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「市場原理主義」が、たとえ、「効率的」であったとしても、「所得分配の |
大阪カトリック正義と平和協議会『いんふぉめぃしょん』No.137、 2001.1.20、 4-5頁。 |
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「効率性」にはその土台をも問題としなければならない、との伊藤光晴の提起です。「市場原理主義」の土台とは、近代市民社会に自由と公正を保証すると見なされてきた「私的所有制度」です。「私的所有権」は「資本主義社会の法的基礎」(2)
とも「近代国家法の究極原理」(3)
とも言われますが、その実態が「既得権益の独占」に他ならず、自由と公正とは無縁のものであれば、「私的所有権」を土台とする「市場原理主義」も自由と公正とは無縁のものとなるからです。 |
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【註】 |
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(1) |
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伊東光晴「日本の都市問題と現代資本主義」、伊東光晴他編『現代都市政策T』岩波書店、1972、35-60、p.36。 |
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(2) |
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渡辺洋三『財産権論』一粒社、1985、pp.8、35、50。 |
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(3) |
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川島武宣『所有権法の理論』岩波書店、1949、p.40。 |
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(4) |
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不条理−Absurdity−とは「道理に反すること」(広辞苑) |
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(5) |
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市井三郎『歴史の進歩とはなにか』岩波書店、1971、pp.208、140 他。 |
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(6) |
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J.Galtung,“Violence,
Peace and Peace Research.” Journal of Peace Research. No.3,
1969,167-191. |
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(7) |
ガルトゥングはSVからの解放をもって、「消極的平和」に対する、「積極的平和」の実現と見なし諸学諸賢も鸚鵡返しに |
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(8) |
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世界銀行『世界開発報告 1998/99』東洋経済新報社、1999。 |
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(9) |
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(1)「自己の身体は自己のもの」であり
(2)「自己の身体の働きも自己のもの」、従って (3)「自己の身体の働きが生み出したものも自己のもの」と見なすのであるが、そもそも「自己の身体」を「自己の行為の所産」とできる者はおらず、「所与」にすぎないとすれば、(1)そのものが成立しない。J.ロック(1689)『市民政府論』岩波書店、1968、27-30項、 |
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(10) |
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CATECHISM OF THE CATHOLIC CHURCH, Geoffrey Chapman, 1994, 2401, 2403。 |
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(11) |
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詳しくは、西山俊彦「『構造的暴力理論』は『完全平等主義』と『絶対人格主義』との別名ではなかろうか?−『個人レベルの所与』からの解放をも『ポジティブな所与』からの解放をも不可欠としていることに関連して−」『英知大学キリスト教文化研究所紀要』第16巻第1号、2001年3月、及び、西山俊彦「私的所有権の不条理性」『平和研究』第24号、1999、 |
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(12) |
現代「国家」は所与性、拘束性、差別性の最大源であるところから、「すべて人間は」としなければ矛盾である。 |
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(13) |
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佐和隆光『資本主義の再定義』岩波書店、1995、pp.73-74。 |