神社参拝と宗教行為の規定の恣意性


―「信教の自由」原理の確立と「カトリック教会の戦争責任」に関連して(1)―
 

    西山俊彦

 
 

【U】
 

2.シャンボン大司教の鳩山一郎文部大臣宛照会、並びに、それへの回答

 
 東京教区長A・シャンボン大司教は1932年9月22日付書簡をもって鳩山一郎文部大臣宛に次の照会を行った――
 「拝啓 学校行事トシテ天主公教徒タル学生生徒児童ガ神社並ニ招魂社参拝ヲ要求セラルルニ際シテ生ズ
 ル困難ニ関シテ閣下ニ数言ヲ呈スルヲ栄光ト致候
  日本ノ天主公教徒ノ忠誠及ビ愛国心ニ就テ或ハ天主公教会ガ日本ニ於テモ他ノ諸国ニ於ケルト同ジク正
 当ナル政府ノ権威ニ対スル衷心ヨリノ尊敬ヲ育成スルニ貢献スル所少カラザル事実ニ就テハ何人モ之ヲ信
 ジテ疑ハザル所ト存候却ツテ上述ノ困難ハ天主公教徒ガ自己ノ信奉スル以外ノ宗教ノ儀式ト同一ノ観アル
 諸儀式ニ参加スル事ニ対スル良心の反対に基クモノニ有之候
  サレド前記ノ行事ニ参加スルヲ要求セラルル理由ハ言フ迄モナク愛国心ニ関スルモノニシテ宗教ニ関ス
 ルモノニアラズト被存候
  故ニ若シ彼等ガカカル機会ニ団体トシテ敬礼ニ加ハル事ヲ求メラルルハ偏ニ愛国的意義ヲ有スルモノニ
 シテ豪モ宗教的意義ヲ有スルニ非ザルヲ明ニセラルルナラバ参加スル吾人ノ困難ハ相当減少スベキ事ヲ茲
 ニ閣下ニ明言致候
  以上申上旁々本職ハ重ネテ閣下ニ対シ敬意ヲ表シ候敬具」
ここで何よりも先ず確認しておかねばならない要点は、シャンボン大司教が何を問わせたかということである。回答の適確さを吟味する前提だからである。筆者の理解によれば、照会は教会の窮状を説明し、教会の把握した「神社参拝」の目的、或いは、理由(以下理由と記す)に同調を求める第T項と、それに準じた文部省の見解、或いは、保証を求める第U項に2分される。(T)において同調を求めたのは「学校行事としてカトリック信者である学生生徒児童(以下学生と記す)が神社参拝、或いは、その儀式に参加すること、を要求せらるる理由(傍線筆者、以下同様)」について、それが(A)「愛国心(の涵養)に基づくもの」であって、決して(B)「宗教心(の涵養)に関するもの」でないことを保証して欲しいということであって、このように教会が了解していることに同調を求めるものとなっている。この段階では文部省の意図しているものが(A)(B)いずれなのか、或いは、全く別のものなのかは回答を待つしかないが、第T項でシャンボン大司教が尋ねたところは、文部省が学生に神社参拝を要求する理由であって、(X)「神社参拝が宗教 的行為であるか否か」については一切尋ねていないことを確と留意しなければならない。第U項も、同様に同調を期待しながらではあるが、照会事項は「故に若し学生がかかる機会に団体として敬礼に加わる事を求められるは 」(A)「偏に愛国的意義を有するものであって」(B)「豪も宗教的意義を有するものに非ず」と明言して欲しい、との回答を促している。(U)の主語である「学生が敬礼に加わる事を 求められるは」について、これは「求められる行為」とも「求められている理由」とも、字義上は、置換えられないことはないが、もし前者であれば「学生がかかる機会に敬礼に加わる事を求められている行為は」となり「敬礼に加わる事」という行為と「求められている行為」とが重複して余りにも冗長不自然で意味をなさない。それに反し後者であれば「学生がかかる機会に敬礼に加わる事を求められている理由」となり、文意が通じる上に、第T項の論旨とも整合的となる。ここ第U項でも尋ねているのは神社参拝の「理由」でしかないと言わざるを得ないが、照会者の期待していたところは行為としての神社参拝の意義ではなかったかと推測させる部分がなくはない。なぜなら、「参拝を求められる(理由)は、愛国的意義を有するものか、將又、宗教的意義を有するものか、(前者であって欲しい)」と言っているからである。但し 、このように「神社参拝行為」の「宗教的意義」或いは「非宗教的意義」の判別を求めたとみなす教会当局者の解釈は、明示的文面からは出てこない余りにも我田引水の臆断であって、照会の本意は、やはり、「文部省が神社参拝を学生に要求する理由」であったと言うしかない。にもかかわらず、この見解が殆んど全ての事例に踏襲され、参拝容認の根拠とされて行ったのは「スリカエ」と 言うしかないが、照会についての教会当局の臆断が、或いは文部省の回答に表れていないかどうかを、次に検討しなければならない。
 上記シャンボン大司教の照会に対し、文部省は9月30日付粟屋謙文部次官名の書簡(雑宗140号)をもって
以下の回答を行なった――

 「天主公教会東京大司教へ
 九月二十二日ヲ以テ御申出ノ学生生徒児童ノ神社参拝ノ件ニ関シテハ左記ノ通御了知相成度此段及回答候
      記
  学生生徒児童ヲ神社ニ参拝セシムルハ教育上ノ理由ニ基ツクモノニシテ此ノ場合ニ学生生徒児童ノ団体
 カ要求セラルル敬礼ハ愛国心ト忠誠トヲ現ハスモノニ外ナラス」
 

ここで明確にしておかねばならない要点は、先ず回答の主題(語)が何であり、それは照会に対応したものであるかどうかという点である。文部省の回答も同じく第T項と第U項の二つに分かれている。第T項は「神社参拝を政府文部省が求める理由(傍線筆者、以下同様)」であって、それは(A)「教育上の理由に基づくもの」としているが、(B)「宗教上の理由に基づくものではない」とは決して言っていないし、(A)からだけではその可能性を否定も肯定もできない。一定の行為を求める理由は幾つでも列挙可能で、しかも、それらは伸縮自在のものだからである。しかしこの第T項で一番重要なポイントは「文部省が神社参拝を求める理由」について回答しているという点であって、「求められた行為が宗教的なものか否か」については回答は一切触れていない点である。回答第T項から「神社参拝行為云々」はひねってもさすっても出て来よう筈はなく、しかも、回答第T項は照会第T項に正確に対応したものとなっている。もしも回答第T項から「政府文部省が神社参拝行為は宗教行為ではないと明言した」と理解するならば、それは「スリカエ」或いは「捏造」以外の何物でもないことは明白であろう。その上、以上の確認は「文部省が要求している理由」に限ってのものであって、文部省以外の関係主体、例えば内務省神社局とか在郷軍人会、宗教報国会等々が理解しているその他の理由とか、文部省を含めた関係主体が神社参拝行為を「宗教的行為」とみなしているか「非宗教的行為」とみなしているかに関しては一切触れていないことは指摘する迄もなかろう。次に回答第U項についてみれば、「此の場合に学生の団体が要求せらるる敬礼は愛国心と忠誠とを現すものに外ならない」となっており、
(A)「要求せらるる敬礼は愛国心と忠誠とを現わすもの」とはあるが、第T項とは同様に、(B)「宗教心を現わすものではない」とは言っていない。もっとも「外ならない」という強調表現を「愛国心と忠誠」にだけかけて理解するか、或いは、ここで全く触れていない「宗教心を現わすもの」を排除するものとして理解する可能性もない訳ではなく、後者であることも全く不可能でないことは言う迄もない。それにも拘らず 、冒頭の句「此の場合」を加味すれば、「文部省が 教育上の理由に基づいて学生に神社参拝をさせる場合の敬礼は」「愛国心と忠誠とを現すものである」となるのであって、「文部省が要求する理由以外に基づく(同一であれ、又は、それ以外であれ)神社参拝での敬礼が、愛国心と忠誠以外の何か、例えば宗教心、を現わすものである可能性」を否定するものとはなっていない。従って、政府文部省が、「神社参拝」は、或いは一層の正確を期して、「文部省が要求した場合の神社参拝であっても、それ以外の神社参拝であっても」「神社参拝は宗教的行為ではないと明言した」と結論付けることは、照会と回答の双方からも、第T項と第U項の各々からも(A)(B)(X)のいかなる可能性からも、「スリカエ」解釈に等しいことは明白だろう。周到な対応策を練りに練った教会当局者がこの事実に気付いていなかったとは信じ難い。政府当局者も同様であろう。但し、政府当局者にとっては、回答がいかに「歪曲され 」「捏造され」ようとも、信者が国策に従っている限り干渉すべきではなかったろうが、自己の倫理規範に忠実たらんとして、反ってこのような「スリカエ」を行った教会当局者の誠実さは問われなければならない。しかも同種解決法は、後述のように、我が国の場合に留まらず、同種困難に直面した世界各地のケースに適用一般化され、解決原理とされて行ったのであるから事は重大である。今一つの小さな疑問は、交換書簡が中8日しか距てないスピード交換であったことであるが、 先にも記した通り、「関係当事者間で収拾にむけて度々話合いが持たれ、文部省が陰に陽に(上智を)かばっていた」のであるとすれば、“この線でいこう”と内諾していたことを文書で確認し合っただけだとしても、何の不思議もないことになろう。

粟屋文部次官の回答より教会当局者が得たとされる確証は
 「神社において国家的儀式が公に行われる場合、有識者の常識として、愛国心すなわち天皇家に対する尊
 敬と、国家のためにつくした恩人に対する尊敬の表明を目的とするものである限り、これらの儀式は単に
 国民的行事である(ため、カトリック信者が他の者と同様参列してもよいと教えるべきである)。」(11)
ということであった。この帰結について戸村政博は次のように評している――
 「……この模範的応答(原文「質問」)に付け加えるべきなにものもなかった。……教会の“困難”は、
 取り除かれた。それは、天皇制問題との接触を避けるために、神社問題を通俗的道徳問題に“避雷”せし
 めようとした教会の知恵であった。(教会は加藤玄智の謂う『国家神道の倫理的変装(カムフラージュ)』に
 屈したのである。)」(12)
と。絶対神信仰を否定しないで従来偶像崇拝としていたものを公序良俗として容認し、倫理原則を曲げることなく国家神道に与する道が拓かれたのである。ところが、繰返しになるが、「文部次官の回答」は193
2年9月30日付であるのに対し、『報知新聞』が“事件”を報じたのが同年10月1日、『読売新聞』が10月14日であって、これを機に
 「事件はカトリックに対する批難キャンペーンへと発展して」(13) 行ったのである。「在郷軍人会をはじ
 め、国粋主義団体、および、一部の神官、僧侶まで一体となった、キリスト教批判へと拡大する。当時、
 陸軍大臣であった皇道派の荒木貞夫は『カトリック否、全キリスト教そのものが国体と相容れない邪教で
 ある。その信者やその活動である学校経営は反国家的である』とし『文部省に陳謝する位のことで問題を
 納めるべきでない』(以上、上智大学創立六十年史『未来に向って』丹羽孝三回想録より)との見地から、
 陸軍省は12月7日に上智大学、暁星中学から配属將校の引き揚げを決定する。……」(13) という混迷状態
 であった訳である。ようやく「1933年11月26日の東京朝日新聞は、上智大学と暁星、お詫びかな
 う。陸軍配属將校を復活、と報じている。……明白なことは、事件後カトリック教会はこれまでの方針を
 変更し、教団をあげて神社参拝を奨励した(ことである)。」(13)
当時の情況は想像を絶する厳しさであったに違いない。カトリック教会は文部省の回答を得て政策転換を敢行し、生き延びる術を獲得した。存亡に係わる重大な転換であったにも拘らず、当時の『日本カトリック新聞』はこの事実を直接報じない。1932年11月20日付第371号で報じているのは次の予告である――
 「過般来、……神社不参拝問題について……眞偽取混ぜた報道が一般新聞並びに宗教新聞紙上に掲出せら
 れたが、我が『日本カトリック新聞』は期する所あって沈黙静観、今日に及んだのである。而して、今日
 茲に此の問題に関して初めて左の報道を掲ぐる次第であるが、次号に於いて大々的に我がカトリック教の
 眞意を闡明する所存である。(14)
  問題は相当デリケートなる点も勿論あり、これを軽々に處理すべきにあらずとの観点より、シャンボン
 東京大司教始め教会当局は愼重に研究を重ね、又、文部省当局とも協議する所ある一方、我がカトリック
 教会の国家、忠君愛国等々に関しての観念を明らかにするパンフレット『カトリック的国家観』発行に決
 し、これが準備中の處、此の程印刷も出来上りたるを以って、広く世に頒つ筈である。同パンフレットは
 東京大司教自らの指導によりて、田口芳五郎師執筆に当てられたもので、カトリック教会の公的声明書と
 言うも差支えないものである。(15) 之により、カトリック教に対する世人の誤解を氷釋し得ることを吾人は
 切望するものである。」
大変意欲的な予告は内容目次の紹介をもって終っている通り、『カトリック的国家観』は1932年12月1日に発行され、(17) 最終第七章を「神社問題を繞りて」(141-150頁)に当て、その末尾に「交換書簡」を原文通りに掲げ、シャンボン大司教の照会文に続いて次の解説、
 「大司教の書簡中にも見得る如く、カトリック者は、上述の忠君愛国の精神を保持することに於ては人後
 におちぬものである。カトリック者は自然法と神法との二重法を以て、忠君愛国の誠を致すべきであって、
 君のため、国のために必要とあらば、殉教するときの如き赤心を以て喜び勇んで死地に赴くものである。
 又、君の爲、国の爲に一命を致せる人々を敬うことに於いても、カトリック者は他宗教徒に優るとも劣る
 ものではない。カトリック教会は、其の創立当初から今日に至るまで、……君のため、国のため、祈りを
 獻げ来った。日本に於いても、カトリック者は、カトリック的宗教行事を以ても、……皇室と皇国とのた
 めに熱祷を獻ぐるとともに、他の方法を以ても、臣民としての、国民としての任務を忠実に遂行しつゝあ
 るのである。」
を記し、信者にとって忠君愛国が自然法と神法の命令であることを明言する。次いで粟屋謙文部次官の回答を掲げた上で、最末尾に、
 「よって、シャンボン東京大司教は其の管轄内のカトリック関係学校に上掲の文部省の回答を通告した。」
と明記してしめくくっている。転換の主因が厳しさを増す政治経済、軍事、……精神文化的情況にあることは言う迄もないが、今日迄 厳しく禁じられていたその同じ「神社参拝」が、今日は自然法と神法の命じるところとなるのは驚嘆以外の何物でもない。ここに倫理道徳の規範迄もが、情況の変化、力点の置き方一つで融通無碍に変節する事実を確認しておかねばならない。

 

【註】

(11)   後述するところの駐日教皇使節P・マレラ大司教宛1936年5月26日付布教聖省長官P・F・ビオンディ枢機卿の訓令。浜尾文郎司教「靖国神社に対する教会の態度は変化か?」『東京教区ニュース』第6号、1974・4・14、(2)。
(12)   戸村政博『神社問題とキリスト教』26頁。但し、戸村に交換書簡にみとめられる「捏造」についての指摘はない。
(13)   伊藤修一「日本カトリック教会における戦争協力への軌跡――1932年カトリックの靖国神社参拝拒否事件とは――」27頁。
(14)   但し、第372号には、第一面に全般的な キリスト教の解説が載っているだけで、ようやく1933年3月19日付第388号になって、第
4面に「リットン報告書の誤謬と満州国独立の正当性」と同面左下に小さく「神社参拝問題並に神社に関しての諸問題に就いて」と題した「質疑応答」があるばかりである。
(15)   第373号には「カトリック的国家観愈々発刊せらる――12月1日に――」と報じているが、第371号で予告されたところに反し、わざわざ「当パンフレットはカトリック教会の公的声明と言うべきであるとあるのを撤回する、たヾ東京大司教認可で田口芳五郎師の著である」と訂正し、実にデリケートな対応を示している。
(16)   1932年11月25日A・シャンボン東京大司教認可、カトリック中央出版部発行。
(17)   "L'Instruction du Délégue Apostolique au Japon, Archéveque Paul Marella, aux Supérieux des Instituts et Congrégations re- ligieuses du Nippon, Tokyo, le 8 Décembre 1935", (@) L.Magnino, Pontificia Nipponica, Parte Seconda, 1948, pp.130-140 ;
(A) P.Charles,S.J., "Instructio Delegati Apostolici in Japonia et Annotationes", Periodica de re Morali, Canonica, Liturgica
XXV, Juin 1936, pp.88-105 ; (B) P.Charles, S.J., "Les céremonies shintoistes au Japon", Nouvelle Revue Théologique. 64,
1937, pp.195-201.

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