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―「正戦論」からの脱却を期待して― |
英知大学『サピエンチア』第29号、1995年2月、603-624頁。 |
西
山 俊 彦 |
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It has been said, even in this war-torn society of mankind there are two
beacons enlightening true peace ; the Constitution of Japan
and the Good News of Christ Jesus. This brief analysis purports to
exmine such con- tention in the light of establishment of a huge Defence
Forces in Japan and the conscience-seducing Just-War -Theory in the
Church. The followings are the main features clarified :
[T] The Constitution of Japan is
characterized as “Peace Constitution” due to
Renunciation of War. Ab- negation of War Potential and Belligerency is
unmistakably declared by article 9. The article, literally understood
initially, with the heightening of the Cold War
Confrontation, has become a promoting factor for re-armament up to such
a point presently to possess, under the same article, the third
largest-budget-consuming forces in the world. The Conservative
Trend, insisting Japan to become an “average-nation-state”
would employ the“Peace Constitution” to rationalize for sending
abroad the Defence Forces for P. K. O., and P. K. F., while there is
another Trend insisting to be faithful to the Constitution by peacefully
eradicating the structural injus- tice as a cause of war. Fidelity
either to the Constitution or to real
Power-Politics has not to be left to arbit- rary choice.
[U] The pacifism, defined as an exclusively
non-violent approach both in goal and in means, seems to be in
conformity to “The Gospel of Peace” annouced by “The Prince of
Peace”. The Vatican Council Udenounces war as a crime against God
and man himself (GS80), creating on the other side, the exception
of not denying the right of legitimate defense to governments on
condition that 〈1〉 “the danger of war remains” and
〈2〉“there is no competent and sufficiently powerful authority at
the international level”. (GS79) Since the co- ndition is not de facto
an exception, but a day-to-day world situation, war for the sake of the
justice encroach- ed could be lustified at any time and in any place.
Furthermore the criteria required for just-war can never be satisfied at
this time of nuclear destruction.
[V] Church as Church has noting to say as for the
justification of belligerency, not because the just-war-
criteria cannot be satisfied nowaday, but because the Proper and Primary
competency of the Church is in re-
gard to the “City of God” and not the “earthly
city” of which competency the civil authorities maintain. The Church
as Church should persuade peace and the peace only, and even in her
involvement in the earthly affa- irs, requested by subsidiarity
principle, it should always be in conformity with the “Gospel of
Peace”.
A nation-state devoid of “peace constitution”. remains
still a nation-state, while the Church, devoid of
“The Gospel of Peace”, remains no longer the Church.
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半世紀におよぶ冷戦の呪縛から人類はようやく解放された。対立してきた一陣営が瓦解したことが何らパワー・ポリテックスの変化を意味しないのではあろうが、少くとも瞬時に奈落の底を現出する核戦争の危機は遠のいた。これで我が国も平和の大道を歩み始めるものとの期待とは裏腹に、平和憲法は「風前の灯にも似た状態(1)」に置かれている。殊に憲法第九条は「“現実を無視した”、“非常識な”、“空想的観念論”であり、実行不可能な“夢物語”だと嘲笑され(2)」、「日本の国際貢献を妨げ、日本の孤立を招く、一国平和主義(3)」と非難の的となっている。世界の安定平和のために平和憲法が時代錯誤とは不思議なことではあるが、制定以来、偽瞞と歪曲を重ねに重ねた当然の結果とも言える。一方、「平和の君」の創設にかかり、「愛と平和の福音」を自称するキリスト教カトリック(4)の平和主義はどのようなものか。教皇パウロ六世の回勅『地上の平和
Pacem in terris −PT−』(1963)以降、カトリック教会は「正戦論」を放棄したと言われて久しいが、本当だろうか。これ迄のいかなる戦争も「平和を求めて」「平和の名の下に」戦われてきたのであれば、その目的が“平和”であるだけでなく、それを達成する手段においても平和的でなければ、即ち、目的と手段が共に平和的であるという「平和主義
Pacifism」でなければ、平和とは正反対の論理と事実を結果する。自己の正義が疎んじられた場合、それを回復するための正義の戦争であるとされる「防衛戦争
Defensive War」「正戦 Just War」は、自由市場という名の権力構造が続くかぎり、常に正当化の理由とは不可分であって、それを脱却する可能性は生れない。「平和の福音」を説くとするカトリック教会が採り得るのは平和主義以外にあり得ない筈であるが、最々近の『カトリック教会のカテキズム−CCC−(5)』にも「正戦論」は登場する。「地上の国」にも「神の国」にも平和主義は通用しないのだろうか。この課題を考察するために本稿は2つの前提を想定する。一つは「神の国」と「地上の国(6)」への方法論的2分割であって、「神の国の完成(平和)」を意図する「教会」と「地上の国の完成(平和)」を意図する「国家社会」とは、その「固有の、第一義的目的
Proper and Primary Purpose
」が異なっている、とみなすことである。今一つの前提は、いかなる事実、即ち、大別して観(理)念、事物、対象も、視点観点の取り方一つで、いかようにも規定され得ること(7)、これによって、平和憲法の下で「平和のために戦う」論理が展開され得るだけなく、紛争当事者の各々にとって「正義の戦い」となる可能性があることである。以下第[T]章では、日本国憲法が視点観点の取り方次第でいかようにも「解釈改憲」の空洞化を辿り得ることを確認し、第[U]章では、カトリック教会が説いてきた正戦論がその教義と現代戦の様態から受容可能なものであるかどうかを吟味し、第[V]章では、それらが第一義的目的に照して何を意味するかを略述したい。 |
【注】 |
(1) |
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小林直樹『憲法第9条』岩波書店、1982、p.21。 |
(2) |
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小林直樹『前掲書』p.14。 |
(3) |
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杉原泰雄『憲法第九条の時代―日本の国際貢献を考えるために―』岩波書店、1992、p.20。 |
(4) |
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個々の信仰者でもその集大成でもなく、公式文書に表われた見解を、便宜的に、意味する。時として「教会」「カトリック教会」等とも記述する。 |
(5) |
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Catechism
of the Catholic Church, London, Geoffrey Chapman, 1994. |
(6) |
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概念規定等については第三章に後述することを許されたい。 |
(7) |
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西山俊彦「多元的事実の位相的構造―社会学的立論への予備考察(3)―」『サピエンチア』19号、1985、1-15、他参照。 |
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〔T〕日本国憲法と平和主義 |
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「日本国民は、恒久の平和を祈願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。・・・・・・
われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを
確認する。」
(日本国憲法前文第2項より)
「@日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力によ
る威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」
「A前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認
めない。」 (第九条
〔戦争の放棄、軍縮及び交戦権の否認〕)
日本国憲法に示された「平和主義」の宣明であり、「戦争放棄」の規定である。「法」とは、最も一般的には、「一定社会とその構成員が自己の行動を規制する諸規範の体系化されたものであって、それによって、相互の価値と利益の調整を実現する制度(8)」であり、法の一種である「憲法」とは「国家の統治体制の根本事項を定める法(根本法、基礎法)の全体(9)」とされている。日本国憲法が、「人類普遍の原理に基づくものであり」(前文第1項)、「最高法規(10)」「最高位の規範(11)」「根本規範(12)」であって、日本国憲法自身が前文において「これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する」(第1項)と宣言し、第九八条をもって規定する。日本国憲法は、「平和主義」「主権在民」「基本的人権」を基本原理としているが、なかでも「平和主義」こそ最大の特徴と言われる(13)。平和こそ人権擁護の前提条件、いや、(平和的)生存権そのものだからである(14)。
挙国一致の15年戦争によって得たものは壊滅的破壊と虚脱感だけという敗戦の憂き目を体験した国民も指導者も、非武装非戦の平和主義を選ぶのに躊躇するところのなかった時勢は、新憲法制定のための帝国会議を初め関連委員会の審議記録に著しい。例えば、「憲法改正草案要綱」について時の首相幣原喜重郎は枢密院非公式会議(1946・3・20)において――
「戦争放棄は正義に基づく大道で、日本はこの大旆をかかげて国際社会の原野をひとり進むのである。
・・・・・・原子爆弾の発明は、世の主戦論者に反省を促したが、・・・・・・他日新たなる兵器の威力により・・・・
交戦国の大小都市悉く灰燼に帰するの惨状を見るに至らば、その時こそ諸国は始めて目覚め、戦争の放
棄を真剣に考えるであろう。」
という表現でもって、「戦争放棄こそが正義に基づく大道である」ことを表明した。第九〇回帝国議会での時の総理大臣吉田茂のこの点に関する答弁は一抹の疑念をも差挟むものではない――
「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しては居りませぬが、第九条第二項に於て一
切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであり
ます。従来近年の戦争は多く自衛権の名に於て戦われたのであります。満州事変然り、大東亜戦争亦然
りであります。・・・・・・」
(衆議院憲法改正委員会六・二六。同旨、金森徳次郎、貴秀九・一三)
近年の戦争は殆んど自衛権の名の下に行われたことを指摘しつつ、新憲法第九条第一項は自衛戦争を否認してはいないが、第二項により交戦権は否定され、一切の戦争と一切の軍備を放棄した旨を明言している。第一次吉田茂内閣に副総理格で留まり憲法改正に尽力した弊原喜重郎は戦争放棄の歴史的意義と豊富を述べて新鮮である――
「改正案の第九条は戦争の放棄を宣言し、我が国が全世界中最も徹底的な平和運動の先頭に立って指導
的役割を占むることを示すものである。今日の時勢になお国際関係を律する一つの原則として、或る範
囲の武力制裁を合理化、合法化せんとするが如きは、過去に於る幾多の失敗を繰り返す所以であって、
最早我が国の学ぶべきところではない。文明と戦争とは結局両立し得ないものである。」(貴本八・二七)しかも、平和こそが我が国の繁栄を約束するとして――
「平和運動の先頭に立つとは、理念だけでなく現実の意義がある。一切の軍備とその費用が不要になる
から、他国に比べて極めて有利となり、平和産業の発達、科学文化の振興によって国際的地位を高くし
うる。」(貴本八・三〇)
と非武装非戦の理念を補強している。同じく文部大臣田中耕太郎も、戦争放棄が決して不正な侵略者に屈服することを意味しないと述べ(衆委七・一五)、芦田均「帝国憲法改正特別委員会」委員長の報告演説(衆
院本会議1946・8・24)にも、軍備撤廃がもたらす全面的、先覚者的意義付けが明瞭である(15)。以上少しく引用した通り、憲法制定に直接携った関係者の証言に、第九条の趣旨を字義通り理解していたことは明らかであり、国民一般がそうであったと同じく(16)、学会も例外ではなかった。小林直樹は「わが国の公法学界でも、日本国憲法が徹底した平和主義をとり、とくに第九条によって一切の軍備の保有を禁じ、自衛の為の戦争をも放棄したと理解する点で不動の通説が確立していた。第九条の文言を素直に読めば、法律の専門家でなくても、そう理解するのはごく当り前であろう(17)。」と解説する。
それでは、制定当時いかなる疑念をも挟む余地のなかった非武装非戦の平和憲法の下で、いかにして「N
ATO方式で計算すれば日本の軍事費は世界で第三位に達する(18)」までの“戦力なき自衛隊”を擁することになったのかをみることは(19)、平和憲法という「最高法規」であっても、規定、再規定・・・・・・の基軸をどこに置くかによって、文言としては同一規範が千変万化に華麗な変身を遂げ、全く“正反対”の事実を正当化する根拠ともなることの好個の例である。ここでは日本政府の見解に第九条の「解釈改憲」の要点だけを、深瀬の記述を借りて、明記しておこう――
「政府の第九条解釈において、憲法制定時の、『自衛権を否定したわけではないが、自衛戦争を含めて、
国の統治権すなわち「国権の発動」としての一切の「戦争」(自衛戦争を含めて)を放棄し、陸海空軍そ
の他の「戦力」は自衛のためであっても保持しないし、「交戦権」を認めない』という解釈は、建前ない
し説明上は、今日まで一応一貫しているといえる。しかしこの一貫性は、朝鮮戦争以降警察予備隊の創
設、保安隊、自衛隊が旧・新日米安保条約体制の枠内で成立、整備・教化されるに伴い、変化した。
⑴『主権国家固有の自衛権』に基づき(強調と拡張の変化)、⑵
武力的侵略に対しこれを排除する自衛
のための武力行動は可能であり(『自衛戦争』と区別して肯定する変化)、かつ
⑶ そのような自衛の為
の必要最小限の実力は『自衛力』であって違憲の『戦力』に該当せず(「自衛戦力」と区別して肯定す
る変化)、⑷
そのような自衛行動に際しての侵害行為は『交戦権』の否定と矛盾しない(「交戦権」概
念緩和の変化)という見解となっている(20)。」
「右政府の現在の見解は、言葉のうえでは、第九条制定時の原点見解と矛盾しないように、@自衛のた
めとはいえ『戦争』は放棄しており、A自衛のためでも『戦力』は保持せず(したがって『自衛戦力』
は違憲)、B戦争遂行のための『交戦権』をフルに用いることは否認しているから、違憲ではない、と説
明している(21)。」
以上政府の憲法解釈は、「正当防衛権」を「自衛権」と等置し(22)、
「自衛権」を新しい要因、領域、視点と順次関連させ、それをもって拡張変化させて行った顕著な例といえよう。しかし拡張変化のプロセスは得てして恣意的、独断的、それが「原点」解釈と似も似つかなくなるのは不可避的宿命である。先ず「正等防衛権」と「自衛権(23)」とは同義ではないことを初めとして、「自衛」と「侵略」、「自衛力」と「戦力」、「武力行使」と「戦争」は、言葉としては識別可能とはいえ、実態としては同物異称と言うべきではないのか。「交戦権の否認」は「自衛の為の武力行使」をどうして容認し得るのか、自衛という名の戦闘は戦争と同じではないのか、等々、もともと「自衛」のための武力行使は許されているが「侵略」のための武力行使はいけないとすれば、それが意図の差だけであるだけでなく、侵略されてからでは自衛は成立しないのであるから、自衛にために侵略してよいことになり、両者が区別できない上に、対立エスカレートは必至となる。軍隊を自衛隊とよび、陸海軍省を防衛庁と変更して問題解決することは、狼を山羊と、黒を白と見なすに等しい。奇弁、歪曲を重ねたあげく、「原点」解釈とは正反対の理解と現実を呈していても、“平和憲法”が明記する“非武装”“非戦”の平和主義に徹していることになる。政府見解は、「戦力なき自衛権」説から「戦力に至らない自衛力」、即ち、「武力による自衛権論」に迄移行した訳であるが、この間に一貫して示された論拠が「自衛の為の武力行使は実定法以前の権利であって、従って、『自衛権』は実定法によって放棄できない」ということであった。この点は憲制議会での吉田首相の答弁も明言しており、また、国連憲章第51条の規定にも整合的と傍証される(24)。第九条についてのさまざまな解釈、例えば、「自衛戦争・自衛戦力合憲説」(佐々木惣一説(25))、「第九条・国際政治的マニフェスト説」(高柳賢三説(26))、「『自衛力』合憲説」(田上穣治説(27))、「第九条変遷説」(橋本公亘説(28))、等の成立可能性は、論理的には、ない訳ではないが、“非武装”“非戦”の“平和憲法”の真意が「戦争の肯定、軍備及び交戦権の容認」であるとすれば、「戦争放棄や武力否定」を規定し、崇高な理念を深く自覚しこれを厳粛に宣言した平和憲法とは、全く無意味で虚偽的な規範となろう(29)。“Si
vis pacem, para bellum 平和を望むなら、戦に備えよ”,
平和を求めて戦う現実は矛盾であり、背理である(30)。平和目的は平和的手段でだけ達成可能という平和主義だけが論理整合性を有している筈なのに、だから軍備拡張、だから改憲という主張が声高に叫ばれ、核武装論まで飛び出してくる背理(31)は、どこに起因するのだろうか。伊藤正巳は指摘する――
「・・・・・・重要な点は、平和主義の理想を貫く解釈をするか、一定の自衛力を認める余地を与える解釈を
するか、解釈の目的を基本的にどこに置くかによって違いがでてくることである(32)。」
平和主義の理想を貫くか、現実妥協へと転換するか、前者は高価で困難だが後者は安価で容易である。もし前者であるのなら、「平和は正義の実り」、「正義なきところに平和なし(33)」を自覚し実践して行かなければならない。正義の実現こそ平和達成の条件であり能動的過程であって、平和は正義実現の結果であり受動的過程であるのなら、平和主義につく者が正義確立を主眼としなければならぬのは当然だろう。実は、憲法制定当時から、平和憲法の課題がどこにあるかは自覚されていない訳ではなかった。憲法前文他にはこの課題が見事に展開されている――「諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由の恵沢を確保することによって、再び戦争の起こらないことを決意」すること、「福祉は国民がこれを享受し、これが人類普遍の原理」であること、「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去することが、平和を維持」させること、「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのは、普遍的政治道徳の法則」であること、これらのポジティブで積極的な理想と目的を達成して初めて、国際社会において名誉ある地位を占め得ることを宣言した。いや宣言しただけではなく、「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的の達成を誓った」はずである。憲法発布は1946年11月3日、施行が明けて5月3日、未だ敗戦の荒廃と貧困のさ中にある間は積極的な貢献はできなくても、一旦回復発展への歩みが確かなものとなると、受動的な平和を甘受し続けることは許されなかったはずである。とかく平和憲法を推進できなかったのは、冷戦体制の抗し難い外圧に帰因させがちであるが、実際は、我々日本国民自身が目指した平和創出への取り組みを看過してきたからに他ならない。勿論、権力支配の構造変革を企るには、支配権力に勝るエネルギーの傾注が必要であって、日本一国のなし得る課題でなかったことは確かではあるが、「恒久の平和を念願する日本国民は、この崇高な理想を、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」先駆けとなることを決意したのではなかったか。変革を要するのは権力支配のあらゆる事実、規定、・・・・・・そしてそれらすべての前提としての価値基準である(34)。しかし、変革の担い手となりそのための高価な対価を払おうとしないのであれば、“一国平和主義”の“安保ただ乗り”と揶揄されても仕方なく、そこでは早晩、“普通”という既存の権力構造を至上とする“誠実”な現実主義者の“正論”に押し流されること必定であろう。有態に記せば、この点で平和憲法擁護論者の課題認識と対応は十分なものだっただろうか。勿論、反戦・反核・反憲法改悪の運動が顕著でなかった訳ではない。また同時的に提出されてきた「総合的平和構想(35)」、「共同提言『平和基本法』をつくろう(36)」も、「平和主義の逆説と構想(37)」、「権力非武装主義(38)」も、課題への全面的取組みであるか否かは別として、正鵠を突いたものである。しかしこれらが、他の世界大の取組み(39)に連動していない訳ではないとしても、平和憲法を遵守するとしている日本国民においてさえ、課題の全貌と必要性がいかほど定着しているか、全く覚束ないところではなかろうか。「自衛隊は必要」「自衛隊は合憲」とみなす者が多数を占め、同時に、「憲法第九条改正反対」を支持する者も過半数を上廻る意識調査の実態(40)が、ポジティブな平和主義への力強いサポートを意味しているとは決して言えないであろう。
平和が人類の至上価値なら、平和憲法は時代を劃する人類の快挙であった。平和主義でもってしか平和が可能とならないのなら非武装非戦は当然であった。しかし平和憲法を遵守するには構造的な正義の実現が不可欠であって、これは至って高価である。いつ迄も対価を払わないで非武装非戦を続けることが許されないのは最早明らか、本当は誰しも何が正道であるかを弁えているのではないか――それに応じた対価を支払う意思があるかないかが問題である。大勢の赴くままに既存支配権力に媚入り、安価で安易な“普通の国”として歩み始めるのも一つの選択、それでも世間並みの“誠実さ”を示すことはでき、“普通の国”は残る。今一つの道がある――制定後半世紀にして平和の原点に戻ること、もしこれが正義の大道で平和への唯一の道なら、今からでも遅くない――対価を払い始めることは可能であり、必要なこと、現在ほど体制変革への悲痛な叫びがグローバル大に蔓延した瞬間はなかったのだから。 |
【註】 |
(8) |
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『国民法律百科大事典』ぎょうせい、1984。
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(9) |
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『有斐閣法律用語辞典』1993;『全訂法学辞典』日本評論社、1971。
|
(10) |
|
伊藤正巳『憲法・新版』弘文堂、1990、p.10。
|
(11) |
|
佐藤功「憲法前文の法的効力」小嶋和司編『憲法の争点(新版)』有斐閣、1985、pp.16-17;山下威士「根本規範」
小嶋『前掲書』pp.23-26。
|
(12) |
|
G.ラートブルフ『法哲学』東京大学出版会、1961、222;237貢;田畑忍『改訂憲法学原論・全』有斐閣、1957、
pp.101-104。
|
(13)
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|
「改正憲法の最大の特色は、大胆率直に戦争の放棄を宣言したことであります。これこそ数千万の人命を犠牲とした大戦争を体験した、万人のひとしく翹望するところであり、世界平和への大道であります。」(衆議院憲法改正特別委員会委員長芦田均)、小林直樹『前掲書』p.25。
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(14)
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「平和的生存権」思想によれば「戦争廃止こそがあらゆる人権中第一の権利としての生存の権利」となる。深瀬忠一『戦争放棄と平和的生存権』岩波書店、1987、pp.152;226;従って、戦争は基本的人権の最大の侵害、鶴見和子
in 下重暁子「泥沼に咲いたハスの花」『軍縮』1994・6、pp.30-31;伊藤正巳『前掲書』p.164。
|
(15)
|
|
以上、深瀬忠一『前掲書』pp.113-147;伊藤正巳『前掲書』pp.161-177;小林直樹『前掲書』pp.23-42。なお小林p.196と杉原泰雄『前掲書』pp.5-6は文部省中学一年用教科書『あたらしい憲法のはなし』(1947)を引用している。
|
(16)
|
|
「未曾有の惨禍を体験した・・・・・国民のそのような空気が反映され、議員の多くがそれを支持し、政府も平和主義の理想を強調した。そこでは、平和国家の理念を実現することと、日本の防衛問題をいかに調整するかについてほとんど議論されていない。」伊藤正巳『前掲書』p.167。
|
(17)
|
|
『前掲書』p.43;伊藤正巳『前掲書』p.166。
|
(18)
|
|
杉原泰雄『前掲書』pp.13、15。
|
(19)
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|
1991年度、防衛関係費は
4兆3860億円、自衛官定員27万3801名(現員23万4177名)、防衛関係費の内、人件費・糧食費40.1%以外は、装備品購入費・維持費等を中心とする物件費。なお、日本の防衛関係費は、韓国の全国家予算(26兆9798億ウォン、1991年度)に近く、中国の全国家予算(3325億元、1990年度)の半分を超える額であり、NATO方式で計算すれば、日本の軍事費は、それをはるかに超えることとなる。杉原『同』pp.57-58。
|
(20)
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|
この他に、海外派兵、徴兵制度は違憲、攻撃的兵器は禁止されているが、武器禁輸、防衛費GNP比1%枠原則に緩和傾向がでてきた。深瀬忠一『前掲書』pp.340-341;253。
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(21)
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深瀬忠一『前掲書』p.253。
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(22)
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「@国際法の『自衛権(自)』が国際社会で占める地位は、国内法上の『正当防衛(正)』よりはるかに大きい。
A『正』の行動の範囲は、攻撃者との間に限定されるが、『自』に基づく武力行動の影響範囲は国民全体に及ぶ。
B国の『自』の発動の結果は甚大で、個人の『正』のそれとは比較を絶する。
C国の『自』発動の適正法について裁判的・事後的統制を行うことは、きわめて困難あるいは不可能である。」
深瀬忠一『前掲書』pp.261-262より。
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(23)
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横田喜三郎による「自衛権」の定義は「国家または国民に対して急迫または現実の不正な危害がある場合に、その国家が実力を持って防衛する行為の権利」(『自衛権』有斐閣、1951、p.45)とされ、「戦力」による反撃行為が組み込まれている。これに対し、田畑茂二郎の定義(『国際法講義下(新版)有信堂、1984、p.192)と山本草二のそれ(『国際法』有斐閣、1985、p.588)とは、「戦力」を必須の要件に含めていない。武力による戦闘手段にたよる「自衛権」と、他の平和的手段をも含む「正当防衛権」とはその内実を同じくするものではない。深瀬忠一『前掲書』pp.248、256-267。
|
(24)
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但し、国連憲章で明記されている「自衛権」は、紛争の平和的解決(第二条三項)と武力による威嚇とその行使の禁止(同四項)という大原則への例外である。深瀬忠一『前掲書』p.249。
|
(25)
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|
『改訂日本国憲法論』有斐閣、1952。
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(26)
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「平和・九条・再軍備」『ジュリスト』25号、1953・1・1、p.5;『自由』1965年1月号、pp.2-12。
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(27)
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「主権の概念と防衛の問題」『日本国憲法体系2』有斐閣、1965、pp.71-106。
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(28)
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|
『日本国憲法』有斐閣、1980。
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(29)
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|
小林直樹『前掲書』pp.49、59;深瀬忠一『前掲書』p.125。
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(30)
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「中絶医院医師を中絶反対元牧師が米国フロリダ州ペンサェラで射殺」(『朝日新聞』1994・7・27)した背理は自覚されても、国家の名における同じ背理が「戦争」と「死刑」の場合にも介在していることは殆んど意識されていない。
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(31)
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小沢一郎「普通の国になれ」『日本改造計画』講談社、1993;久保田真苗「小沢さん、間違っています」『世界』第580号、
1993・4、68-73;平野貞夫・国正武生「改憲論はなぜ噴出するか」『世界』同、74-88;国弘正雄・中本義彦「K.ウォルツの日本核武装論を問う」『軍縮』No.163、1994・6、pp.68-71。
|
(32)
|
|
『前掲書』p.176。
|
(33)
|
|
後掲『現代世界憲章』78。
|
(34)
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“The fact that it is so big a
job means that almost everything needs to be changed;our way of thin-
king, our education, our spending, our way of relating to God,to other
people and to other nations.”R.McSorley, S.J., Kill? For Peace? Center
for Peace Studies, Washington, D.C., 1982.
|
(35)
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深瀬忠一『前掲書』pp.438-543;杉原泰雄他編『平和と国際協調の憲法学』勁草書房、1990。
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(36)
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古関彰一他『世界』第580号、1993・4、pp.52-67;「平和基本法――私はこう思う」『世界』第583号、1993・6、pp.98-109。
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(37)
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坂本義一『世界』第597号、1994・7、pp.22-40。
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(38)
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太田一男『権力非武装の政治学』法律文化社、1978;『権力非武装の平和論』敬文堂、1987;『「豊かさ」の周辺――棄民と人権――』法律文化社、1994。
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(39)
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『ティンバーゲン報告』『ブラント報告』『パルメ報告』『ブルントラント報告』他、World
Policy Institute
の諸提言、4次にわたる「国連開発旬年」他、試みとしては少くないとも言えようが、これこそが世界大の力強い取り組みとして始動しているとは言えないであろう。
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(40)
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深瀬忠一『前掲書』pp.368-389;小林直樹『前掲書』pp.131-149。
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〔U〕キリストの福音と平和主義 |
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「平和の君」(イザヤ95;Uテサロ316)の福音が平和主義
Pacifism,
即ち、目的においてだけでなく手段においても平和でなければならないことは、当然であろう。平和を実現するために戦争を行うことは自己矛盾だからである。キリストは、常に、「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ2021;2026)と挨拶され、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ1427)と約束された。
平和こそ「神の国」(マタイ1228;ルカ1231他)の実現態(
LG 5-8;GS 77-83;PT1;アウグスチヌス『神の国』19巻13章)であるからである。
キリストの福音が価値基盤となるところには平和主義が支配すること、少なくとも、非武装非暴力主義が主流となることを、R.マクソーリー(41)は福音の次の5原理
Primary principles から帰結する――
1.
「神を愛し、隣人を愛せよ」(マタイ2237-40;マルコ1228-34;ルカ1025-28)は「敵をも愛せよ」
(マタイ543-48;ルカ627-36)をも当然含むもの、しかも、これは無条件的な
unconditional なもの
である。
2.父であり母でもある唯一の神への信仰は“人類皆兄弟”の実現なくしてあり得ない。この原理は
「暴力主義 militarism 」「人類至上主義 racism
」等、あらゆる差別と抑圧の超克を要求する。
3.御子キリストの十字架による贖いの対象とされ、極み迄の愛(ヨハネ131;フィリピ25-11)に相
応しい者と全ての人間がされたことは、国家或いは他のいかなる機関による非人格化をも排除する。
4.戦争でもって平和をもくろむことは、破壊でもって建設を、暴力でもって安全を、無法でもって秩
序を期待する矛盾である。平和という目的は平和的手段でもって初めて達成可能となる。
5.厩小屋に生まれ、貧しい家・町・両親と共に育ち、枕する所なく、宗教と国家の両者から断罪され、
罪人として処刑されたにも拘らず「敵をも愛した」のが善き牧者キリストの道、キリストを信じる者
とはその模範者となること。
以上の5原理によって(42)、キリストご自身の歩まれた道も、そのみ教えも、平和主義以外の何物でもない筈であるが、新約聖書にも暴力と戦争を否定していないと主張されている箇所も少くない(43)。初代教会と初期教父時代に一般化していた絶対平和主義(44)は、キリスト教の公認と国教化にともなって武力を肯定する現実妥協の道を取り始め(45)、アウグスチヌス(46)、A.トマス(47)等の精緻化を通して正義のための戦争を肯定する「正戦論」の立場となり、つい最近迄これがカトリック教会の公式見解とされてきた。正戦論とはいかなる正義論で、それが本当にキリスト教の立場であるのかどうかを問わなければならない。
第2バチカン公会議の規定によれば――
「戦争の危険が存在し、しかもじゅうぶんな力と権限をもつ国際的権力が存在しない間は、平和的解決
の凡ゆる手段を講じた上でないならば、政府に対して正当防衛権を拒否することはできないであろう。
国家の元首ならびに国政の責任にあずかる者は自分に託された国民の安全を守り、これほどの重大事項
を慎重に取り扱う義務がある。(しかし、国民を正当に防衛するために戦争をすることと他国の征服を
意図することとは異なる。また戦力の保有は軍事目的、政治目的のための使用をすべて正当化するもの
ではない。)」( GS79(48);USPP72(49);CCC2308(5))
文言、文脈が余り明瞭とは言えない。しかし、「正当防衛権(50)」に基いて、通常、「侵害された正義」を回復するための戦争、正戦、がかなり広汎に容認されているようである。注(22)他で指摘した「正等防衛権」と「自衛権」との間に介在する差異は意識されていないかのようである。勿論「平和的解決の凡ゆる手段を講じた上で」等の条件は付いているものの、「政府に対して正当防衛権を拒否することはできず
govern- ments cannot be denied the right to legitimate defence」,「国政の責任にあずかる者は自分に託された国民の安全を守る義務
government anthorities have the duty to protect the welfare of the peo-
ple entrusted to their care」があることを明言している。正戦への権利と義務は
USPP でも同様である――
「キリスト教徒には、侵略に対して、適切に理解される平和をまもる以外に何らの選択もない。これは
不可譲の義務である。」( USPP 73)
「公会議と歴代の教皇たちは、武力による不正な侵略の脅威を受けている政府は、その国民を守らねば
ならないと明確に言明してきた。これには、最後の手段として、必要ならば、武力による防衛というこ
とが入っているのである。」( USPP 75(51))
このように義務であることを明記して、歴代の教皇の発言を引用する――
「不正な侵略の脅威を受けている民衆または、すでにその犠牲となっている者は、キリスト教徒にふさ
わしいように考え、行動するとすれば、受動的に無関心でいることが許されないであろう。諸国民の家
族的連帯は、ますます、単なる傍観者として、無頓着な中立的態度ですますことを許さないのである。・・・・
人類の諸々の善の中で、社会にとって、それらは非情に重要であるから、その善を不正な侵略に対し
て防衛することは完全に正当である。その防衛は、攻撃されている一国を放棄しない義務をもつ諸国全
体の義務でさえある。」
(ピオ十二世教皇『1948年クリスマス・メッセージ』。1953年、1956年のそれをも参照)
ここで特に注目しておかねばならない点は、「すでに侵略の犠牲となっている者」だけでなく、「不正な侵
略の脅威を受けている民衆」にも「正戦」の権利と義務があると明記していることである。同じように
「これこそキリスト教徒たちが、どんな戦争形態にも反抗し阻止しようと奮闘しているときでさえ、正
義の基本的要件のために、不正な侵略に反対して適切な手段によりその生存と自由を守る権利と義務を
さえもつことを、何ら躊躇せずに想起する理由である。」
(ヨハネ・パウロ二世教皇『1982年世界平和の日メッセージ』)
歴代教皇の教説は粉うことなく、正義のための戦争は許されているだけではなく、義務でさえあると喝破する。ここで正戦のための戦いの成立条件が問われねばならないが、マクソーリーはアウグスチヌスとトマスに倣って5つ、USPP
は7つ、F.ストラットマン(52)は10の条件を掲げている。マクソーリーの指摘する5条件(53)は――
1.権限を有する公権による宣戦布告 Declaration of
War by Competent Authority
宣戦布告以前の戦闘突入は公権の乱用であって、無辜の民衆を殺傷する危険を増大させる。
2.戦争は紛争解決への最後の手段 War as a Last Resort
紛争解決のためにあらゆる平和的手段が十分試みられていること。国際連合、国際司法裁判所等、
国際機構による効果的仲裁が期待される。
3.宣戦布告する側に求められる正しい意図 Right
Intention
戦争突入は正義の回復のためであって、領土拡張とか経済権益の拡大のためであってはならない。
4.無辜の民衆の保護 Protection of the Innocent,
非戦闘員と非軍事目標への直接的攻撃禁止
無辜の民衆の生命は決して直接の攻撃目標とされてはならない。そのためには軍・民の区別明確
になされねばならない。
5.つり合いの原則 Proportionality
戦争によって発生する被害(損失)と戦争によって回復される善とを比較して、後者の方が大で
あること(54)。
以上に記した5条件(55)を総力戦と核破壊の現代戦が充足し、正義のための戦争を成立させ得るのであろうか。マクソーリーの掲げる反証のいくつかを例示すれば――
1.(宣戦布告)
ヒットラーのポーランド進攻、日本軍の真珠湾攻撃はもとより、ベトナム戦争、フォークランド粉
争、湾岸戦争においても宣戦布告はなされなかった。モスクワ・ワシントン間をミサイルが24分で飛
来する時代に米国下院に宣戦布告を議決させる余裕はなく、フォード、カーター、レーガン諸大統領
は「核先制攻撃」を核戦略としてきた(56)。現代戦には本条件は無意味である。
2.(最後の手段) 3、(正しい意図)
最後の手段かどうか、正しい意図かどうか、は全て為政者、権力者の恣意的判断に委ねられており、
国民大衆は世論操作の対象でしかない。これ迄にどの国の司教団もこの原理に従って自国の戦争を事
前に断罪したことはなかった。人間的事象については100%白か黒かというものはなく、誰しも自己の
案件については公平な裁判官たり得ず、殊に、「主権国家併立の国際社会の構造上自衛と侵略の区別は
不可能(57)」である。
4.(非戦闘員の保護と非軍事目標への攻撃禁止)
大都市への絨緞爆撃、核攻撃をもって消耗戦総力戦を展開する現代戦では適用不可能である。
5.(つり合いの原則)
T.ストーニヤーの試算によれば、20メガトンの核爆弾がニューヨークの中心を襲った場合、700万
人が、熱戦、爆風、放射能で死亡する。ケネディ大統領は、一旦核戦争が勃発すれば、8千万人のアメ
リカ人が死亡し、相手国にもそれに倍する被害が発生すると見積もっていた。C.セーガンの指摘した
「核の冬」が到来すれば、地球は氷点下の気候となり、餓死者が多発すると見込まれる。
「現代戦争は諸国民の生命・諸人権・幸福を根こそぎ破壊する現代の最大悪であり、とくに核戦争の惨禍
は『絶対悪』(湯川秀樹)であることを体験(58)」した上は、アウグスチヌスの洞察整理した「限定戦争論」ともみなし得る「正戦論」は成立の余地のないことが明白である。「核兵器は正戦論を爆破した(59)」といわれる理由である。このために教皇ヨハネ23世は「原子の世紀である現代において、戦争が権利の侵害を是正する適当な手段であるということは考えられないことである」(
PT127(60))と明言され、それ以来「正戦論はカトリック教会から姿を消した(61)」とさえ指摘されているが、これは正戦論の条件を現代戦が充たし得なくなったという点では正しくても、カトリック教会が正戦論を放棄したとの意味では決してない。なぜなら、先に引用したように、『地上の平和』(1963)以降に出た公式文書には、GS(1965)にも、USPP(1983)にも、最々近の
CCC(1994)にも正戦論はきまって登場する。このように指摘すれば、或いは、カトリック教会の本来の立場は反戦非戦の平和主義であって、止むを得ない条件の下においてだけ正戦論は許されているとの反論が返ってくるだろう。全くその通りではあるが、正戦論を容認する者の平和主義は無力で空虚なお題目となることを説明しよう。ただし、その前に教会が戦争を断罪していることを確認しておくのが適当と思われる。例によって『現代世界憲章』には――
「この教会会議は、すでに近代の諸教皇が宣言した全面戦争の断罪を認め、次のように宣言する。
都市全体または広い地域をその住民とともに無差別に破壊することに向けられた戦争行為はすべて神と
人間自身に対する犯罪でありためらうことなく堅く禁止すべきである。」(
GS80 )
と戦争行為はすべて、神と人間自身に対する犯罪であり、全てを賭して回避されなければならぬことが
確かに明白にされている。USPPでも、
「(1)
カトリックの教えは、どの場合でも戦争に反対し、紛争の平和的解決に賛成する前提で始まる。
(3)
いかなる種類の攻撃的戦争も、道徳的に正当化されえない。
(4)
『都市全体、または広い地域を住民と共に無差別に破壊することに』核兵器または通常兵器を
向けることは決して許すことができない(62)。」
と言明する。確かに反戦平和主義が第一原則であり、それが機能しない止むを得ない場合にのみ正戦論が許されることになっている。それが機能しない止むを得ない場合とは、「戦争の危険が存在
As long as the danger of war remains」し、しかも「じゅうぶんな力と権限をもつ国際的権力が存在しない
there is no competent and sufficiently powerful anthority at the
international level」間はというケースであった。常態では平和主義、非情の場合は正戦論を説いているかのようであるが、事実は全く逆である。なぜなら、国際的・国内的なパワー・ポリテックスが続く限り、「権威権限をもった国際的権力」は存在しなく、また、「戦争の危険」が常に存在するのが、常態だからである。例外とみなされていたものが常態であり、第一の選択肢とされていたものが架空の非現実、平和主義を第一原理とし、これが機能しない場合にだけ正戦論とは言っても、機能している唯一の現実が権力支配以外の何物でもない限り、正戦論しか選択の余地はなく、責任ある為政者は皆正戦論に依拠することになりはしないか。とすれば、教会が何よりも重視するとする平和主義はお題目でしかなく、しかも教会自身がこれを説いていると思っているのなら、それはこの事実にさえ気付いていない証左、もしこれを自覚しているのなら、「寝た子を起こすな」との配慮に徹していると言わなければならない。
平和の君の福音は平和主義であり、その教会の教説も平和主義であると想定するのは当然である。公会議の決議などには確かにその通りと言いたいのだが、実際は、条件付で、正戦論を容認する。「非情の場合」として示された正戦の条件、即ち、「戦争の危険が存在」し「権威ある国際的権力が未成熟」なのが現代政治経済の実態、「常態」、とすれば、「正義のための戦い」は「常に」正当化され、平和主義を旨とする教会が、実際には、戦争の正当化に手を貸している。平和の福音が正戦を支持するのが、現代戦が正戦の条件を充足しないから、矛盾しているのではない。平和の福音が正義のための戦いを義務とも権利ともしていることが矛盾なのである。この点を今少し明確にするために次〔V〕章にいくつかの概念装置を導入したい。 |
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【註】
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(41) |
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R.McSorley, S.J., New Testament
Basis of Peacemaking. Scottdale, Penn., Herald Press, 1979,
pp.15-32。
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(42) |
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この他に、例えば、マタイ538-48;1624-28;181-4;2237-40;ルカ637-42;ヨハネ1224;1334-35;ローマ129-21;
前コリント67;131-13、等々、絶対的平和主義を表している個所は無数に指摘することができる。
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(43) |
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マクソーリーが例示しているこの種個所は@ヨハネ214-16Aマタイ2652Bマタイ1034Cマタイ85-13Dルカ1121-22Eヨハネ1513Fルカ2236-38Gマルコ1213-17Hロマ131-7;前ペトロ213-17、であるが、@で「神殿から商人を追い出されたのは、暴力によってよりも、霊的・道義的権威でもってであったことなど、全く筋違いの理解であることが判明する。
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(44) |
|
McSorley, op.cit., 68-144;R.Bainton,Christian
Attitude toward War and Peace;A Historical Survey and Critical
Re-evaluation. New York, Abingdon Press,
1960.
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(45) |
|
宮田光雄「国家と宗教――ヨーロッパ精神史におけるローマ書13章――」『思想』No.841、1994年7月、他。
|
(46) |
|
R.L.Holmes, On War and Morality.
Princeton, N.J., Princeton University Press,1989, pp.114-145;
「正戦の主張は、カトリック神学史上いくつかの形態を取ってきたが、アウグスチヌスの洞察が、この神学の中心的前提となっている。」(後述
USPP82)「アウグスチヌスは、戦争が本来的に悪でありキリストの愛徳に反すると主張することをマニ教的異端と呼んで『戦争と征服は信念をもつ人々の眼には悲しむべき必要事であり、それにもまして不幸なことは、悪しき者たちが正しい人々を支配した時であろう』と明言した。(『神の国』第四巻、15章)」(USPP82注(31))
|
(47) |
|
『神学大全』U-U、qq.40;64。
|
(48) |
|
第二バチカン公会議『現代世界憲章
Gaudium et Spes -GSと略-』1965。
|
(49) |
|
アメリカ・カトリック司教協議会
『平和の挑戦 The Challenge of Peace:God's Promise and Our Response
-USPPと略-』中央出版社、1983。
|
(50) |
|
J.B.Hehir,“The Just-War Ethic
and Catholic Theology:Dynamics of Change and Continuity.”T.A.Shannon(ed.),
War or Peace? The Search for New Answers. New York, Orbis Books,
1982,pp.15-39, and National Conference of Catholic Bishops, In the Name of
Peace. Washington, D.C., USCC., 1983, pp.87-115;S.Hauerwas, Should War
be Eliminated? Philosophical and Theological Investigations.
Milwaukee,WI, Marquette U.P., 1984,p.1984,p,38;深瀬忠一『前掲書』pp.246-267。
|
(51) |
|
CCCでは“Lagitimate defence
can be not only a right but a grave duty for someone responsible for
another's life, the common good of the family or of the state.”(2265)となっている。
|
(52) |
|
F.Stratman, O,P., War and
Christianity. Today. Westminster,MD,1956.
|
(53) |
|
op.cit., pp.81-102.
|
(54) |
|
この他に「正当な事由
Just Cause」「相対的正当性 Comparative Justice」「成功の確率
Probability of Suc- cess」等が教えられている。USPP 85-100, CCC
2309参照。
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(55) |
|
これらは基本的にわが国の自衛権発動の3要件 (@)急迫不正の侵害、(A)他に手段がない、(B)必要最小限の実力行使(深瀬忠一『前掲書』pp.341,253)と、当然のことながら、同一である。
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(56) |
|
“On May 30,1975,Secretary
Schlesinger admitted that the U.S.favors first use of nuclear weapons.”R.McSorley,
op.cit., 1982, p.128.
|
(57) |
|
深瀬忠一『前掲書』pp.206-210。
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(58) |
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深瀬忠一『前掲書』p.91。
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(59) |
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M.Walzer,Just and Unjust Wer:A
Moral Argument with Historical Illustrations. New York,
Basic Books, 1977, p.282 in J.B.Hehir, p.26.
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(60) |
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ヨハネ23世教皇『地上の平和
Pacem in terris ―PT―』1963。
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(61) |
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伊藤正美『前掲書』pp.161-162;石田雄『平和の政治学』岩波書店、1968、pp.45-46。
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(62) |
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教書要約6貢。なおCCCでは“The
fifth commandment forbids the intentional destruction of human life”.
(2307)“All citizens and all governments are obliged to work for
the avoidance of war”(2308)“Every
act of war directed to the
indiscriminate destruction of whole cities・・・is a crime against God
and man.”(2314)と規定している。
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〔V〕平和主義の可能性と教会の課題 |
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平和の確立は、正戦論に平和主義が取って代ることができるか否かにかかっている(63)。とすれば、いかなる状態となれば戦争の原因である利害の対立が消滅し、抗争に代って平和主義が支配することになるのか、そのような状態について確認しておくのが適当であろう。
平和は「正義の業」「秩序の実り」「愛の実り」(GS78)と抽象的には表現される。これを具象的に表現すれば、当該社会のあらゆる構成員にとっての公正な資源(64)の分配と表現されようが(65)、それは次のケースに実現しているとみなされる――
(1) 当該社会の全構成員の絶対善性の実現
(2) (イ)
資源の稀少性の克服
(ロ)
各構成員の能力の平等化に基づく資源の平等分配の実現
(1)は人間主体の善性が達成されれば、財の寡多は問題にならない理由に基づき、外的世界の善悪は内的世界の善悪の投影であるところによっている。公会議の指摘は適確である――「すべての人が真の平和を求めて新たに改心することなくしては、すべての人のために、すべての所で真に、いっそう人間らしい世界を建設するという人類の仕事を果たすことはできない」(GS77)と。即ち、すべての人が「神の子に相応しい者」「神の子自身」(マタイ59)となった暁に平和は実現されるというのである。そして「人々が愛によって結ばれ、罪に打ち勝ち、暴力にも打ち勝つことができ、こうして『かれらは剣をすきに、やりをかまに打ちなおすであろう。国々は互いに剣を取り上げず、もはや戦いのために訓練しない』(イザヤ24)」(GS78)ということばが実現する。人間主体の善性がフルに発揮されるならば、互いに他者の幸せは自己の幸せとなるところから、分配の不平等は最早大した問題でなくなる、と同時に、いかなる公平分配も容易に実現可能となっている筈である。平和が達成されている社会には平和主義が通用し、平和主義が通用する社会には平和が実現されていることは、両者は相補的であると同時に、一方が実現していなければ他方も実現しないことを意味するが、いずれにしても、目的手段いずれも平和そのものである平和主義
Pacifism
は人間善性が例外なく実現されている状態に相応した行動規範である(66)。
(2) (イ)
資源の稀少性の克服(67)
(ロ)
各構成員の能力の平準化に基づく資源の平等分配の実現
平和を実現するには差別と抑圧を取除くこと、「人々の不一致の原因、とりわけ経済的不平等という不正を取り除くこと」(GS83)が不可欠である。「機会の平等」は現行格差を不問にする形式的平等に過ぎないところから、真の平等には「結果の平等」が保証されねばならず(68)、真の「機会の平等」を妨げている全ての不条理、即ち、「各自がその責任を問われる必要のない凡るハンディキャップ(69)」から解放されている必要がある。ここで、真の「機会の平等」だけが「結果の平等」を保証し、両者は同一概念であることは明瞭だろう。いかなる差異区別も搾取収奪に転化されることがなければ、抑圧・支配の構造もなくなり、実力でもって体制維持を計る警察軍隊も不要となって、自由と平等が基調となった平和と平和主義が確立されることとなる(70)。資源の平等分配は人間善性の実現なしにはあり得ないのだから、人間主体の変革なしには実現せず、平和主義が支配的となる状態はいつ迄たってもやって来ないというのが現実主義の見方である。この点について、公会議は「人間が罪びとである限り、戦争の危険は人々を脅かし、それは再臨の時まで変わらない」(GS83)と明言し、教皇ヨハネ・パウロ二世の指摘
「この世界においては、完全で恒久的な人間社会は、不幸にしてユートピアであり、そのような展望を
容易に達成できると考えるイデオロギーは、その背後にどんな理由があろうと、実現できない希望に基
づいている(71)。」
は我が目を疑わせるほど迷いがない。確かに現実主義者にとっては、平和主義とは平和が実現された状態に機能する行動規範であって、平和が未達成の状態にあっては、非現実的理想にすぎないが、現実社会にあっても「理想的」「究極的」価値体系を最優先規範とし、その実現を信じて全営為を結集する集団が存在する。それは宗教集団であり(72)、その最右翼の一つとみなし得るのが、「神の国」の実現を信じて「地上の国」を旅するキリスト教カトリック教会である(73)。ここに、天与の約束を戴き、人類普遍の価値規範の実現を根本原理として協働するとする教会が未完の価値を最優先する集団であるとの意味を少しく確認しなければならない。
キリスト者とその教会が旅して目指す目標は「神の国
Regnum Caeleste City of God (74)」の実現であり、これは暫々「地上の国
Regnum terrestre, Earthly city」に対比される。「時は満ちた。神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ115)、これがイエスの宣教の最初の一声であり、イエスが終始説いたのが「神の国」の福音だった。アウグスチヌスは大著『神の国
De Civitate Dei』(413-427)をもって、人類救済史を神の国と地上の国の相剋として把え、「自分を軽蔑するに至る神への愛が天的な国を造り、他方、神を軽蔑するに至る自己愛が地的な国を造る(75)」のであるが、終末においては前者は勝利し後者は罰を受けるものと洞察した。端的に実現すれば「神の国」とは「自己自身の存在を含めた凡ゆる事実と対象を(超越的・絶対的・究極的存在者としての)神との関係という超越的・絶対的・究極的枠組(視角、相、次元)に把えた完成態(76)」を指し、「地上の国」とは、上記以外のもの、即ち、「自己自身を含めた凡ゆる事実と対象を直接的には神以外との関係、即ち、即物的・相対的・有限的枠組(視角、相、次元)に把えた完成態(77)」に該当する。前者は「霊的、精神的、心的、内的、・・・・・・彼岸的」事実であって、そのものとして「善」であるが、後者は「物質的、身体的、機械的、外的、・・・・・・此岸的」事実であって、そのものとして「悪」であるかのように即物的に理解されることがあるが、これでは論理整合性は保てない(78)。ところでいかなる事実の規定にも価値規範が前提となるのであれば(7)、「神の国」の完成には絶対的価値規範「平和の福音」が不可欠であり、(日本国という)「地上の国」の完成には「平和憲法」という相対的価値規範が不可欠である。勿論、各々の完成態が「永遠の平和」と「地上の平和(79)」に該当する。「神の国」の完成態は「平和の福音」の完成態であって、それは、『カトリック教会のカテキズム−CCC−』によれば、イエス・キリストの受肉によって啓示され、聖霊の働きによって明かされて、信じる者の集いに実現され行く神の御教えである。より個別的には、「山上の垂訓」(マタイ51-12)「黄金律」(マタイ712;ルカ631)「新しい掟」(ヨハネ1512;1334)等に示された福音の実りであって、「愛の掟」「恵みの掟」「自由の掟」と呼ばれる掟に特徴づけられ、「福音的勧告
The evangelicalcounsels」(Tヨハネ316;ヨハネ1513)を含むものとされている(1949-1986)。
「神の国」という究極的事実に対応する究極的価値規範「平和の福音」は、教会の社会的関与と正戦論との関係に、いかなる特徴を有するものかを
(1)「現実的」(2)「普遍的」(3)「補完的」(4)「主体関与的」価値規範であることをもって説明したい。
1.「現実的価値規範」
「まず、神の国とそのみ旨を行う生活を求めなさい。そうすれば、これらのものも皆、加えて、あなたがたに与えられるであろう。」(マタイ633)神の国を告げる第一声には、それが何よりも優先して求めるに相応しいものであることが記されている。福音とは全存在を意味づけ豊淳にする「光」であり、「塩」であり、「芥種」であり「パン種」として比喩的にその効能が示されているが、より具体的に表せば、神の「愛」であり、「恵み」であり、「救い」であり、「赦し」であり、「信仰」であり、「希望」であり、・・・・・・「一致」であり、「平和」である。これらは非現実的観念ではないか、せいぜい終末論的事実ではないか、と言われれば、そうではなく最も現実的な現実である面を持っていることを明言しなければならない。先ず観念(的事実)は事実ではないとか、非現実的であるとかの指摘は余りにも非論理的であること、即ち、観念も観念レベルでの事実であり現実であって、この観念、理(想的観)念を共有できるか否かは、各種「基本的人権」とか「権利条約」(という観念体系)が受容されるか否かによって全く異なった世界が現出する、のと同様であることを指摘するだけで十分だろう。実に「観念なくして事実なく、理念なくして現実なし(80)」なのである。同様に、「超越的・絶対的・究極的」価値規範を踏まえて初めて「即物的・相対的・有限的」諸事実が規定されるのであって、これなくしては「即物的」事実が「即物的」であるとの自覚さえ生まれ得ない。実に「絶対・・・・・的」価値枠組が「相対・・・・・的」事実の成立・評価・統合に相即相反の形で介在する。「正義は社会制度の第一の徳性であって、これは真理が思想体系の第一の特性であるのと同様である(81)」といわれる所以であり、凡ゆる事実が倫理的特性を得るのも同じ関連性においてである(82)。例えば、各人はなぜ基本的人権を有し、それはなぜ例外なく尊重されねばならないのかも、より一層究極的な価値規範との関係に定立され得る命題である(83)。諸事実と同時的に価値観念、しかも究極的なそれが不可欠であるばかりでなく、「絶・・・・・」事実と「相・・・・・」事実とは相互規定的である点も重要である。相互規定的とは
「あらゆる時代の人びとが切望してやまない地上の平和は、神の定めた秩序を全面的に尊重してはじめ
て、これをきずき、固めることができる。」(PT1、163)
という並行関係であって、これが事実であるのなら、
「事実のところ、現代世界が悩んでいるような不均衡は人間の心の中に根を張っている基本的な不均衡
と関連がある。」(GS10)
ということになり、価値規範の未成熟こそが問題の根幹であると指摘されることとなる。
2.「普遍的価値規範」
カトリック
平和の君の創設にかかり、人類全員の救済を託されたとする普遍的教会は、普遍的価値規範の定立を固
有 Proper で第一義的 Primary
な使命とする集団であって、その役務の遂行には何の掛値も混りけもあっ
てはならず、真理を明瞭に決断的に余すところなく宣明する必要がある。神の「愛」でも「慈しみ」でも
「憐れみ」でも留保なく説かねばならない訳であって、例えば、泥棒が何人いても「盗み」はいけないこと
と断言し、「憎しみ」は一般的だからある程度までは当然とみなし、殺人はこれだけの率で発生するのだか
らこれだけ迄は殺してもいい、とは絶対言えないのである。正戦論についても全く同様なはず、集団の名
においても殺人は正当化することが許されず、「敵を愛せよ」とだけが神の国の規範なのである(84)。正戦
論についての矛盾は私的所有権についての教会の見解にも登場し、「全ては神のもの、神に形造られたも
の」(詩955)と神の主権を宣言し、「わたしたちは神の民」(詩957)と人間皆兄弟を告白していなが
ら、少数の権力者で神のものを山分けし、圧倒的多数が飢餓貧困にあるのを許している。告白している普
遍的価値規範が間違っているのではない。その適用が持てる者のためだけだから体制維持に奉仕している
のだ(85)。勿論これには不関与という関与も含まれる。教会の固有で第一義的に説くべき神の子の例外なき
「平等」であり、そこに必然化される公平、正義、平和であって、それ以外の現実妥協は「地上の国」の
事柄である。これこそが他の諸集団組織に固有で第一義的機能と自主性があることを尊重する「多元的社
会
Pluralistic Society」の原理であって、前稿で考察した政教分離もこの原則にそっている(86)。「神の
国」の福音を粉いなく証すこと、これが自由と自主性を尊重する多次元社会の鉄則であることは言う迄も
なかろう。
3.「補完的価値規範」
それでは教会がその創設以来「教育、福祉、医療、民生、文化のみならず、衛生、保険、経済、政治、
・・・・・はては、交通、治安、外交、防衛、軍事の領域に迄関わってきた(88)」のは筋違いだったのではとの
疑義が呈せられようが、これらが「地上の国」に関する事柄であって、教会の固有で第一義的な使命でな
かったことは明らかだろう。但し、もし、これら機能を固有で第一義的任務とする集団組織が不在或いは
機能不全の場合には、共同体性の原理に基づいて、補完的
Subsidiary な、即ち、非固有で第二義的 Se-
condary
な使命にも対処する義務があったことも了解されよう。実際、正義と平和に関しては、これ迄も
現在でも固有で第一義的使命とする集団組織はなかった訳で補完の必要は常にあり、教会のなしてきたこ
とは、大概、これに基づくものと同意できよう。但し、正義の求めるものは慈悲でも慈善でもなく構造変
革
Structural Change
であって、そのための課題は正に『地上の平和』が指摘するように膨大なものであ
る――
「今日、社会生活の所関係を、真理と正義、愛と自由との土台の上に再建する仕事が、すべての善意の
人びとに課せられている。諸関係というのは、個人相互間の関係、市民と国家との関係、国家相互間の
関係、最後に、個人、家族、中間団体、国家と世界共同体とのあいだの関係がこれである。この仕事は
どの仕事よりも高貴である。なぜなら、真の平和を、神の定めた秩序にしたがって、実現する仕事だか
らである(89)。」
膨大であるのは、「人びとが切望してやまない地上の平和は、神の定めた秩序を全面的に尊重してはじめて、
これをきずき、固めることができる」(PT1)からである。構造変革は人類構成員の自主的合意をまって初
めて可能となり、これは周到な計画展望はもとより、「すべての善意の人々の毅然とした決意と一致(90)」
が全構成員の主張となる世論の啓発とリーダーシップの発揮が不可欠である。教会の関与する第二義的な
領域での補完性の方向に関しては、それが「神の国」の完成と「平和の福音」に調和的であることが絶対
不可欠である。正戦論の適用と私的所有権の実態に示された実例ではこの要件を充たしているとは言えな
いだろう。
4.「主体関与的価値規範」
「世界の大部分が、極度の貧困に悩んでおり、あたかもキリストご自身が貧しい人々の中にあって大声で
その弟子たちの愛に訴えているかのようである。国民の大部分がキリスト信者の名をいただいているある
国々が豊富な富に満ち足りているのに、他の国々は
・・・・・飢えと病気とあらゆる悲惨に悩まされているス
キャンダルをなくさなければならない。」(GS88)キリスト者であるとはキリストの模倣者、そして主キリス
トは自ら十字架を担われたのだ。しかし地上の財資源は稀少性を払拭できず、トレードオフの関係を脱却
できる者はない。「敵をも愛せよ」という場合でさえ、敵を作ったのも、放置したのも我々とも言えようし、
また、我々だけが正しいという事実は殆んどない。人間規定的事実は例外なしに自己関与的事実であり、
100%白黒というものはないところからも、正義の戦いを始められる者はない筈だ。(2)で指摘した「絶・・
・・・・」事実と「相・・・・・」事実との相互規定性にもこの特徴は当嵌る。とかく教会の立場からすれば、「地
上の国」に「神の国」の価値規範が反映されていないことを嘆きがちではあるが、なぜ反映されていない
のかは、「神の国」の価値規範自体が確固たるものとなっていないからなのではなかろうか。「私は全てを
新しくする」(黙215)との約束がどのような前提の下に真実となるかは今更繰返す迄もなかろう。
「平和の福音」は「神の国」の真髄、本来の使命に徹する限り正戦論は説けない筈だ。日本の国が「平和
憲法」を放棄しても“普通の国”は残る。しかし、「神の国」を準備する神の子の集いが「平和の福音」を
放棄すれば後には何も残らない。
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【註】 |
(63) |
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伊藤正巳、『前掲書』pp.161-162。 |
(64) |
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資源、或いは財、とは自然的、物質的なそれだけではなく、社会的、文化的、精神的にも価値ありとされるあらゆるものが含まれる。 |
(65) |
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GS69。 |
(66) |
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「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す」(イザヤ116-10)世界は平和の実現態と目されているが、そこではどの主体も他の手段とは一切なり得ず(I.カント『永遠の平和のために』1795)、食物連鎖も許されぬところから、生命の維持も不可能であり、比喩的表現を出るものではない。 |
(67) |
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有限なる地球船という概念と、エントロピーの逆進性はないとの前提に従って、このケースを考察しないことは許されよう。 |
(68) |
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袖井孝子『不平等社会』高文堂出版、1977。 |
(69) |
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市井三郎『歴史の進歩とは何か』岩波書店、1971。但し、全構成員の能力が実際に均等化される必要はなく、例えば、「能力に応じて生産し、必要に従って消費する」というような思考原理の共有で十分である。 |
(70) |
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「マルクスは、市民社会的分裂の根本要因を私有財産のうちにみながら、その否定としての共産主義に『各個人の自由な発展がすべての人の自由な発展にとっての条件』(共産党宣言)である社会を求めたのでのである。」藤原保信『自然観の構造と環境倫理学』御茶の水書房、1991、p.165。 |
(71) |
|
『1982年世界平和の日メッセージ』12。但しパウロ六世教皇には「本当に欲するなら平和は可能である。そして平和が可能ならば、それは義務である。」(『1972年世界平和の日メッセージ』)もある。 |
(72) |
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岸本英夫の宗教の定義(西山俊彦『宗教的パーソナリティの心理学的研究』大明堂、1985、pp.22-26)参照。 |
(73) |
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第二バチカン公会議『教会憲章
Lumen Gentium ―LG―』1965、9。 |
(74) |
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「神の国」の究極完成態は、「神の王国支配」「神の統治」「神の王権」「神の権威」の完成とも表現されてきた。『聖書思想辞典』 |
(75) |
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『神の国(3)』(アウグスチヌス著作集第十三巻)第十四巻第二八章、教文館、1981、p.277。周知の通り、地上の国の自己中心性を「肉に従った生き方」、神の国の神中心性を「霊に従った生き方」とも表現する。同第二〜四章、pp.212-220;山
本和「アウグスチヌスの『神国論』と中世世界国家の理念」『政治と宗教』教文館、pp.233-255;金井新二『「神の国」思想の現代的展開』教文館、1982、参照。 |
(76) |
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規定(関連)枠組の相違による差異とは、所与としてのモノそのものの差異によるのではなく、事物が置かれる枠組によって新しい関連性を獲得すること、ここに「神の国」と「地上の国」の2分法が同一事物の2様態である特徴が理解されよう。
S.キルケゴール、『死にいたる病』白水社、1962年参照。 |
(77) |
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「時間的な事物の使用はすべて地の国においては、地上的な平和の享受に関係するが、しかし天の国においては、永遠の平和の享受に関連する。」『神の国(5)』第19巻第十四章、p.64。また、『神の国』の完成態である永遠の平和を究極的善であるとも指摘する。『同』第19巻第十一章、pp.55-56。 |
(78) |
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精神が善で物質が悪なのではないのは当然だが、それでは、神に従う神への愛に基づいているか、神に背く自愛に基づいているかが善悪の基準であれば、「超越的・絶対的・究極的枠組」の事柄であっても「即物的・相対的・有限的枠組」の事柄であっても、善悪どちらも可能となる。ここでは、「絶対・・・・・」「相対・・・・・」いずれであってもそれらが完成態に位置づけられる状態を善、欠損態に位置づけられる状態を悪とみなす。但しこの見方は、既に本文で指摘した、「『神の国』は勝利し『地上の国』は罰を受ける(第14巻第二八章)とは整合的ではない。
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(79) |
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「時間的な事物の使用はすべて地の国においては、地上的な平和の享受に関係するが、しかし天の国においては、永遠の平和の享受に関係する。」『神の国(5)』第19巻第十四章、p.64。
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(80) |
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西山俊彦『前掲書』1985、pp.260-263;「文明論としての都市社会学の視角」鈴木広編著『現代都市を解読する』ミネルヴァ書房、1992、pp.16-40;“普通の国”にも「普通」という既存体制の価値枠組が厳存しているにも拘らず無意識化されているだけ、友人、学生、夫、妻等々、いかなる観念、事実にも「あるべき
sollen」価値規範の前提がある。
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(81) |
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J.ロールズ『正義論』紀伊国屋書店、1971、3貢。
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(82) |
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「人間共同体の秩序は、倫理本質をもつものである。事実、この秩序は、真理を土台となし、正義の命じるところによって実現され、愛によって活気づけられ・・・・・、十全な自由のなかで、・・・・・・建てなおされなければならない。」(PT37)
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(83) |
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J.マリタン『人間と国家』創文社、1962、30貢。;尾高朝雄『法の窮極に在るもの』有斐閣、1955。
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(84) |
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マクソーリーは“正戦論
Just War Theory”の5条件を“Just Adultery Theory
正しい意向を持った姦通は許される?等の矛盾として揶揄している。op.cit.,
1985,pp.99-102。
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(85) |
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PT21;西山俊彦「私的所有権の人間本性性とその帰結―抄録―」『サピエンチア』第26号、1992、pp.331-353;「トマス・アクィナスに基づく私的所有権の再解釈と若干の帰結―抄録―」『英知大学キリスト教文化研究所紀要』第7巻第1号、1992、pp.75-92。
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(86) |
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西山俊彦「“政教分離”原則と解放の“神学”――教会の社会的関与についての整合的理解のために――」『サピエンチア』第28号、1994.pp.507-530;「平和(普遍妥当的秩序)定立課題と宗教集団――カトリック教会の社会教説にみる事例――」『サピエンチア』第27号、1993、pp.437-459。
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(87) |
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GS40,42他、西山俊彦「前掲論文」1994、参照。
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(88) |
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西山俊彦「前掲論文」1994、p.512。
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(89) |
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PT163。マクソーリー注(34)参照。
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(90) |
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ヨハネ・パウロ二世教皇『1982世界平和の日メッセージ』6。
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―ま と め―
戦争は正義の失われたところに発生し、平和は正義が回復されるところに始まる。とすれば、いかなる
レベルでいかなる対応が必要なのかは自ら決まる。
[平和憲法]
平和憲法が間違っているのではない。世界の現実と我々の対応が間違っているのだ。解釈改憲の長の歩
みは、平和憲法が前提としている平和構築への課題に背を向けるものである。
平和憲法は時代錯誤の一国孤立主義の独断であって、日本の国際貢献に逆行するという“普通の国”論
は、正義と公正に則った世界構築のために十分尽くして来なかった事実に限りその通りでしかないが、だ
から普通の国並みの軍事貢献をというのは論理の飛躍であって、なすべき本務は、専制と隷従、圧迫と偏
狭の除去された万人が平和のうちに生存できる正義に基づく社会の建設である。但し、もし、そのための
心的・物的コストを払い続けないとすれば、世界の孤児となるか、普通の国になるか、のどちらかである。
[平和の福音]
平和の君の平和の福音が平和主義でなければ矛盾である。カトリック教会は平和主義を第一原理として
説いてきたようであるが、「戦争の危険」と「国際的紛争解決機関が存在しない」という条件付で正戦を認
めている。例外条項のような装いは整えてはいるが、これこそが現実社会の現実であれば例外は常態に他
ならず、常に正戦は認められていることになる。文言と実際との落差は大きく偽瞞的である。
現代の戦争、特に核戦争は正戦の基準を充たし得ないから正戦はいけないとの論議が横行してきた。も
し充たし得たらいいかのような立論は、教会の使命に悖る暴論である。
[課題]
「平和は正義の実り」であるのなら、正義の確立に励むことこそ平和の大道である。
教会の第一の使命は「神の国」に完成、国家組織を初め諸他集団の使命は「地上の国」の完成、その目
的であり手段であるのが「平和の福音」であり「平和憲法」である。第一の使命の遂行には、神の愛、希
望、恵み、赦し、癒し、信仰、平等等、掛値なしの対応が必要である。また、機能不全か正義に悖る状態
がある限り、補完性の原理に基づく第二義的な使命の遂行が求められるが、この場合でも、第一義的目的
に即した補完であって、平和の福音には、正戦の肯認ではなく、平和主義しかあり得ない。この平和主義
は、当然のことながら、正義の確立をもってするものである。
方法論に区分された「神の国」と「地上の国」には、各々の組織集団が固有で第一義的な機能をもって
いるとする多元的社会論が対応し、これをベースにしなければ、教会の正常な役割遂行も、諸集団との調
和ある発展も保てない。
さまざまな混乱、無頓着、錯誤が現代の教会に認められるもの、未だに政教一致の桎梏に捉えられてい
るからかもしれない(91)。
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【註】 |
(91) |
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最終2項は西山俊彦「前掲論文」1994、参照。 |