市場原理主義にみる「グローバリゼーション」の矛盾

                              
西 山 俊 彦

   

                「バブルの展開」は日本の対米従属姿勢に起因すると言われますが
        どんな事実があるのでしょうか?
 
    ーグローバル・スタンダードの普遍性(3)−              

    

 大阪カトリック正義と平和協議会『いんふぉめぃしょん』No.127、 2000.3.20、 5-6頁。

           

 前回には「バブルの発生」も「バブルの崩壊」も日本の対米従属姿勢にもとづくもの、との見方を紹介しました。どんな根拠があってのことかが、問われねばなりません。
 既にみたように1981年に登場した D.レーガン大統領は「大型減税」のよって「経済の活性化」を計り「未曾有の軍拡」によって「冷戦勝利」を確立しようと、邁進しました。ところがこれには莫大な費用がかかり、国内で調達できない資金は、海外、特に黒字大国日本から導入しなければなりませんでした。しかし、財政赤字と経常赤字が世界最大である国への資金の環流は、通貨不安と為替差損のため、経済原則に反します。にもかかわらず「新しい現実」(1) が生じていたとすれば、そこには恣意的、政治的介入が下支えしていたはずですが、80年代に起った「2つの危機」への対応がこの介入を如実に物語っています。
 [プラザ合意]
 1985年 9月にニューヨークはプラザホテルで表明されたG5先進国蔵相会議での協調介入への合意がこれに当ります。急拡大した「双子の赤字」にさすがのレーガン政権も耐え切れず、貿易不均衡解消を名目に「ドルの秩序ある下落」と「他国通貨の望ましい切り上げ」を企りました。当初1ドル 240円だったものが、3ヵ月で 200円のドル安となり、1987年 2月のルーブル合意時には 150円台となりましたが、アメリカの貿易収支は大した改善を見せませんでした。一方、4割の為替差損に直面した日本の輸出産業は合理化に合理化を重ねて凌ぎに凌ぎ、機関投資家の対米環流も、1986・7年の一時期を除き、大規模に継続されました。資金環流を根底から支えたのが「米・日・独の三国が同時に金利を引き下げ(、しかも、日・独が米よりも際立って低く設定す)ること」(2) でした。

 
[ブラック・マンデー]
 1987年10月19日(月)にはニューヨーク市場で前日比 508ドルという史上最大の暴落が起りました。(3) 
 その(1)、 大蔵省は日本の証券市場を反転上昇させてニューヨーク市場を反転上昇させようとする暗黙の行政指導を行いました。暴落の翌「火曜日に大蔵省担当者と四大証券代表の月例昼食会での微妙なやり取りの中で、その『意向』を把握した四大証券は大規模な買い出動に入り」(4) ました。  
 その(2)、 1988年 3月のこと、日本の機関投資家がドル債を売りに出るとの噂の前に市場の動揺を抑えるために大蔵省は生命保険会社に「売る積もりはないとの声明」を出させただけでなく、自身「外貨準備の9割をドルで運用していること」(5) を公表しました。
 その(3)、 「80年代の後半にはアメリカの長期国債の入札が近づくたびに、国債への応募や購入の意思の確認のために大蔵省は機関投資家に電話を入れ」(6) ました。
 それではなぜ日本の金融当局が日本の国益を無視し経済原則に反してまで対米従属に徹したかと言えば―「日本が米国債を購入しなければドルが暴落する、そうすれば一番困るのは日本ではないか」(7) とか「不安定なウォール街を安定させることは、国際協調の精神に沿った債権国日本の責務ではないか」(8) という理由でしたが、これでは「米国の経常赤字が続く限り、日本がこれを埋め続けなければならない」(9) ことになるだけでなく、「日本の金融当局の基本スタンスがあくまで対米協調にあること、ドルを支え続ける以外に独自のマネー戦略を持たないことを告白するようなもの」(10) でした。吉川元忠に言わせれば、
 
  
「日本側として利下げの名分には ・・・プラザ合意後の急激な円高に対する国内的な景気対策があった、
 と言えるかもしれない。しかし、景気対策がたまたまアメリカの要請に合致した、としてはいささか期
 間が長すぎた。景気実勢をみると ・・・87年には日本経済は早くもプラザ合意以前の5%成長を取り戻し
 ており、とうてい89年 5月まで 2.5%もの超低金利を続ける理由にはなり得なかった」(11)
と批判します。

  図[1]は80年代を通しての公定歩合の推移を
示すもの、日本は超低金利政策を長期に維持しただけでなく、同時に“絶妙なタイミング”でもってアメリカのそれより常に数%低く設定していたことを物語り、「写真金利」(12) (13)と呼ばれています。「市場開放」「内需拡大」の掛け声とともに長期にわたって継続された低金利政策による金融の超緩和政策が、アメリカには資金の環流を恒常化させて「レーガノミックス」を

実現させるとともに、(14) 日本には土地・株式の暴騰による空前のバブルをもたらした訳ですが、(15) 「バブ
ルの形成」(と「その崩壊」)の主因が日本の徹底した対米従属姿勢にあったことが、当時はおろか、今日でもどれほど理解されていると言えるでしょうか。

【註】

(1)

 

P.F.ドラッカー『新しい現実』ダイアモンド社、1989、pp.170-171。

(2)

 

吉川元忠『マネー敗戦』文芸春秋社、1998、p.75。

(3)

 

飯田経夫・水野隆徳『金融敗戦を超えて』東洋経済新報社、1998、p.60。

(4)

 

A.アレツハウザー『ザ・ハウス・オブ・ノムラ』新潮社、1991、pp.19-42
S.ストレンジ『マッド・マネー』岩波書店、1999、p.82。

(5)

 

吉川元忠『前掲書』、1998、p.81。

(6)

 

吉川元忠『前掲書』、1998、p.80。

(7)

 

吉川元忠『経済覇権 −ドル一極体制との訣別−』PHP研究所、1999、p.29。

(8)

 

吉川元忠『前掲書』、1998、pp.88-89。

(9)

 

吉川元忠『前掲書』、1998、p.87。

(10)

 

吉川元忠『前掲書』、1998、p.91。

(11)

 

吉川元忠『前掲書』、1998、p.77。

(12)  

吉川元忠『前掲書』、1999、pp.33-36 ; 飯田経夫・水野隆徳『前掲書』、p.2
石原慎太郎『宣戦布告「NO」と言える日本経済 −アメリカの金融奴隷からの解放−』光文社、1998、p.78。

(13)

 

87年12月には公定歩合を日本同様2.5%まで切り下げていた西ドイツは「小刻みに金利を引き上げ、89年10月には6%に
達する自主路線」(飯田経夫・水野隆徳『前掲書』、p.61)を貫き、バブルを回避しました。

(14)

 

「日本の黒字−そしてアメリカの赤字−は増え続けた。日本政府の外貨準備も増大し続け、その多くはアメリカの国債に
投資された。80年代、アメリカはソ連との間でポーカー・ゲームの賭し金をつり上げ、ますます国防費を増大させていった。
その費用は、日本のあげた利潤を貸し付けることにより、結果的には日本が支払ったことになる。」 S.ストレンジ『前掲
書』、p.80 ; R.ギルピンの同種見解については、吉川元忠『前掲書』、1998、pp.46-47 参照。          

(15)

 

飯田経夫・水野隆徳『前掲書』、p.14 ; 吉川元忠『前掲書』1998、p.110 ; S.ストレンジ『前掲書』pp.79-97。

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