市場原理主義にみる「グローバリゼーション」の矛盾

                              
西 山 俊 彦

         「市場の失敗」がある限り「市場原理主義」はその効率性を論証できない、
         と言われますが、「市場の失敗」とはどういうことでしょうか ?            
                                                                                       −グローバル・スタンダードの普遍性 (9) ー                                                        

   

 大阪カトリック正義と平和協議会『いんふぉめぃしょん』No.135 2000.11.20、 4-5頁。

           

 「資本主義の効率性」は「社会主義の崩壊」の事実からは出てこないことを前々回に、前回は、「市場原理主義」がモデルにする「完全競争市場」は仮定の話であること、を記しました。「市場の失敗 Market failure」がある限り「完全競争市場」は成立せず、「市場原理」の効率性も理論的裏付けのないものになります。佐伯啓思は直言しています ―
  「純粋な市場経済がうまくいくというのは一種の信仰であって、決して理論的にも実際上も論証された
 ことではない。ところが80年代の『新自由主義』の中で生じたことは、まさにそのことだった。いや実
 際に新自由主義のインパクトがいかに大きなものだったかが現れてくるのは90年代になってからである。
 ソ連、東欧の社会主義が崩壊することによって、その正しさが論証されたと解した『新自由主義者』は、
 まさに自由経済の中の社会主義的要素を徹底して洗い出そうと攻勢を加えた。こうして規制緩和や市場
 開放がほぼ無条件に肯定され、日本型経済システムやアジア的クローニー・キャピタリズム(身内の同族
 的資本主義)なるものが、無条件的に批判されるようになったのである。」(1) 

 「市場の失敗」とはどんなものかを見なければなりませんが、大別して次の2つに分類されます ―
1. 先ず、「市場が機能不全に陥り、市場メカニズムによる資源配分がパレート最適を達成できない場合」
  ですが、これも2つに細分されます。
  (1) 価格メカニズムが調整機能を果たせなくなるケースで、具体的には、市場に「独占・寡占」「価
    格硬直性」「情報の非対象性」「規模に関して収穫逓増」が認められる場合
  (2) 今1つは、財の性格上、それに対応した市場が存在しなくなる場合、具体的には「外部性」「公
    共財」「将来財」が認められる場合
2. 次に、「市場メカニズムが効率的に資源配分を行った場合にもなお残る問題」、具体例としては、市
  場において解決され得ない「分配の不公正」です。(2)
   これらは「市場原理主義」或いは「完全競争原理」のモデルに逆行する諸傾向であるばかりでなく、
  
自由化、規制緩和が進めば進むほど顕著になる傾向ですが、これらがどんなものであるかについて、少
  
しく、確認しておかねばなりません。
  (1) [独占と収穫逓増]
    「独占・寡占」とは「市場に需要者または供給者が一人もしくは少数しかおらず、自らの需要量や
    供給量を変化させることで市場価格に影響を与えることができる状態のこと」、これは市場価格
    については誰しも受容者でなければならない原則に反しています。「規模の関しての収穫逓増」と
    は、工業化社会では「収穫逓減の法則」(3) が働いて複数個の企業が市場を分け合い、自由競争が
    確保され、プライス・メカニズムも維持されますが、金融・情報・コンピューター・ソフト等が
    重要となるポスト工業化社会では、追加的コストは逓減して「収穫逓増の原則」(4) が働きます。
    1998年5月のダイムラー・ベンツとクライスラーのグローバル合併に見られるように、技術革新と
    環境問題の克服を目指して、ハイテク製造業会やハイテク・サービス業界での巨大合併が目下進
    行中なのはこのためです。(5) 「その結果、市場競争が『一人勝ち』に終わる公算が高まり、企業
    間の収益格差が、そして個人間の所得格差が、際限なく高まる(6) 」ことになります。
  (2) [公共財と外部性]
    「公共財」とは、公共の福祉のために公的機関が用意する財・サービスで、国防・警察・交通・
    衛生のような社会の基本的要件についてのものと、各種保険のようなセーフティネット(安全装
    置)のようなものがあり、一般道路とか灯台のように利用者から料金を徴収しにくい場合が多い
    です。「外部性」とは、空気や日光や天水のように財・サービスの生産・流通・消費にどうして
    も必要な要素(経済)であるにも拘らず、或いは、各種環境汚染とか公共機関による廃棄物処理
    のようにどうしても排出してしまう(不経済)にも拘らず、対価を支払わない要素のことで、殆
    どの経済活動は外部経済の“タダ乗り”と外部不経済の“タダ捨て”に依存しています。(7)

 「配分の不公正」についてはいずれ触れるとして、今回見たものは、経済活動の実態は「完全競争市場」モデルに逆行する「市場の失敗」の数々を、必然的に、抱えており、それがポスト工業化社会となってますます顕著になっているということです。「完全競争市場」モデルの理論的非現実性はもとより、ポスト工業化社会の劇的構造変革にも拘らず、未だに「市場原理主義」の効率性を大合唱し自由放任主義を賛美し続けることほど、非論理的で破壊的なことはありません。佐和隆光は指摘します ―
  「効率をひたすら追求する市場機構のふるう『暴力』がもたらす災禍の事例としては、極度の貧富の
 格差、短期資本の頻繁な流出入による資本市場の撹乱、公的教育・医療の荒廃、資産価格の暴騰・暴落
 の結果としての金融危機などが挙げられる。自然環境・地球環境の破壊もまた『市場の暴力』の一つに
 数えてしかるべきだろう。」(8)
結局のところ、「市場原理主義」の「効率性」の主張は「単純で御都合主義のイデオロギー」であって、これに世界経済の管理を託せるのは、無責任極まりないことと榊原英資は結論付けます ―
  「多くの経済学者や実務家の間には、問題の解決は市場の機能に任せるべきだという、自由放任主義
 的な考えがまだ広く浸透しているのが現状です。私は、これを九〇年代の『イデオロギー』と呼んでお
 ります。・・・ 私たちは、これほど単純で御都合主義のイデオロギーを信じて、世界経済の管理を“完全”
 な市場の機能に任せてしまっていいのでしょうか? 」(9)

 

【註】

(1)

 

佐伯啓思『ケインズの予言−幻想のグローバル資本主義(下)』PHP研究所、1999、pp.18-19。

(2)

 

さくら総合研究所『経済用語の基礎知識 1999-2000』ダイヤモンド社、1999、他の用語の解説もこれによる。

(3)

 

「もう一単位を追加的に作るのに要する追加的コストが次第に増加する法則」、佐和隆光『資本主義の再定義』1995、p.47。

(4)

 

金子勝『反グローバリズム』岩波書店、1999、p.41。

(5)

 

佐和隆光『漂流する資本主義』ダイアモンド社、1999、pp.115-129。

(6)

 

佐和隆光『前掲書』1999、p.239。 

(7)

 

西山俊彦「経済行為の成立根拠が『不完全競争』要因の独占に起因することの帰結  −『社会的効率の平等』そして『持続可能な開発』の実現不可能性に関連して−」『経済社会学会年報』第一九号、1997、pp.141-150。「持続可能な開発原理の二律背反性と普遍的秩序(平和)構築原理としての不可欠性」『平和研究』第21号、1996、pp.35-46。

(8)

 

佐和隆光『前掲書』、1999、pp.228-229。

(9)

 

榊原英資『市場原理の終焉』PHP研究所、1999、p.193。

TOP

INDEX
(全体)

INDEXへ
(GS)