市場原理主義にみる「グローバリゼーション」の矛盾

                              
西 山 俊 彦

   

                   人間主体の抜け落ちた「市場原理主義」がどうして「効率的」と
        言えるのでしょうか
 
        ーグローバル・スタンダードの普遍性 (12) −              

    

 大阪カトリック正義と平和協議会『いんふぉめぃしょん』No.138-1、 2001.2.20、 4-5頁。

           

 「戦争の世紀」であった20世紀は「難民の世紀」でもありました。2000年末現在でその数2200万人、(1) 日本は政治難民なら受け容れるが経済難民なら駄目だとか言って門戸を閉ざしておりますが、(2) そもそも「市場原理主義」の世界大の確立 −グローバリゼーション− が声高な現代にあって「難民」と呼ばれる人々がいること自体が不思議です ― 財・サービスの効率的な配分が「市場原理主義」の原則であり、労働力はその第一の要素なのですから ― 。定義を繰り返しますと、
  「市場原理主義」とは、「価格の調整で財・サービスの需要と供給を一致させて取引きを成立させる
 仕組み」(3) です。ここで想定されているのは「完全競争市場」であって、そこには、「個々の経済主体
 は(価格に影響を与えることができず、)価格を所与(プライステーカー)とし、消費者は効用最大化
 を、生産者は利潤最大化を原理として、行動し、また、資源の移動についての制限がなく、価格の情報
 が完全に市場参加者に与えられていること」(3) が条件です。

労働力は、資本、原料、技術、組織、情報等、諸他財・サービスを貫いて支配する最重要な生産要素であるところから、利潤最大化に基づいて行動するはずの労働者に、価格についての情報が与えられておらず、移動についても制限が課せられていれば、「効率性」は充足されないはずですが、資本・金融のグローバリゼーションを唱えて止まない「市場原理主義」者も労働力のグローバリゼーションだけはおくびにも出しません ― それがいかに「市場原理主義」に逆行し、「効率性」に反することではあっても ― 。
 労働力のグローバリゼーションは世界大の「労働市場」を、瞬時に、実現します。今、「一人当たりの国民総生産 GNP p.c.」を使って、(4) 丸めて、表現すれば、1998年現在、100ドルのエチオピア、110ドルの
コンゴ民主共和国(旧ザイール)、140ドルのブルジン等、低所得国の平均は520ドル、2600ドルのコロンビア、3600ドルのマレーシア等、中所得国の平均は2950ドル、高所得国では、40,080ドルのスイス、34,330ドルのノルウェー、33,260ドルのデンマーク、32,380ドルの日本等、その平均は25,510ドルとなっております。ところで、一旦、労働力の自由化に踏み切れば、各人は自由な利潤追求に生きるのですから、民族大移動が突発し、水が自ら高度差を直すのと同様、低所得国の35億1500万人だけでなく、中所得国の14億9600万人、合わせて50億1100万人、もの大波が、 8億8500万人の先進国に押し寄せます。これは瞬時に始まり、瞬時に終わります。その結果は、ほぼ誰もが現在の世界平均4890ドル近辺に納まることになりますが、これは生活水準を、先進国全体では1/5以下、日本ではほぼ1/7に急落させることを意味しますが、これこそ「市場原理主義」の妙技、「労働資源の効率化」に他なりませんが、資本と金融のグローバライゼーションを唱える「市場原理主義」者も、労働力の自由化についてだけは押し黙り、軍事力と警察力で国境を固めて怪しみません。ここで断っておかねばならないことは、資本の自由化、金融の自由化だけでよいではないか、それらは直接投資を促し多国籍企業を展開させ、途上国に産業を興して労働の機会を提供し、国民全体にもトリッキング・ダウンの(滴り落ちる、又は、おこぼれに与かれる)利益が浸透し、結果的にはキャッチ・アップの機会を提供しているのだから、という開発主義者の見解は、先進国の立場、資本の立場を代弁するに過ぎないということです。なぜなら、直接投資と開発援助の後に残るものが莫大な累積債務と地元産業の崩壊であることの他に、先進諸国からの海外進出は、途上諸国の廉価な労働力を廉価なままに、そして劣悪な労働条件下に、隔離して徹底的に搾取し続けて資本の効率化を企る、現代の奴隷制に等しいからに他なりません。もとより、資本・金融の自由化は、地元経済の振興を意図したものではサラサラなく、利潤確保のために一国の経済を葬り去ってお構いなしの “変わり身の早いもの”であることは、1997年のタイを始め東アジアの通貨危機に明白です。(5) また、デリバティブなどマネー投機に動く額が1日1兆5千億ドルであって、これは貿易取引額の実に75倍に当ることも、その正体を物語っています。(6) 
 
グローバライゼーションはアメリカナイゼーションと言われます。(7) アメリカ発のスタンダードであったとしても、他のいかなる物指し同様に、もしそれが普遍的に通用されるのなら、一定の普遍性は認めてよいのかも知れません。しかし、資本と金融の権利だけは徹底的に強化し、労働力と労働者の主権は徹底無視では、普遍性のカケラもなくなります。このような「市場原理主義」の独断が、途上諸国の異議申し立てと市民団体の大規模な抗議行動を惹き起こし、1999年米国はシアトルで催されたWTO−世界貿易会議−第3回閣僚会議を決裂に導いたのではなかったか、と思われます。(8)
 普遍性とともに効率性についても一言記さなければなりません。「市場を万能視し、全てを市場に委ねるべきだ、との市場至上主義の呪文」(9) が横行し、今や「市場は単なる手段ではなく、自己目的となっている」(10) とさえ評されます。よし実際に「自由な市場が資源の『効率的な配分』を叶える」(11)  ものであったとしても、「効率化」だけでは弱肉強食の功利主義を起点としても、利潤至上主義等を基準としてもいい訳で、(12)「何のための」効率化か、「誰のため」の効率化か、(13)  を吟味しなければ、有意義な定見は出てきません。価値と尊厳の源泉であり基準である人間主体を無視した「効率化」が独断と偏見に終始することは、もはや指摘する必要のないところです。

【註】

(1)

 

NHKスペシャル「難民と歩んだ10年・緒方貞子さんが語る」2001・1・20(土)、21:00−21:50。

(2)

 

「日本政府が難民と認定する者は毎年20人未満である。」、「形を変えた難民問題」『毎日新聞』2000・10・5 朝刊(23)。

(3)

 

さくら総合研究所編『経済用語の基礎知識 1999-2000』ダイアモンド社、1999、p.036。

(4)

世界銀行『世界開発報告 1999/2000』東洋経済新報社、2000。

(5)

 

金子勝『反グローバリズム』岩波書店、1999、pp.9,92。

(6)

 

湯野勉「積み上がる国際金融リスク」、加野忠他編『マネー・マーケットの大潮流』東洋経済新報社、
1999、17-46、pp.17-18。

(7)

 

佐伯啓思『ケインズの予言−幻想のグローバル資本主義(下)』PHP研究所、1999、p.165 ; 宮本憲一『グローバライゼーション−光と影−」、樋口陽一他編『グローバライゼーション−光と影−』サンパウロ、2000、37-51、p.39。

(8)

 

佐和隆光「グローバル市場の失敗」『市場主義の終焉』岩波書店、2000、pp.214-217。

(9)

 

佐和隆光『前掲書』、p.199。

(10)

 

S.ジョージ「グローバライゼーション−光と影−」、樋口陽一他編『前掲書』4-22、p.21。

(11)

 

佐和隆光『前掲書』、p.215。

(12)  

佐和隆光『漂流する資本主義』ダイアモンド社、1999、p.242。

(13)

 

佐和隆光『前掲書』、1999、p.12。

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