思い入れでも正しておかねばとの義務感からか、とにかく、その時温かいものを感じたのを憶えています。
 

  巡り巡って半世紀近く経った1992年12月21日のこと、姫路は仁豊野のマリア・ヴィラに神父さんを見舞いました。2階112号室の神父さんはまずまずの御様子で安堵しましたが、小1時間で日はトップリと暮れてしまいました。婦長だった堀田康子シスター方の御好意に甘えて、2人で夕食を戴くことになりました。車椅子を押して行った先きは東側の明るく美しいゲストルーム、お皿の数が多かったことを記憶していますから、ほぼフルコースのクリスマス・ディナーだったと思います。晴れやかな雰囲気も手伝って「お写真を撮っても構いませんか」と切り出したところ「どうぞどうぞ」と。これ迄カメラを持って近づくと、きまってアッチを向いて仕舞われたのに「もういいんですか」と念を押される始末、いよいよ最後の時も近いのかとの思いが頭をよぎりましたが、神父さんには私の不謹慎などとうの昔にお見通しのこと、持参したボルドー・ワインを開けるように促されたのも私不謹慎をお察しだったからではなかったかと思います。

 帰路の夜空がどうだったのか、温かい気持ちを胸に次の訪問先、浜崎伝神父さんの灘教会へと急ぎましたが、本当にこれが“最後の晩餐”となりました。(当ページ掲載写真はこの時のものです)

 それから約5ヶ月が経過し、いよいよ「その時」が近づきました。今度は聖マリア病院本館520号室、ミッション会の神父さん方に混じって若手神父も付き添うことになり、私も加えて貰いました。
 5月6日(木)は夕方7時頃に到着、管区長ロランド神父様が看病しておられました。暫くすると「(人は)病気になることが許されている」とか、「胸が悪い」「自由にして下さい」など、断片的な言葉を口にされましたが私には解りませんでした。
 ところが夜中の1時半になって、突然ニコニコ顔で「私に堅信を授けて下さったのはブールジュの大司教だった。神父にしていただいてより半日たりともそれを悔いたことはない ― それは神と隣人への奉仕だから ― 。多くの先人がこれを証しし、私も彼らの轍に従って証ししました。多くの人々が同じ使命に招かれています ― 全力で証しする使命に―。このことを多くの兄弟に告げて下さい」とキッパリとフランス語で言われました。まさに宣教師の面目躍如、これは遺言ではなかったろうかと思います。
 病床ではフランス語の童謡、ラテン語の聖歌などをミッション会の神父さん方から聴かせて貰って喜んでおられたこと、5月12日(水)には突然病状を持直し、病室で司祭叙階70周年を祝われたことなどは別稿に登場しますが、5月19日(水)に最後にお付きした時に「今やこの世を去る時が来ました。私は良き戦を戦い、走るべき道を走りました。……」(Uテモテ4・6〜8)を私がラテン語で唱えると、この上ない面持ちでニッコリと微笑んで下さいました。私にとってこの笑顔がこの世での最後で最良のものとなりました。

 今私の手元には2つのスータンが残されています ― 1つはジュピア神父さんのものと、もう1つは代父だった大園義興神父さんのもの、前者には木製のボタンが24個あり、上下2枚の布を縫い合せた特製で、きっと大祝日にだけ使って来られたもの、宣教70年の年輪を刻んでいるに違いないこのスータンは今一つの無言の証しです。とにかくジュピア神父さんが 私に残された言葉はごく僅か、受洗以降46年、叙階以降32年、奈落の淵に沈んでいたような時にも、ルンルンに近く上擦っていたような時にも一言もありませんでしたが、本当は無言で導いて下さっていたのだと思います。
 貧しき者への共感については「貧しく生まれ、貧しく生きた者」だけの特権だったのではと思いますが、それ以上に、自ら貧しくなられた主イエス・キリストを身に以って宣べ伝えるものの本姿ではなかったかと思います。
 頭上に輝く星は遠くて近いもの、最早一言も黙して語らぬ境地に立たれた現時点にこそ、無言の宣教師はスグソコに語っておられるように思えてなりません。
 
             無言の宣教師  −貧しく生まれ貧しく生きたJ・ジュピア神父− より

TOP

INDEX