無理を言っているでしょうか?
これが「戦責告白の可能な最後の機会」
だから、どうしても言っておかねばならないことではないのでしょうか

 

  
五十年で駄目なら六十年があるさ、六十年で駄目なら七十年があるさ、は、
歴史に生き、これに責任を担う信仰者の態度ではないと思えてなりません。
「被爆者には六十年はあっても、七十年はない」のと同様、
「信仰者にも、まだ対応可能な、六十年はあっても、七十年はありません」。

「良き牧者」としての生命をかけたご対応と適切なお導きを、切にお願いして送付した「要望書」を紹介させて貰います。


 

                高見三明大司教様宛要望書 (2005年 2月 7日 送付)

+ 平和のために働く人は幸せ

  四旬節を目前に大司教様には如何お遊ばしのことでございますか。日頃は何かとお導きに与らせて頂いております事、先ずは御礼申し上げます。

 さて、早速ではございますが、日本カトリック司教協議会・社会司教委員会から『戦後六十周年を迎えて』ようの文書が出されるとかと漏れ聞きました。そこでお願いでございます。『平和への決意―戦後五十年にあたって―』ようのものなら、絶対に、お出しにならないようにお願いしたく思います。と申しますのは、同文書では、結果については謝罪してはおりましたが、原因についてはおくびにも出さず、従って、それを改めようとする姿勢は、全く、認められなかったからでございます。これは、偏に、キリスト教の本質理解に掛かっているように思えてなりません。

 言うまでもないことですが、十五年戦争時には「われはなんじの主なる神なり、われのほか何者をも神となすべからず」を否定し、神社参拝を、自国への愛国心と忠誠心とにすり替えて、信仰者に奨励し、殉国宣教の名の下に、キリスト者を侵略戦争に駆り立てました。唯一絶対神を否定し天皇制絶対主義でもって取り替えれば、「平和の福音」も「愛の宗教」ももぬけの殻、命令一下、偏に破壊と殺戮へと狂奔することは、必然と言うものです。

 信じられないことですが、これこそカトリック教会が行ったこと、布教聖省訓令
SCPF N.1889/ 36(1936. 5.26)はこれを指示しましたし、戦後も同省訓令N.4934/51 (1951.11.27)でもって、前訓令に変更はない旨の駄目を押しました。だから、現在でも、神社参拝は奨励されたまま、武力による尽忠報国も憲法改正を待つばかりです。このような事態を放置したままで、「戦後五十年にあたっての“平和への決意 ”」を表明されたのです。宗教者のそれではあり得ないのは勿論、これ以上の非良心的な行為はあり得ないだけでなく、そもそも私たちが、どんな気持ちで「日本司教団教書」を手にしたかを思い測られたことがおありなのでしょうか。

 もう止めて下さい、もしも良心というものがおありなら、この背理、この冒涜を、と言わざるを得ません。キリスト教の他宗派では衆知を集めて「戦責告白」を行うのが、今では、主流です。これに対し、カトリック教会は位階制を採っていますから、司教様方がご指導下さるのに異論がある訳ではありません。しかし、そこには責任感が健在で信仰者としての良心が失せていないなら、と言う条件がございます。敗戦後はや六十年、「過去を振り返ることは、将来に対する責任を担うことです」を耳にしてからでも、既に、二十年以上が経過しました。ただ単に、十年が経過したという理由だけのために、改心も改善も伴わない“平和への決意 ”を、今一度、耳目にしなければならない事態だけは、お止め頂きとうございます。

                                   主において

      二〇〇五年二月七日

                               
西山俊彦

   日本カトリック司教協議会社会司教委員会
   委員長 高見三明大司教
 

    なお、念のために、拙文を付記させて頂きます。   
         『カトリック教会の戦争責任』サンパウロ、二〇〇〇年
         「教会は誠実に罪の赦しを願ったのか―『記憶と和解』に関する高柳師の所論に関連して―」
                                                       『福音宣教』二〇〇一年三月、
32-39.